ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2009 生きたい

生きたい

 

私、また入院しておりました。6月に大腸癌の手術して以来3度目です。こんな年はそうそうないでしょうし、あっても困ります。私は癌の告知を受けるまで健康だけは自信がありました。どこをどうやっても壊れぬ体だと豪語いたしておりました。その私が4ヶ月の間に3回も入院し、うち2回は手術受けたのです。健康とは当たり前のように思っていたけど失くして初めてその大切さに気がつくものです。

今回の手術も入院も緊急だったので、何の準備もできていませんでした。8月号でお話したように、私は抗がん剤を受けております。抗がん剤の副作用には個人差があるのですが、私にはかなりきついものです。吐き気と疲労感、手先のしびれ、プラス徐々に髪が抜けてきております。うちは子供たちがまだ小さいし、主人は大人子供なので、私ひとり老体にムチ打って戦っておりました。それだけが原因ではありませんが、ま、少なくても抗がん剤は大きな原因のひとつだったわけで、二度目の抗がん剤投薬直後、いきなりの腹痛と嘔吐におそわれました。抗がん剤の副作用かなと思いながらもどうも何かが違うのです。お腹がよじれるように痛く、体の置き場がないくらいに苦しいのです。

なんとか一晩こしたのですが、翌朝、すでに動けない状態になっておりました。子供の頃、お腹が痛いといえば正露丸を飲んだなあ、と思い出しました。そうそう、薬キャビネット正露丸はあったはず。鼻をつくような正露丸のにおい。中学の頃、私は剣道部に所属しておりました。いつも誰かしら正露丸を飲んでいたせいか、部室は汗臭い防具と正露丸のにおいがしていました。激しい腹痛に襲われながらも一瞬にそんななつかしい記憶がよみがえってきました。「あの頃いつも正露丸飲んで治ったから、今回もきっとすぐに痛みが消える」と思いました。でも、時間と共に痛みは増すばかり。必死の思いで息子のお弁当を作り、学校に送り出すと、もう立っていられなくなりました。娘を保育園に送ることもできません。「寝よう。寝ればきっとよくなる」そう思って横になろうとするものの、体が痛くて横にもなれません。困りました。大変困りました。病院に行こうかどうしようかと考えました。娘を一緒に連れて行くわけにいきません。でも、このままではひどくなるばかりだし。そうこう考えているうち、息子が帰ってきました。息子は通称「Sleeping Beauty」といわれるほど、すぐに寝てしまう子なのです。学校でも勝手に昼寝するらしいし、バスに乗れば必ず寝ます。寝たら、その眠りは深く誰も起こすことはできません。この日も息子はバスで熟睡。歩くのもやっとのことだったので、息子を担いで道を渡って家に入るのはもう体力の限界でした。息子をベッドに下ろすと、「もうだめだ」と思いました。ベッドで眠る息子、一人で退屈そうに遊ぶ娘。大人子供の主人に電話してもつながらず、1時間後に折り返しかかってきた電話で「今、トレントンにいるんだ」と知らされました。彼が帰ってきたら子供を預けて病院に行こうと思ったけど、それも無理。近所の友達に電話したのですが、平日のこんな時間は誰もつかまらないのです。このまま死ぬのかなあ、などとちょっと大げさなことを思っていたところ、友達のひとりから電話がかかってきました。「どうしたの?」と。事情を話したら、すぐに来てくれるといわれました。

子供たちを義妹に預け、私は友達に病院まで運んでもらいました。着いたところはLivingstonにあるSt. Barnabas Medical Center。この病院には本当にお世話になっております。実は私たち、息子が生まれる前に女の子を亡くしているのです。私が妊娠8ヶ月のことでした。その時以来、息子の出産も娘の出産もここ。そして大腸癌の手術も、その直後の入院もここ、そして現在継続している抗がん剤治療もここなのです。自慢じゃないけど、私はこの病院の入院食のメニューを朝昼晩と全て知っています。それほどに深いお付き合いとなったこの病院。「すごいいい病院だよ」と人には言うものの、実際お世話になってうれしい場所ではないことは確かです。

