ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2014 五年生存率

五年生存率

 みなさんは五年生存率という言葉を聞いたことありますか。私は五年前、大腸癌を患いました。五年生存率というのは癌について用いられることが主で、これは癌という診断を受けてから五年後に生存している患者の比率のことをいいます。癌の部位、進行具合など、個人差があるため一概に言えないのですが、一般的に癌を取り除いた後五年以内に再発がなければ治癒したといわれます。大腸癌の場合、五年生存率は七割だと、どこかで聞いたことがあります。私の場合、がん細胞がリンパに転移していたため、ステージ3に至っておりました。ステージ4が末期がんといわれる中、ステージ3は決して初期とはいえず、(お腹を)開けてびっくりという状態でした。あれから五年が経ち、先日がんセンターで卒業試験がありました。おかげさまで癌摘出手術から五年がすぎた今、再発もなく生存率七割に入ることができました。振り返るとあっという間の五年でもあり、五年前のことを思うとずっと昔のことのようにも思えます。

 大腸癌の宣告を受けたときのことは今も覚えています。お医者さんから急遽来るように呼ばれたため「もしかしたら」という覚悟の上での宣告でした。なので、すごい動揺はありませんでした。今も鮮明に覚えているのは、宣告を受けた後の帰り道、坂道のてっぺんを運転していたこと、ベッドに腰掛けて事実をどう受け止めたらいいのかと考えていたこと、元夫に電話して「癌だったよ」と話したこと、夜、子供たちをお風呂に入れながら泣けてしまったこと、どれも映像としてではなく写真のようにその場その場の自分の姿なのです。実際、まさか自分が癌になるとは思ってなかったし、癌は死ぬ病気だと思っていたので、自分は死の病にかかってしまった、という思いもありました。当時、息子は三歳半、娘は二歳になったばかり。自閉症の息子は癇癪の絶頂期、二歳の娘はまだ幼く事態を理解できません。私は生きたいと強く思いました。生きることしか考えられませんでした。

娘 二歳から七歳へ

 五年前、私が癌の摘出手術を受けたとき、娘は二歳でした。小さなときからしっかり者なのに、「ママがいい」といつも私の後を追ってくる子でした。元夫はその頃から外泊を頻繁にするようになり、私は自分の病気と癇癪を起こす息子のことでいっぱいいっぱいでした。そんな毎日の中で私の心を癒してくれたのは娘でした。娘はおもしろい子で、たくさんの「まあちゃん語」を話していました。お水のことは「おズミ」から始まり、最終的に「おチミ」となり、「もっと」は「もきーと」、「ミルク」は「ミク」。二歳にしてファッションに目覚め、毎日自分で服を選びたがるのですが、いつも探していたのは「ピンクのサマードレス」。寒い冬もピンクのサマードレスを着たがり、洗濯して隠しておけば、「ママ、まあちゃんのドエス(ドレス)ないねえ」と探し始め、どこに隠してもみつかってしまい、うれしそうに「あー!みちけた(みつけた)」と引っ張り出してくるのです。今思うと、娘との時間をもっと楽しめばよかったのですが、あの頃は楽しむ余裕はなく、ただそんな娘をみては微笑むのが精一杯でした。手術前、私は娘と近くのモールに時々出かけました。ふたりで1スライスのピザを食べました。娘が「ママ、おいちいね」と笑うと、その笑顔が天使のようで涙がこぼれそうでした。ふたりで手をつないで歩いていると娘は決まって子供服のお店に行きたがりました。サイズもわからずひたすら大好きなピンクの服をみると「ママ、ほしい~」と欲しがりました。二歳児なのに、服を見る目が真剣で、私はそんな娘が頼もしく見えました。モールからの帰りの車の中で娘は疲れて眠り、私はどうしてこの子を安定した家庭で育てられないのかと自分を責めていました。娘はまだ二歳。なのに、母親は癌を患い、父親は浮気を始めた。同じ二歳でもよその子供はみんな無邪気に両親に囲まれているのに、どうして娘はこんな悲しい家庭に生まれてきてしまったのかと私は娘に申し訳ない気持ちでした。

 あれから五年がすぎ、娘は小学二年生。黄色い帽子をかぶって毎日元気に学校に通っています。三月生まれの娘はクラスで一番遅く生まれたというのに、クラスで一番背が高いのです。私に似ずでかい子です。娘はとても優しい子に育ちました。彼女の発想は相変わらずぶっとんでいるので、おそらくこれはDNAに刻み込まれた個性なのでしょう。娘は小さなことで大きな喜びを感じてくれます。それはとても幸せなことです。意地悪されても相手を憎まないし、クラスのみんなが友達だというし、私の娘にしては上出来です。恥ずかしがりやなのに、授業中の発言が大好き。私は娘には自分のすべても誇りに思ってほしいと願ってきました。アメリカ人であり日本人であること、肌の色が茶色であること、父親は一緒に暮らしていないけどアメリカの校長先生であること。。。そういうことを誇りに思って欲しいと。娘が先日こんなことを言いました。「わたしはママが笑っていてくれると一番うれしい。そして、いつかお兄ちゃんの病気(障害)が治ったら、わたしがいろんなことを教えてあげる。ダダ(ダディー)は一緒に住んでいなくても大丈夫。ダダのことは私の肌の色をみたらいつでも思い出せるから。」あと二年もしたら私より背が高くなりそうな娘。今はまだ「ママのかわいいまあちゃん」でいて欲しい。だから、息子がいないときは娘を赤ちゃんのように抱きしめます。二歳のとき、十分に抱っこしてあげられなかったから、もう少し抱っこしていたいです。テレながらもうれしそうに笑う娘の笑顔はあの五年前のモールでピザを食べたときのままです。

