ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2015 ホリデー

ホリデー 

 

 アメリカにいた頃、Fourth of July = Independence Dayはみんなでお祝いした思い出があります。独立記念日に花火をみにいったり、バーベキューしたり、楽しかったです。私はESL教師をしていたとき、ホリデーはとても大事な勉強の宝庫のように思っていました。ホリデーにはたくさんの文化がこめられています。由来から歴史を学び、どんなふうにお祝いするかという社会生活を学び、リサーチするスキルをつけ、それらをまとめる考える力を養い、それを書いて表現する力を高め、本当にいろいろなことに広げて学ぶことをしました。ESLの生徒たちはそれぞれ異なる国から来ています。アメリカ以外の国のホリデーをとりあげることもありました。ホリデーの度に教室のデコレーションを変えてもいました。日本の「お雛様」「こどもの日」を取り上げ、みんなで折り紙をやり、日本文化をリサーチしたこともあります。ホリデーの意味を理解し、お祝いできるようになるのは文化の継承だと思います。

 日本に戻り、特に子供たちが小学校に入学して以来、とても不思議に思ってきていることがあります。これはあくまでも私たちが住んでいる市でのことで、もしかすると他の地区ではそうではないかもしれないので、「日本では」ということが正しくないかもしれません。子供が保育園の頃は少なくとも、「母の日」「父の日」「クリスマス」「お正月」「七夕」「節分」くらいは作品を作ったりしてお祝いしていたように思います。それが小学校に入学以来、学校で祝日について話すことがなくなりました。子供たちが描いた「ママの顔」「ダディの顔」をもらうのはうれしかったです。七夕の短冊にびっくりするような夢を書いていたことも懐かしい思い出です。どうして小学校ではホリデーについて勉強しないのか不思議でなりません。子供たちは祝日は学校は休みになるけど、その意味を理解していません。「母の日」「父の日」は国民の祝祭日ではありませんが、絶対に知っているべきだと私は思うのですが、学校では話し合いません。子供たちはそれをテレビのコマーシャルで「今年の母の日は何日で、お花やプレゼントをあげよう!」と学びます。コマーシャルで学ぶことが正しいとか間違っているとかはわかりません。ただ、学校ではどうしてこんないい機会をいろいろな分野に広げて教えないんだろうと不思議に思っています。

 うちの子供たちは私たち親の離婚によって父親と離れて暮らしています。でも、父親を失くしたわけではありません。親が離婚しても子供には父親も母親もいます。アメリカでの友達で離婚した人は何人かいます。父親である人は、週末は子供がきて一緒に過ごしますし、母親である人は普段は子供と暮らしているけど、月に何日かは子供たちが父親のところに行く、というふうに離婚後も子供は両親の間にいます。でも、日本では離婚した家庭は「ひとり親家庭」と呼ばれます。ひとり親です。離婚したらどちらかの親の存在を失くしてしまうのです。子供たちの保育園の書類などで家族構造について書くことが度々ありました。私は当たり前のように、父親の欄に元夫の名前を記入し、別居とし、彼についての情報(職場であったり、生年月日であったり)を書きました。すると、「あ、お母さん、この欄は籍がぬけている方は記入する必要ありませんので」と、消すように言われました。子供の書類の父親欄は記入してはいけないのです。そういう意味ではうちは「ひとり親」なのでしょう。うちの子供の保育園では子供たちは「母の日」「父の日」にはママやおばあちゃんの顔、パパやおじいちゃんの顔を描いていました。いわゆる「ひとり親」家庭と呼ばれるうちに対して、「かわいそうに」と思う人もいるでしょう。お父さんのいない子供たちだから、父の日のことは触れないように、という気遣いをしてくれることがあるのかもしれません。こういうかわいそうな子供のために、母の日や父の日をお祝いしない幼稚園や保育園があると聞きました。私個人としてはこれはあまりに不平等に思います。うちの息子に障害があることで、「障害があるのは息子さんであり、ほかのみんなはそうではありません。」という理由でマイノリティーの障害児のために健常児の学ぶ権利や機会を奪わないようにと扱われてきました。では、ひとり親家庭の子供を考慮して、という理由で父の日、母の日について話し合わないというのは、子供たちから文化を学ぶ機会を奪ってはいないでしょうか。たとえば、親と一緒に暮らしていない子供がいても、養護してくれている親代わりの人に「ありがとう」という感謝を伝えることはできるでしょうし、本来、社会は子供たちをそうして育てていくべきではないのでしょうか。たとえ、親が亡くなったとしても子供の心の中には親は生きているのではないでしょうか。

