ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2010 まゆの公園

まゆの公園

 

 私たちは6年前の6月、娘を亡くしました。毎度のように子供のことを書いているのでみなさんもご存知だと思いますが、私には4歳の息子と3歳の娘がいます。法律上では私は2児の母ですが、私の中では私は3児の母なのです。息子が生まれる1年前のことでした。娘は私が妊娠8ヶ月のときに、私のお腹の中で亡くなりました。とても元気な陽気な子でした。当時、教師をしていた私のことを守るようにこのときを選んでくれたように思えます。強気なことを言うわりに実は弱虫な私が、もしも年度の途中でこの子を亡くしていたら、私は立ち直れず、それっきり仕事を辞めていたかもしれません。

 「この子の名前は真優(まゆ)にしよう」と決めた翌日の検診で、ドクターが眉をひそめました。「この子は脳に異常があるかもしれない」と。その時点ではまだはっきりとはわからず、もしかするとそうじゃないかもしれないけど、異常があったとしたらその度合いによって障害にも大きな幅があると言われました。その翌週、私たちはペンシルバニア州の病院で検査を受けました。お腹の中にいる娘の脳のMRI検査でした。検査結果は1週間後ということで、私は「まさか、こんなに元気にお腹を蹴飛ばしてくれるこの子に異常なんて。。。」と軽く考えていました。お腹をノックすればちゃんと応えてキックしてくれるこの子に異常なんてあるはずないと。「まゆちゃんは大丈夫よねえ。もうすぐママのところに出てくるんだもんねえ」とお腹をさすりながら話しかけていました。この子は逆子だったので、頭が上で、足が下という体勢でいたため、大きくなったお腹を両手で抱えると、まるで赤ちゃんを抱いているような感じでした。私は娘を抱きながら流れ星も見ましたし、たくさんおいしいものも食べました。とても陽気な子で、私が高速道路を走り出すと、「走れ、走れ!」というかのごとく興奮してお腹の中で騒いでいました。いっぱい笑ったし、楽しいことばかりでした。だから、きっと大丈夫だと思っていました。私の仕事の最終日、年度最後の日、半日なのでお昼には荷物を片付けて帰る準備をしていました。突然、携帯電話が鳴りました。いつになく主人からでした。「戻り次第、すぐに僕のオフィスに来るように」とのことでした。就業時間内に電話してくることは滅多になかったので、なんだか嫌な予感がしました。

 主人のオフィスに行くと、泣きはらした顔の彼がいました。彼は小学校の校長です。その日のお昼前にドクターから検査結果の連絡が入って以来、校長室にこもったきり泣いていたようなのです。娘の脳は想像以上の重度の異常で、この時期まで発見されずにいたことも、そしてこの8ヶ月という期間育ってきたことすらも軌跡のようなことだったのです。病院には何人かのドクターがいらっしゃいました。私は初めなのでドクターの指定をせず、毎回違うドクターに超音波の検査を診てもらっていました。そして、初めてこのドクターの検査を受け、娘の脳の異常がみつかったのです。ドクターは「どうして今までこれほどの異常がみつからなかったんだろう」と首を傾げました。娘は私の仕事が終わるのを待っていてくれたに違いありません。そして、その翌週、6月30日、娘は私のお腹の中で動かなくなりました。昨日まで私のお腹を蹴飛ばして大笑いするかのように喜んでいた娘の動きが感じられなくなりました。それはまるで「ママ、もういいよね、お仕事終わったから少し泣いても休めるからいいよね」と言っているかのようでした。