ERで痛み止めの点滴を打ってもらったら痛みがひいていきました。「ああ、これで家に帰れる」と思い、ほっとしてきました。前回の入院では下痢と嘔吐が続いていたので帰ることは許されず、結局5日間も入院したけれど、今回は下痢はないし、嘔吐も昨日だけで止まっている。だから、痛みさえとれれば子供のもとに帰れる、そう思っておりました。ところが、腹部レントゲンの結果、腸に空気がパンパンにはいっているから、手術だと言われました。腸に穴があいているようだと。「困ります、それは。明日の子供たちのお弁当作らないといけないし。。。」と言ったら、友達に「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」と諭され、「じゃあ、手術したらすぐ帰れるのかしら」というと、ドクターに「2-3日は入院です」と言われ、ドンドン落ち込んでいきました。本当に困るのです、こういう予定にないことになると。うちは子供ばかりのような家なので、私がこんなことになると一瞬にして回らなくなるのです。

でも、友達っていいものです。落ち込み、滅入ってしまう私に、いろいろな話をして励ましてくれるのです。一体誰がこんなに親身になってくれるのでしょう。ひとりで心細く手術を待たずに、こうして友達が一緒にいてくれて、私は本当に心強く思いました。

「あと45分で手術が始まります」と言われ、主人に連絡するものの、また連絡がつきません。でも、これまたうれしかったのは、「ぼくはカナダのトロント出身なんだ。親は香港出身なんだけどね。」という研修医、検査の途中から時々話しかけてくれていたのですが、手術と決まったとき、「大丈夫だから。ほら、ぼくたち3人(他にもう2人研修医がいました)が手術室まで着いていくからね。ぼくたちがみていてあげるから心配いらない」と言ってくれました。そして、手術控え室に移動する際、「ほら、言っただろ、ぼくたち3人がついているだろ」と付き添ってきてくれました。うれしかったです。そういう言葉だけでも心にジーンときて、涙が出そうでした。彼らに付き添われ、友達が手術台に行く私を見送ってくれました。友達は手術中も深夜まで待っていてくれたのです。私は暖かな気持ちで手術台にあがることができました。

手術が終わり、目が覚めると夜中の2時でした。そこには誰もおらず、「一体ここは?」と思った瞬間、痛みが走り、手術を受けたことを思い出しました。いろんなことが頭の中をめぐりました。昼寝から覚めて呆然としていた息子、長靴を持って「ママと一緒に行く」と追いかけてきた娘、一体子供たちはどうしているのだろう。朝から動けず流しに山のようになっていた食器はどうなっているんだろう。息子のお弁当箱はちゃんと洗ってくれたかしら。明日の子供たちのお弁当どうするんだろう。そんなことを思ったらもう痛みどころではありません。「早く子供たちのところに帰りたい」と思いながらもまた眠ってしまったらしく、目が覚めたら朝の6時でした。まだ回復室にいました。

まず私が考えたことは「いかに早く子供たちのもとに帰るか」ということです。そう、回復が早くなくてはなりません。それにはまず座ることから始めて、次は立つこと、そして歩けるようになること。担当の看護婦さんはとても優しくて呼んでいなくても顔を出しては「大丈夫?痛くない?」と声をかけてくれました。朝食を食べれるわけでもなく、トイレに行けるわけでもなく、時間がすぎていくのは私の体にはまったく関係ないようにしか思えません。退屈そうな顔していたのでしょう。看護婦さんが「ちょっと座ってみる?」と声をかけてくれたとき、それはそれはうれしく、「ああ、これで子供たちへ一歩近づく」と思いました。実際には椅子に腰掛けたものの、なんだか不安定で自分の体が自分でコントロールできないような状態でした。いろんな管が鼻から体中にいっぱいつながっていて、それがからまりそうで、まるでマリオネットのようでした。それでも早く子供たちのもとに帰りたい一心で、看護婦さんが「もう30分も座っているからそろそろ横になったほうがいいわね。すごいわね、手術して間もないのにこんなにしっかり座っていられるなんて」と言われたとき、「これくらい全然平気です。痛みもありませんし」と強気に言ってのけました。とにかく早く帰りたいのです。