 私が子供の頃、学校で母の日を前にお母さんの似顔絵を描いたことがありました。私の学区には養護施設があり、施設の子供たちが学校に通っていました。私のクラスにも施設の男の子がいました。普段はおとなしい子でしたが、時々キレて暴れる子でした。母の日の前の図工の時間、お母さんの似顔絵を描きました。みんな、赤い折り紙のカーネーションを似顔絵の端っこに貼りました。男の子はおばあちゃんの似顔絵を描いていました。白いカーネーションの折り紙を貼ろうとしたとき、「おまえのは、ばあちゃんだなあ」とからかわれました。男の子はおばあちゃんの似顔絵を真っ黒にぬりつぶし、ビリビリと破りました。先生は男の子を叱りました。あの頃も日本では、みんなと一緒ではないマイノリティーな子に対しては厳しかった。まだ幼かった私は、どうして彼だけ白い折り紙を貼らないといけなかったのか、どうして先生は画用紙を破ったことを叱ったのか、そんな疑問が残りました。大人の中に偏った考え方があるから、二者択一みたいな究極でしか判断できなくなるのではないでしょうか。

 先日の日曜日、父の日でした。うちの子供たちは父の日を覚えていませんでした。学校では話題にもならなかったそうですし、父親はアメリカにいるので、意識していなければ「父の日」は忘れてしまうのです。私が子供たちのためにできることは、子供たちが小さかった頃、ダディーがどんなことしてくれたのか、ダディーが日本に来た時の思い出を語り合うことで、子供たちのなかにいる父親を意識させることです。「ダディーいたから、二人とも生まれたし、生まれたからママとこうして暮らしていられるんだよ」と話し、今の生活のありがたさを感謝すること、そして子供たちからダディーにありがとうのメールをしました。

  日本の祝日は年間15日間あります。2016年から8月11日が「山の日」という祝日になるそうです。山に親しみ感謝することが目的の祝日だそうです。そうすると国民の祝祭日は年間16日になるわけです。これだけ祝日があるのに、なんだか一年中働いている気がします。そして、これら15日間(2016年からは16日間)の祝日の中で、その祝日の意味や歴史を知っているのは何日くらいあるでしょう。全てのホリデーを学校で取り上げてほしいとは言いません。でも、子供たちが社会の一員として生きていくとき、知っていたほうがいいホリデーは学校で話し合ってもらいたいです。クリスマスもバレンタインデーも日本独自の歴史に由来しておりませんが、実際の生活のなかではみんなお祝いし楽しんでいるのです。「日本の文化ではないから」と目をつぶらず、今の日本で活きているホリデーは受け止めてもいいのではないでしょうか。父の日も母の日もアメリカが発祥の地です。でも、子供たちが親に対して感謝する日が世界中でお祝いされているのが現実です。子供たちがたとえば親と一緒に暮らしていなくても「母の日」「父の日」を知らずに育っていいのでしょうか。いつか家庭を持ち、自分が親になったとき、「母の日」「父の日」を知らずに育っていたら、自分の子供たちにどうやって祝い方を教えてあげられるのでしょうか。文化です。文化は継承するものだと思います。文書に残すだけでなく、子供たちの心の中に楽しい思い出として印象づいたものは、自然と語り継がれていくでしょう。小学校はもっとオープンに、教科書から離れたところからも学ぶことを受け入れていってほしいと願っています。私は子供たちが保育園のときに描いてきた「ママの顔」を宝物にしています。「ママー、ママのお顔描いたよ。ママ、ありがとう」とうれしそうに絵を持ってきた子供の顔は今も忘れられません。