 生まれてきた娘は、小柄なとてもかわいい女の子でした。お月様みたいにまん丸の顔に、私はヒマワリを思いました。予定日が8月12日でしたので、真夏に咲くヒマワリのように見えました。目を開けたらきっと大きな目だろうな、笑うときは大きな声で笑うんだろうな、いたずら好きなんだろうな、娘の寝顔をみながらいろいろなことを想像しました。私はこの子にこれから先なにもしてあげられない。一緒にお料理したり、買い物したり、旅行したり、いろんなことをいっぱいしたかった。学校にあがったら、お弁当もつくってあげて、体育の服につけるゼッケンもつけてあげて(アメリカにはそういうものないですけどね)、宿題も一緒にやって、授業参観には頻繁に行きたかった。目を開けてくれない娘を抱きながら、「今までがんばってくれてありがとう」とお礼を言いました。親を亡くす悲しみもありますが、わが子を見送る思いは悲しみだけでなく、もっと複雑な思いでいっぱいになります。罪悪感も感じました。「なぜこの子が。なぜ私が生き残ったのか」と。私は自分の体が動かなくなってもいいから娘の脳が正常になって欲しいと願いましたが、それもかないませんでした。無気力にもなりました。子供の泣き声を聞くと悲しくなりました。気が狂いそうでした。

 数日後、火葬された娘の灰を抱いて、丘の上の公園に行きました。見晴らしがよく遠くにマンハッタンがみえ、911のときはここから燃え上がる炎がみえていたと聞きました。West OrangeとMontclairの境あたりにあるこの公園は、Eagle Rock Reservationといいます。普段私が子供たちを遊びに連れて行く遊具のある公園とは違って、大人が午後のひとときを過ごすのに最適なように、ガゼボがあったり、マンハッタンを一望できる散歩道があったり、とてもすてきな公園なのです。丘の上にあるので、途中はハイキングコースにもなっています。私はそれまでEagle Rockの前の道を通り抜けるだけで、はいったことはありませんでした。でも、なぜだか、そのときは娘に誘われるかのように初めてその公園に行きました。たった数日前まで私のお腹の中にいて「あー、重たいよお」と思っていた娘は、風にも飛んでしまうくらい軽い灰になり、私の胸に抱かれていました。ただ、なぜだか心は温かく、優しい思いがしました。涙も涸れるほど泣いたせいか、もうこぼれてきませんでした。ただただ、陽気で元気な娘が私のそばにいるという思いで、公園からマンハッタンをみました。「まゆちゃん、みてごらん、マンハッタンよ」私は娘に話しかけました。無言の娘でしたが、並んで同じ方向をみているように感じました。ここが私と娘が初めて一緒にお出かけした場所となりました。以来、私はこの公園を「まゆの公園」と呼んでいるのです。

 遊具があるわけではないので、子供を遊ばせる目的には向かないかもしれませんが、私は今でも週末になると時々子供たちを連れておやつやお弁当を持って出かけます。お弁当といっても大げさなものではなく、サンドウィッチやおにぎりをちょいちょいとつめて、ジュースとお菓子を持って、車に乗り込むのです。うちから車で5分なので、近いし、普段着の場なのでいつでも行けるのですが、なぜだか私はここに行くと、特別な気持ちになります。クマの人形を抱いた女の子の銅像があるのですが、それを見るたび、娘が今生きていればどんなくらいかなと重ねてしまうのです。平日のお昼ごろ行くと、車の中でマンハッタンを一望しながらサンドウィッチをほおばるビジネスマンらしき男性や、お昼のお散歩にきた近所のお年寄り、おやつを持った子供連れのママがいたりします。丘の上にあるのでとにかく見晴らしが最高です。天気が悪いとマンハッタンも霧の中になってしまいますが、それはそれでまた魅力的でもあります。

 私は毎年娘の誕生日に真珠を一粒づつプレゼントしています。この子が二十歳になるまで続けるつもりです。二十歳になったら、それが真優と私の本当のお別れです。真珠のネックレスをつくって成人式をお祝いしてあげたいと思っています。それまでは私がこの子の母親。お弁当も体操服のゼッケンも作ってあげられないけど、私はこの子のママです。毎年6月30日、私はこの公園に訪れ、マンハッタンを眺めます。2人の子供たちが幼稚園に行っている間に、私は真優と2人だけの時間を過ごします。「まゆがいてくれてよかった。まゆがいたからママがこうして生きていられる」と感謝の気持ちをこめて、6年前にみた景色をふたりで眺めます。みなさんもよかったら一度足を運んでみてください。遠くにみえるマンハッタンをみるもよし、ガゼボで風にふかれてみるもよし、心が洗われる気がします。

Eagle Rock Reservation: Eagle Rock, West Orange, NJ