ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2010 たくさんのありがとうをこめて

たくさんのありがとうをこめて

 

早いもので、私がアメリカに来たのが1997年8月10日、あれから12年4ヶ月が経ちました。来た当初は、異国の地、異国の文化に戸惑いながらも感動することも多かったのですが、それも時の流れと共によくも悪くも「当たり前」になってきました。この12年間、たくさんの「すごい」がありました。今回はその「すごい」のいくつかを書き出してみたいと思います。

 

 私は日本にいるとき、冬が大嫌いでした。私の育った街は、冬といえども氷点下になることは滅多になく、雪は降るものの積もることはまずありません。ニュージャージーに来た初めての冬、感動しました。何に感動したかというと、外はとても寒いのに、家中があったかということ。冬なのに家の中ではTシャツで過ごせるというのはやはり「すごい」と思いました。実家では部屋ごとに暖房つけてあっても廊下は寒いし、トイレも寒く、冬の一番風呂は嫌でした。ニュージャージーの凍てつく冬の中、帰宅してジャケットを脱ぐと「ああ、極楽」という気分になります。そして、雪が降り出すとあっという間に積もるのも「すごい」と思いました。降り出したらすぐに家に帰らないと、雪で足止めされてしまいます。家の中で暖かいホットチョコレートを飲みながら雪がドンドン降り積もるのを見るのが大好きでした。そして、夜中にシンシンと音を立て雪が積もっていくのを聞くのも好きでした。

ある朝、外に出ると昨日まで雪が積もっていた木の枝が氷に覆われてまさに「氷の木」になっていました。雪が溶けかけたものの、気温がまだ低かったため凍ったのでしょう。キラキラ光る氷の木は子供の頃読んだ絵本に出てきそうなくらいに美しかったです。

美しいといえばもうひとつ。私は雪の結晶というのは現実にはありえない北欧の国の物語か、そうでなければ雪印という会社が作ったマークだと思っていました。家の中から降り積もる雪を見ていたら、またも「すごい」がありました。窓に雪の結晶がくっついていたのです。そう、雪印のマークのような、絵本でみた雪の絵のような、はっきりくっきりとしたきれいな雪の結晶が私の目の前の窓にはりついていたのです。こんなにきれいなものをみてしまうと、冬という季節は魅力的になります。

そんなわけでニュージャージーに来てから、私は冬が好きになりました。雪のため学校が休みになるとうれしかったし、愛犬MOMOと雪の中を走り回るのも楽しかったし、みんなは嫌がるようだけど、私は雪かきが大好きでした。

夏はどこにいても私の好きな季節ですが、冬はやはりニュージャージーの冬がいいです。「ああ、寒くてどこにも行けないし、早く春にならないかなあ」と口では言っていましたが、はい、私うそをついておりました。本当はここの冬が好きでした。

 

  • 高速道路

私は昔から夜は家で過ごしてまいりました。なので夜間運転はほとんどしたことがありません。日本にいた頃、たまに夜運転したこともありましたが、日本の道路は夜でも街灯がついていてとても明るかったのを覚えています。でも、こちらでは高速道路といえども夜、灯りのないところが大半で暗いのです。たしかに車のライトで前は見えますが、はっきりいって見通しが悪い。初めてニュージャージーの高速道路を夜間運転したとき、私は自分の視力が落ちたのかと思いました。よく目を凝らしていないと周りがしっかり見えないのです。あるとき、友達にそのことを話したら、「視力の問題じゃなく、こっちの道は高速だろうと夜は暗いからみえないんだよ」と言われ、納得しました。そんな道でも暴走する人はいるのです。これも「すごい」と思いました。

私の覚えている限りでは日本の高速道路には大きな穴とか運転を混乱させるようなナゾの車線とかはありえなかったはずです。でも、私はここで何度も怖い思いをしました。工事で車線を絞る際、今までの車線を消して新しく車線を書くわけです。新しい車線を引いても古い車線をちゃんと消してくれないから、車線に沿って走っていたつもりが、いきなり目の前で車線がクロスしていて一体私はどの線に沿って走ればいいのかわからなくなることがありました。時速100キロというスピードで走っているんだから、こんな怖いことしないでおくれよ、と願いました。

あるときは、高速を走っていたらいきなり道の真ん中に大きな穴があり、急なので避けることもできずドボンと音をたててはまりながら通り抜けました。すごい振動でした。鞭打ちになるかと思うくらいにガクンときました。高速を出てすぐの信号で止まっていたら、隣に止まった車の人が私のタイヤを指差して何か叫んでいました。なんだろう、と思い、窓を開けると「タイヤ、パンクしてるよ」と言われました。幸い、うちの近くだったので、知り合いのメカニックに向かいました。メカニックでは「一体なにをしたんだい?!」と驚かれました。ただのパンクではないと。タイヤの芯の部分まで破損しているとのこと。メカニックはどうやら私の運転を疑ったようだけど、そうじゃない。「タイヤが破損するような穴を高速道路に放置しておいていいのかい?」私は相手もなくそう問いかけたかった。 みんな、あの穴にはまらなかったのでしょうか。そして誰も、得意の「訴えてやる!」をしなかったのでしょうか。

