ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2016 2016年をふりかえる

2016年をふりかえる

 

 今年はなんだかあっという間に一年が過ぎてしまったような気がします。たくさんのことがありました。子供たちは一年でずいぶん大きくなりました。私は神経痛だの更年期だのと体は日に日に衰えてきているのに、子供たちの体は成長しています。息子の靴のサイズは24.5cm、私を越しました。偏食だった息子もいつの間にか「ママ、ヒレカツ弁当作って」「ママ、餃子食べたい」と食欲旺盛な11歳となり、今年一年で体重は7kg増え、身長は8cm伸びました。学校の毎月の身体測定の折れ線グラフの伸び方の勢いに驚くばかりです。娘は、去年の今頃は私が選んだ服ならたいてい着ていたのですが、今では自分の思うファッションにあわない服は引き出しの肥やしです。私と息子がじゃれていると娘の冷ややかな視線を感じます。私は娘の服の派手さといいますか、かわいらしさから彼女の服は着れませんが、娘は私のシャツを着ています。ちびっ子だった子供たちは成長期となり、あっというまに私より大きくなっていくようです。今年はまたいろいろなことがありました。ちょっとだけ我が家の一年を振り返ってみたいと思います。

 

 今年の春は本当に大変でした。息子の状態が悪く、強迫性行動が起こり、息子自身も苦しみましたし、私たちの家庭生活も儘ならないようになりました。当時は、いきなり息子がおかしくなったかのように感じ、その息子の姿は悪霊にとりつかれたかのようにさえ見えました。お風呂に入るのを嫌がり、なんとかお風呂まで連れて行けたとしても、シャツを脱いだり着たりを延々と一時間近く続け、お風呂の入り口で出たり入ったりを続け、シャワーを出したり止めたりを一時間繰り返し、やっとお風呂から出たら、パジャマを着たり脱いだりをまた一時間近く繰り返し、夕方六時から夜九時まで息子の入浴に付き合いました。入浴だけでなく、生活のほとんどはこんな調子で、トイレに入ればズボンを上げたり下げたりを延々と繰り返し、しまいには皮膚がすれて血が出てきました。朝、目が覚めれば、ベッドルームのドアの開閉を勢いよく繰り返すので、その音は家中どころかアパートの二階までも響く勢いで、私は朝がくるのを恐れ、当然のごとく夜もまともに眠れませんでした。当時の息子の担当医は、「お母さんが眠れていないから、お母さんの状態もよくないわけで、そうなると息子さんの状態はもっと落ち着かなくなります。お母さんが導眠剤などを処方してもらい眠らないといけません」と言われました。私が眠れないから息子が悪化するみたいな言い方に腹がたち、私は救いのなさにため息をつき、先の見えない遠くの空をにらみ付ける毎日でした。ちょうど春休みでしたし、娘はインフルエンザにかかったこともあり、おじいちゃんちに避難させました。

 今になれば、あの時の息子の気持ちも、どうしてそんな状態になってしまったのかもわかります。そして、どう対処したらいいのかも少しずつ学んできました。春、新学期が始まり、子供たちはひとつ上の学年に進級します。息子が生まれ、続いて翌年娘が生まれた頃、よく「今が一番大変だわ。大変な時はそんなには続かないよ。あと数年したら楽になるよ」と言われたことを思い出し、それがうちにはあてはまらないことに情けなさを感じました。健常な子供の子育てなら五年も続かないことをうちは十年たってもまだまだ先が見えない。子供たちが赤ちゃんだった頃から一体楽になったことがあるのだろうか。出かけるにしても多動の息子の手を離して歩くこともできない。また学年が上がるのにどうしてこんなに大変なんだ。。。と自閉症の息子の子育てにため息の連続でした。子育てを楽しむ余裕なんて私には贅沢すぎることなんだと悲観的にもなりました。私たちの生活に「いつか」なんてものはないとすら思いました。

 徐々に落ち着いてきた息子に、私たち一家の生活も比例していきました。強迫性行動もおさまり、いたずら小僧が戻ってきました。娘は小学四年生、学校の部活動が始まりました。私は小学生の頃、トランペット部でした。小柄なわりに肺活量があった私はトランペットを吹いていました。娘は私のトランペットを吹きたいといい、ブラスバンド部に入り、トランペットを担当することになりました。私が吹いていたトランペットが実家にあったので、それをうちに持ってきて毎日練習し、娘はあっという間に曲を吹けるようになりました。飽きっぽい娘ですが、トランペットは毎日欠かさず練習を続けています。夏休みも娘は毎日部活動に通いました。学校で吹いてもまたうちで吹き、本当にトランペットを楽しんでいるようです。八月は息子の誕生日があります。毎年夏休みには家族旅行をします。今年も恒例のサファリパークに行きました。ちょっと今までと異なるのは、家族旅行に参加するメンバーが一人増えたことです。私の友達のグレッグはアメリカ人、自閉症の息子をかわいがってくれており、息子の状態が悪いときも時々うちに来ては私たちと時間をすごしていました。「ユウのバースデー旅行に行くんだけど来る?」と誘ってみたところ、行くと言ってくれました。グレッグは新潟に住んでいるので、途中で待ち合わせて一緒にサファリパークに行きました。息子の世話はすべて私がしてきました。それが当たり前で、それ故、息子と私との結びつきは強くなっていました。グレッグは春、息子が強迫性行動でエレベーターに乗る際に足踏みを続けてなかなか乗れず、乗客のみなさんに迷惑かけていたときも、嫌な顔ひとつせず私たち親子のそばにいてくれました。「ユウ、かわいいんだよね」といつも言ってくれました。サファリパークではグレッグは息子と手をつなぎ、息子もグレッグになついてはしゃぎました。もしかすると、子供たちにとってこんな家族旅行は初めてだったかもしれません。アメリカにいた頃から、いつも私と子供たちの三人で動いていましたから、どんなときも私ひとりで子供たちを連れての旅でした。アメリカで高校の音楽教師をしていたグレッグと娘はトランペットの話で盛り上がりました。父親との生活を知らない娘はグレッグに戸惑いはあったものの共通の話題がトランペットとなると、延々と話し続けていました。私自身も三人以上の家族生活をどう受け止めていいのか混乱しながらも、息子の状態は落ち着いており、娘はトランペットの話を一生懸命話し続け、こういう時間が続けばいいのになあと願いました。