息子 三歳から八歳へ

 三歳の息子はこだわりのかたまりのようでした。ひとつのことに固執するとそれが思うようにいかないと癇癪を起こしていました。例えば、冷蔵庫のドアの開閉。冷蔵庫からなにか出そうものなら息子が走ってきて、ドアを「あける!しめる!」と言いながら開けたり閉めたりするのです。障害のせいだと冷静に受け止めていられるときはいいのですが、私の体がしんどく息子のこだわりに付き合えないと癇癪を起こすのです。その騒ぎに余計に疲れてしまい、どうしてこうなんだ。。。と泣きたくなりました。自分が癌であることに腹立たしいこともありました。「私が死んだら、この子はどうなってしまうのか」と、目の前に突きつけられた現実に途方に暮れたこともありました。息子は他人には穏やかでしたので幼稚園ではかわいがられていました。そういう一面をみると「この子ならなんとか生き抜いていかれるか」と思ったり、それでも心配だから私は息子より一秒で長く生きたいと願ったり。。。先がみえない息子の将来が不安でもありました。

 現在、息子八歳は養護学校小学部の三年生です。娘同様に息子も背は高いです。小さな頃から変わらず顔は小さく目が大きく、座った姿は「小さな男の子」ですが、立ち上がるとすっと背が高くなります。相変わらずこだわりと癇癪はあります。ただ、三歳のときより自分をコントロールする力がついてきたせいか、思うようにいかず癇癪を起こしてもどこかで理性が働いてか当たる先は新聞紙で、ビリビリと破るとおさまるようです。なので家具や置物などを壊されることはなく、新聞紙が破られているだけですみ、その破られた新聞紙すらも自分で「もう破りません」と言いながら片付けています。うちでは妹といつもくっついてはケンカして、それでも妹が大好きなお兄ちゃんです。学校に行くと、クラスの中でも自立している方なのでクラスメイトの世話をしたり、先にたってがんばっているようです。外でがんばっているため、うちにいるときはわがままだったり、愚図れたりしますが、そういう発散する場も必要かと、今は息子の毎日の変化を見守っております。あの小悪魔のような癇癪持ちだった息子もこの五年ですっかり少年になりました。

私 この五年間の変化

 私はこの五年の間にいろいろなことがありました。癌、抗がん剤、腸閉塞。。。私の体は傷跡だらけです。夫の浮気、別居、離婚。。。私の生活は変わりました。自分の夫が浮気しているとわかったときは奈落の底に突き落とされた気分でした。癌と直面する一方で、振り向いたら夫はよそを見ていたような状態でした。抗がん剤治療はあまりにしんどいため、私は子供たちを連れて日本に戻ってきました。それまでは私は元夫に対してネガティブな気持ちしかもてなくなっていましたが、彼が私と子供たちを日本で暮らすことを認めてくれたことで私は精神的に開放された思いで彼に感謝するようになりました。以来、別居状態が長く続きました。そうなると離婚も時間の問題となってきていたわけですが、私は彼に対しては感謝であったり、子供の父親としてリスペクトであったり、常に口にする言葉は「ありがとうね」となっていました。結婚していたときはこんな気持ちで彼に接することはできなかったのに、皮肉なものです。そして、とうとうその時がきて、私たちは離婚しました。抗がん剤治療が終わってから、半年毎に病院で定期健診を受けてきました。問題なく、再発の予兆もなく、無事過ごしてきました。今年になり、私の中で大きな変化がありました。ずっと「私は残りの一生はひとりですごす。子供たちさえいたらそれでいい」と思ってきました。それが、一人で年をとっていくのは寂しすぎるし、いつまでも子供たちにしがみついていたらいけないと思うようになったのです。そして、今年三月、私の誕生日のすぐ後、ある人と知り合いました。その人とはたくさんの共通の趣味があり、話していると心が晴れていく気がしました。ずっと「もう男の人はたくさん」と思って生きてきたのが、この人が現れたことで生き方すら変わってしまいました。彼、Todはカリフォルニアに住んでいます。時差があるので思うように電話で話せませんが、それでも毎晩私が寝る前、そして私のランチ休憩のときにスカイプのビデオ電話でおしゃべりをしています。Todがいることで、私は自分の心が安定していくことに気がつきました。今までひとりで子供たちのこと、自分の健康状態を抱えてきました。そのこと自体は今も同じですが、Todに愚痴ったり話したりすることで、ひとりで抱えていたものが軽減されていくのです。遠距離なので彼が直接なにかしてくれるわけではありませんが、誰かいてくれると思うと心が穏やかで優しくなっていくのです。誰か一緒に年を取っていけたらいいなあ、最近そんなふうに思います。老後はひとりでいい、と思っていたころのような強さはなくなったけれど、愛されていると思うと心が優しくなれます。五年前、すべてのことから自分と子供たちを守ろうとトゲトゲしていた私の心も、五年生き延びた喜び、心の支えとなる人をみつけた安らぎ、成長したくましくなっていく子供たちによって、私はやっと自分の心に暖かさを持てた気がします。五年生き延びることできて本当によかったです。幸せってこんなことなのかな、と子供と一緒に、そしてTodと一緒に今を生きています。