 

  • 障害児ファミリーへのサポート

以前書いたこともありますが、私の息子には発達障害があります。息子が2歳のとき、言葉が遅いのと手に感覚過敏があるので「なにか違う」と感じ、検査を受けました。その時点ではドクターによる検査でないため診断名が出ませんでしたが、「発達に遅れあり」ということで2週間後から療育が始まりました。うちに2人のセラピストが来てくれることになりました。対応の早さに私が戸惑いました。気持ちの上でまだわが子を「遅れのある子」として受け入れることもできず、始まる療育に敵視すらしてしまいました。息子もいきなり自宅に知らない人がきて「さあ、遊ぼう」と言われ、逃げ回りました。戸惑う私たち親子を受け止めてくれたのはセラピストでした。戸惑いながら疑惑の目でいる私の話に耳を傾け、逃げる息子を追うわけでもなく、根気よく待っていてくれて、彼女たちがうちに来てくれるようになって1ヵ月後には、私たち親子にとってなくてはならない人たちになっていました。彼女たちと話しているうちに、「発達障害」というものが恐ろしいものではないと思えるようになりました。その後、ドクターの診察で「広汎性発達障害」と診断されました。いくら覚悟していたとはいえ、診断名がおりると滅入ります。それまで「もしかすると単なる遅れかもしれない。すぐに人並みに追いつくかもしれない」と自分に言い聞かせることもできたものの、診断がでてしまうと希望の灯が吹き消されたような思いでした。セラピストにそのことを話したら、「診断名はそんなに気にすることないと思う。だって、ゆうちゃんは昨日も今日も明日もゆうちゃんだよ。ゆうちゃんはできないんじゃないの、ただ人より少し時間がかかり、人より少し助けが必要なだけ。それでどうして希望をなくしちゃうの?」と言われ、はっとしました。母親の私がそんなこと言っていたらダメだと。その時からです、私が息子と一緒に歩こうと思ったのは。あれから2年がたちました。今4歳になった息子はプリスクールに通っています。言葉も遅れてはいるものの、バイリンガルで、朝から晩までうるさくしゃべっています。特に怒ったときはものすごい口達者です。感覚過敏はほとんどなくなりました。学校でも療育を受けています。学校で習った歌やフレーズを家でも話して歌ってくれます。息子は学校が大好きです。これは大きな財産です。この国は療育に関して進んでいるとは聞いています。私がその意味を理解できたのはつい最近です。たしかに療育開始もあっという間で、2歳児のときは自宅にセラピストが来てくれて、その回数も日本に比べるとはるかに多い。それは目に見えることとしてわかっていました。でも、本当の意味はそれだけでなく、障害児とその家族のケアです。息子は療育をとても楽しみ、スクールバスをみると「イエーイ」とはりきって学校に出かけていきます。学ぶことを楽しみ、喜んでいるのです。そうなると伸びも早く、1年ごとに大きな成長がみえます。そして、「わが子は障害児」と滅入っていた私を受け入れ、自然に子供の横を歩けるように導いてくれました。だから、私はこうして普通に「うちの子、発達障害あってね」と話せるのです。「あなたにはカウンセリングが必要です」といわれて、そのための時間を費やしたわけではなく、セラピストと話しているうちに私が自らの心をしっかり持てるようになっていたのです。こういった心のケアには「すごい」と思いました。それが普通に行われていたことにもビックリでした。障害を持った子だけでなく、その家族へのサポート、いやいや、本当に「すごい」です。

 

この「ニュージャージー便り」を初めて書かせていただいたのが2008年9月号です。あれから1年3ヶ月、私はあらためてニュージャージー州、そこに住むということを見つめなおすことができました。ENJOYを通して私はたくさんの出会いがありました。ずっとずっとこうしてみなさんと共にニュージャージーを語りたいと願ってまいりました。この夏以降入院が続き、抗がん剤治療もきつく、来年の春にはまた手術が控えております。こういった状況の中、子供たちもまだ小さく手がかかるし、体が悲鳴をあげるようになって参りました。走り抜けてきた人生、もしかして今はお休みのときかもしれないと感じるようになりました。大変残念なのですが、今月号を最後に病気療養に専念したいと思います。しばらくは隠居生活を送りますが、いつかまたみなさまとニュージャージーを語れる日が来ることを心より待ち望んでおります。隠居の私に時々はメッセージ下さい。メリークリスマス、たくさんのありがとうをこめて。