 年齢的に更年期となった私の体調も優れない日がたびたびあります。すぐに疲れてしまいます。時々はひどい頭痛に苦しみ、首・肩こりは日に日に悪化してきました。口癖は「あー、疲れた。しんどいな~」です。バッグの中には鎮痛剤を常備しており、一日の終わりにはヘトヘトに疲れ果ててお布団に入ります。幸い、更年期とはいえ、ほてりとか汗かきといった症状はありません。ただただ、疲れやすく、時々イライラしてしまい、ちょっと見ではわからない更年期のオバサンなのです。考えてみたら半世紀もの間酷使してきたこの体ですからガタがくるのも当然のことです。そうこうしていたら、今度は神経痛を患いました。最初はいつもの肩こりだと思っていました。ところが痛みは左肩のみどんどん増していき、そのうち腕を回せば激痛、痛みは昼夜関係なく常時感じるようになりました。「おお、これは肩こりじゃない、五十肩だ」と思いました。まさか、私が五十肩になるなんて。。。インターネットでみてみると、五十肩は数ヶ月に渡って苦しむとあり、「おお、私は今後数ヶ月、左肩が動かない不自由な体になってしまった」と嘆きました。さすがに三週間も痛みが続くと、なんとかしてくれ~と整形外科に駆け込みました。レントゲンを撮り、お医者さんから見せられた結果にびっくり。私はなで肩です。かわいらしい着物の似合うなで肩ではなく、かなりひどいなで肩で、いってみればアルファベットのAみたいな体型なのです。肩が下がっている分、首の付け根も下がってきていて、通常首の骨として出ている数より二つも多く骨がむき出たような状態になっているのです。そうなると神経が圧迫されて痛みが出るのだといわれました。しびれはないからまだよかったのですが、「神経痛」だとお医者さんから言われたときはさすがに「半世紀生きてきた体。神経痛」と老いを感じました。「大丈夫。痛みがあるからお薬を出しておきます。お薬だけでなく、理学療法士によるリハビリを受け、自宅でストレッチをやれば、数ヶ月でよくなりますよ」とお医者さんに言われると、なんだか明るい希望の光にしがみつく気持ちが高まりました。いいんですよ、もうオバサンだから、ユウが落ち着いてくれてさえいたらそれ以上に望むことはありません。そしたら娘も落ち着いた生活の中でなんとか乗り越えてくれるでしょう。オバサンはもう自分自身のための幸せは望まない方がいいのです。子供たちさえ幸せでいてくれたら。そのためにはまだまだこの体を酷使し神経痛を乗り越えて、仕事して生活を築いていかなければなりません。更年期や神経痛にはまだまだ負けてはいられません。強くがんばらねば!

 この時期が来ると七年前、抗がん剤を受けていたことや腸が爆発し人工肛門となる手術を受けたことを思い出します。あの頃に比べたら、私は自由です。親子三人、よくやってきたなあと思うこともあります。私はステージ3の大腸癌を患い、息子は自閉症、娘はまだ3歳という時期にアメリカから日本にやってきました。お金も仕事もないところから新しい土地で新たな生活を始めて、今は人並みの生活を送れるようになりました。そして、先日グレッグから正式にプロポーズされました。ご存知ですか、日本において障害のある子を連れてのシングルマザーの再婚率の低さ。プラス私はもう五十歳になりました。若くないオバサン、二人の子連れ、一人は自閉症児。この条件での再婚はまずあり得ないといわれるくらいなのです。市長選で当選するくらいの確率でしょうか。しかし、私はいまだに日本の考え方に同調できずにいるせいか、グレッグとの付き合いにも、グレッグが家族になろうと言ってくれたことも、周りの日本人が思うほどありえないこととは受け止めていないのです。今までの延長線上で、成り行きです。友達にこんなことを言われました。「今までも人とは異なる生き方をしてきて、人並み以上に苦労してきたのに、また奇跡を起こしたね。」私は人と同じようになりたいと願いながらもそれができないのです。グレッグと一緒になることは、子供たちとグレッグがお互いを家族として受け入れてくれたからです。

 更年期・神経痛のオバサンの私です。七年前には癌を患いました。子供は二人います。シングルマザーです。息子は重度の自閉症です。それでも、また新しく家族生活を始めることになります。人から「あり得ない」といわれる条件つきの私ですが、あり得ないことはないのです。人生まだまだ捨てたものじゃないです。来年も私たち親子は精一杯生きていきます。みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。