病室に運ばれたのが午後3時。身動きとれないけど、みんなに連絡とらなきゃ。そして子供たちがどこにいるのか、どうしているのか聞かなければ。そう思い、看護婦さんに私のバッグはどこか聞いたところ、手術中にどうやら主人が来たらしく、私の服もバッグもすべて持ち帰ったというのです。ってことは、たとえ今歩けるようになったとして私には靴もない。誰かに連絡とりたくても携帯電話もないから電話番号もわからない。これまた困りました。主人に電話してみてもまたつながりません。もう泣きたい思いでした。子供たちはどうしているんだろう。そう思うといてもたってもいられません。夜中の11時、主人が現れました。持ってきた私の携帯電話、電源が入れたままだったので、バッテリー切れ状態。誰にも連絡とれないじゃないの、と泣きそうになる私を横に、大人子供の主人はテレビに見入っている。ああ、なんて無邪気なんでしょう、この人。

子供たちは彼のお母さんのところにいるとわかったもの、声を聞くまでは安心できません。翌日、早朝からドラマ「白い巨塔」のようなドクター団の回診があり、管がかなり引っこ抜かれました。とはいえ、点滴はつながっているし、なんだかお腹にはなにかがくっついている。よくわからないけど、ビニール袋のようなものがくっついて、どこにつながっているのかわからないけど、横っ腹あたりから管が出ている。自分の体ながらどうなっているのかわからない。子供に電話したくても電話番号もわからない、友達の番号もわからない。最後に別れたときの子供たちの顔ばかりが脳裏に浮かび、悲しくなってきました。きっと私の顔も体も悲しみオーラがあふれていたのでしょう。血圧を測りに来た看護婦さんが「どうかしたの?なにかあったの?私でよければ話して」と言ってくれました。看護婦さんたちが次々に来ては私の話し相手になってくれて、いやはや人生相談室のようになっておりました。ソーシャルワーカーとカウンセラー(癌センターでお世話になっている方です)まで来てくれて、体はもとより、心のケアまでしっかりしていただきました。「あなたは母親。早くよくなって子供のもとに戻って守ってあげなきゃ。そのためには今は回復することに集中して。」と言葉として耳に入ってくると、「私が元気にならなければ!」という気持ちが高まりました。常日頃、アメリカ人の手抜き作業や遅刻に「ったく」と舌打ちしていた私ですが、こういった心のケアに関しては「さすが」と思いました。

数人の友達がお見舞いにきてくれて、本を置いていってくれたり、庭で咲いたお花を持ってきてくれたり、他の友達には電話でいろんなことをお願いもしました。1週間の入院で自慢の体力もすっかり落ちていました。私の体には人工肛門がつけられ、開腹手術の傷跡は大きく12本ものホッチキスの針でとめられていました。自分で自分のことをするのもままならない状態になってしまいました。 帰宅すると私を待っていたのは洗濯物の山。病院から自宅まで連れてきてくれた友達が見かねて洗濯までしてくれました。そして、やっと子供との生活にもどることができました。今まで当たり前のように過ごしていたことがこんなに大切なことだったのだとあらためてわかりました。

体がままならない私を支えてくれたのも友達です。毎日午後になるとうちにきてくれて、子供の世話を手伝ってくれたり、お医者さんへもつれていってくれました。毎日電話くれて、「大丈夫?」と気にかけてくれたり、遠いところわざわざ顔みにきてくれたり。。。今回は本当にたくさんの人に助けられました。まさに「生かされた」という感じです。病院なんて行くべきところじゃないと思っていたのに、そこで出会った人々の優しさに涙し、そして日本人の友達には入院から退院のあとまでお世話になりました。今まで私は人に頼むこと、人に弱音を吐くことがとても嫌でした。いつも一人でこなす強い人でありたいと思っていました。でも、人には限界があります。家族から離れて海外に住むということはこういうことなのですね。思いもかけず人口肛門を持つ体になってしまいましたが、それよりももっと大きなことを学んだように思えます。人には優しく、そして人とつながって生きていきたい、そうです、私は「生きたい」と強く思いました。