ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2017 ふたつのスーツケース

ふたつのスーツケース

 

 先日、息子が12歳になりました。とうとう飛行機は大人料金となる年齢に達しました。日本に戻って以来、その日その日を生きることでいっぱいの生活から始まり、飛行機で旅することもないまま七年半が過ぎました。ニュージャージーに暮らしていた頃は、毎年二回は子供たちを連れて日本に戻っていました。今思うとよくぞ小さな子供二人連れて旅していたものだと我ながら感心してしまいます。最後に親子で飛行機に乗ったのは、ニュージャージーから引き上げてくるときでした。クリスマス前で、大雪の翌日でした。二人の子供たちを連れ、これから始まる新しい生活に向けてスーツケースふたつに生活に必要な衣類やおもちゃをパンパンに詰めて、抗がん剤用のポートを首に埋め込んだ私は必死の帰国でした。

 日本でなんとか生活できられたらそれでよしとしよう、とあのときは思っていました。それでも、ひとつの願いはありました。「いつか、子供たちと飛行機に乗って旅したい。私が住んでいたところを子供たちにもみせたい」と思っていました。子供が健常であれば、ある程度の年齢になれば飛行機での旅は楽にできるようになり、経済的に少し余裕ができれば、格安パックツアーでも利用できるのかもしれません。でも、うちには自閉症の息子がいます。息子は二年ほど前からパニックを起こすことがあり、一旦パニックを起こしたらそれこそ公共交通機関を止めてしまうほどの勢いでの騒ぎになります。なので、数回、長時間の乗り換えのある旅はリスクが大きいし、実際、小さな頃のように飛行機で旅をできるのかもある種の綱渡りのような賭けなのです。経済的に余裕ができただけでは旅行はできないのが我が家なのです。

 どうしてかはわかりませんが、漠然と「子供が小学五年生になったらタイをみせたい」と思っていたことがあります。私は渡米する前に、タイとカンボジアに住んでおりました。タイには二年、カンボジアには一年住んでいました。私はタイが大好きでした。食事も好きでしたし、タイでの生活が大好きでした。だから、子供たちに、ママが暮らしていた街を知ってほしかったのです。今、息子は小学六年生、娘は五年生。夏休みを目前に、「今年の夏休みはどこにお出かけしようか」と考えておりました。恒例の息子の誕生日祝いに富士サファリパークに行こうか、それともどこか今までに行ったことのないところにいこうか、いろいろ考えていました。

 ある日いつものようにフェイスブックをみていると、格安海外旅行の広告が目にとまりました。グアム往復3万円~。いつもなら、「そんなに安いのはなにか訳ありなんだよ。その手には乗らないよ」と気にも留めないのですが、このときはなぜが深追いしてしまいました。気がつくと、出発時期は八月後半、行き先はグアムかバンコクにしぼって往復チケットの値段を探しておりました。初めは「格安で海外旅行できるなら」というくらいに考えていたのが、「いくらまでなら出せるか。ホテルはどこがいいか」などと具体的なことまで考えてはあきらめ、また検索をし、考えてはあきらめ、その繰り返しをしておりました。私は一旦火がつくと炎を上げ燃えつきるまでは火を消しません。早い話、一旦「やるぞ」と思ったら、後先考えずに突進していくのです。バンコクでお世話になっていた知り合いが今も旅行会社を経営しているため、早速連絡をしました。「まだはっきりとは決めてないんだけど」という前提をつけて、バンコク旅行について相談しました。言葉と気持ちは裏腹で、私の心の中では、バンコクに行く気持ちは固まっておりました。ただ、どうしても決断をできないのは、息子のことです。飛行機での旅行をできるだろうか、パニック起こさないだろうか、万が一パニック起こした時対処できるだろうか、たくさんの心配は頭の中を渦巻きます。これらが払拭されない限り、決断は下せないのです。

 今までずっとシングルマザーとして一家をひっぱってきたせいか、いまだに決断をするのは私の仕事で、主人は私の決断を「いいよ、そうしよ」と受け止めてくれるのです。今回も「タイ、行こうか」と決めたものの、おそらく主人が抱える負担のほうが私より大きくなると思うのです。息子は出かけるとき、主人と「男同士」並んで歩くのです。以前はママと手をつないで歩いていた息子はいまや「男同士」の方がいいのです。だから、出かけるときはいつも主人が息子のことをみてくれるのです。さすがに飛行機で海外に行くのはまだきついかな、と思いながら「タイ、行こうか」と言うと、「All right. That will be fun.」と受け止めてくれました。

 かつてニュージャージーから日本に一時帰国していた頃は、いつも母子三人の旅でした。タイに住んでいた頃、空港でみかける家族連れにあこがれ、いつかは私も家族旅行してみたいと思ったものです。先日、実家からスーツケースをふたつ持ってきました。ニュージャージーから持ってきた、あのふたつのスーツケースです。親子で生きることで精一杯だったあの頃、このスーツケースにつめられるだけ荷物を詰め込んでいたこと、小さな子供たちをストローラーに乗せ、空港のカートにこのスーツケースを乗せ、ストローラーとカートをひとりで押して税関を通り抜けてきたあの日。スーツケースには深い思いがこもっています。家族四人、来週からバンコクに旅行してきます。私が25年間あこがれてきた「家族で海外旅行」が今、目の前にあります。