ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2011 昔みた景色

昔みた景色

 

 先日、子供たちと実家のそばの公園に行きました。実家は静かな住宅街にあり、公園はその真ん中の高台に作られた、住宅街の住人以外は誰も知らないだろうと思われるほどにこじんまりとした小さなものです。私が子供の頃は、近所に住む子供たちが集まり、夕方や週末は子供の声が聞こえていました。かつては子育て世代の集まりだったのが、今は私の親の世代がほとんどで、公園はひっそりとしています。友達を探しに行く場ではないけれど、ブランコや滑り台を順番を待たずに思う存分使えるという利点もあり、ブランコの立ち乗りを練習しに行く場としては最適なのです。

 子供たちがブランコに揺られているのをみていたら、息子に「ママも乗って」と促されました。大人になってブランコなんて、と思っていたものの、せっかくの息子の誘いなので久しぶりにブランコに乗ってみました。娘は立ち乗りに夢中、息子は私がブランコに揺れるのを見ては笑いました。ブランコに揺られていると、遠くに見える景色が昔と少し変わったことに気がつきました。

 私が五歳のとき、私たち家族はこの住宅街に越してきました。子供の頃、私はこの公園でいつも遊びました。チビだった私はブランコに乗ると世界が大きく見渡せる気がして大好きでした。遠くに見える丘が大男の横顔のように見えていました。森がまだそこには残っていたのでしょう。それが大男の口ひげ、顎ひげのように見え、大きな丘は小高い額、小さな丘はだんごっ鼻、大男は眠っているから目は開かない。そう思っていました。少し大きくなり、そんな大男なんて存在しないとわかっても私はブランコに乗るたびに大男を見ていました。そして、あの大男の向こう側はアメリカだと思いました。アメリカというのは、子供の私にとって外国の代名詞で、大男の向こうにはアメリカという、行ったら二度と帰って来れないところだと思っていました。小さな私はブランコがちぎれそうなくらいにこぎました。でも、吹っ飛んだらアメリカに飛んでいってしまうから気をつけていました。

 大人になった私がみた景色の中にあの大男はもういませんでした。ただ、大男の額だけが面影を残していました。そして、遠くにみえるパチンコ屋と大きなマンションビルで、大男が眠っていた場所が実は7キロ先の街であることがわかりました。大男の向こうにはアメリカではなく、隣の市があることもわかりました。大男はおとぎ話ではなく、すぐそばの街にいました。不思議な感じでした。あの頃の私には大男が見え、見えないアメリカを思っていました。大人になった私はアメリカに住み、そしてあの大男の顔の上を車で走りました。ブランコに揺られながら、私は今も自分の中に残るあのちびっ子だった私自身を感じました。

 実家のすぐ裏に小さな山があります。そこにもたくさんの魅力がありました。今みると小さなかたまりのような山ですが、子供の頃はその小さな山が富士山のように天にそびえ立つ山にみえていました。「あの山を登山していて死んだ人がいる」「山の奥には秘密の国があり、そこにはアフリカ人が住んでいる」などと子供たちの間ではいろんな話が飛び交っていました。山の頂上まで今の私の足なら歩いて五分という高さの小山です。そんな小さな山に子供たちは、縄跳びを命綱にし、必死で登っていたのです。山の頂上につくと、小枝を突き立てて「この山を制覇したぞー」と喜びました。でも、山の奥には誰も行こうとしませんでした。なぜならば、秘密の国に行ったら二度と帰ってこられなくなると信じていたからです。登山中、時々声が聞こえました。それは物干し竿売りの声だったり、焼き芋やさんの声だったり、北海道牛乳の移動販売車の音楽だったり。でも、それらの声も音もすべてが秘密の国から聞こえてくるように感じ、「あ、秘密の国で今お祭りをしている」「秘密の国の人の声が聞こえた」とみんなでドキドキしました。今はその小山の中腹にレストランができ、車が山を登っていきます。縄跳びを命綱にし、連なって登山する子供の姿はどこにもありません。

 子供の頃の私にとって外国というのは未知の世界で、外国人は宇宙人にも近い存在に感じていました。同じ景色をみても外国人には全く違って映るのだと思っていました。たとえば、うちの母がつくる赤みその味噌汁はどこか田舎くさくて「味噌汁」以外の何物でもないのに、それをアメリカ人が「ミソスープ」と呼ぶと「スープ」という響きから、この人たちは味噌汁をみても「スープ」に見えているんだと。私にとってのスープはクリームスープであり、味噌汁は「汁」でした。大人になり海外に住むようになると、その「汁」と「スープ」のボーダーラインが薄れていき、そしていつしかそのラインすらなくなりました。それは相手の感覚を理解したというより、自分がその一部に足を踏み入れたことからだと思います。「うち」というとき、子供の頃の私には日本しか映らなかったけれど、今は日本とアメリカの両方が移ります。そして、外国人が私と同じように物をみていることもわかりました。ただ、違って見えることがあるとしたらそれは感じ方です。

 昔と同じなのに、見方や感じ方で大きく変わってしまうものはたくさんありますが、その最たるものは「家族」ではないでしょうか。私の父は地方公務員でした。父は融通のきかない堅物の、いわゆる「公務員」というイメージを絵に描いたような人でした。その父も白髪頭のおじいさんとなりました。「お父さん」と呼んでいたのも、いつの頃からか「おじいさん」と呼ぶようになりました。公務員だったお父さんも、今ではすっかり「友蔵じいさん」です。うちの娘、実は中身が「ちびまる子」なのです。そうです、私の娘と父は「まる子」と「友蔵じいちゃん」のような関係なのです。ある日、まる子とおじいちゃんがお雛様の前に並んで座っていました。なにを話しているんだろうと、何気なく聞いていたら、その会話がすごいのです。「おじいちゃん、お雛様には名前がないの?」「お雛様の名前はお雛様だよ」「変な名前だねえ」「じゃあ、名前をつけてあげよう。どんな名前がいいかなあ」「そうだねえ。マツコなんてどう?」「よし、この右側の人はマツコだ」。。。って、一体どこに「マツコ」なんて名前の三人官女がいるんでしょう。お雛様に名前をつけよう、なんてあの堅物公務員だった父は絶対にしませんでした。またある日は、まる子がチョコレートを持っていそいそ歩いていました。「まる子、チョコをどこに持っていくの」と聞いたら、「それは言えませんよ。ママには秘密」と、じいちゃんの部屋に入っていきました。ドアを開けると、テーブルの上にはポテトチップス、チョコレート、かりんとう、といったお菓子がいっぱい。「まる子、保育園でおやつ食べてきたんでしょう。なんでまたお菓子食べてんのよ」というと、「おじいちゃんとお楽しみ会をやっているから邪魔しないでちょうだい」と言われました。「お楽しみ会って。。。」、このふたりは毎日がお楽しみ会のように過ごすのです。私は子供の頃、父にはこういう面があることを知りませんでした。堅物の面白みのない人だと思っていました。「おじいちゃんが描いてくれたの」という絵は人の目をした怖い顔の魚だったり、ロボットのようなおばさんだったり、子供向けには程遠い絵を平気で描いてしまうところは変わらないのですが、父がまる子をみる目はあの頃とはどこか違って見えます。父は父、でも、その父も「おじいちゃん」になるとかわいい孫には甘いばかりで、「おおっと、ママに叱られちゃう」と肩をすくめて私を見るのです。

 昔見ていた場所は今でもあるのに違って見えます。感じ方も違います。大きく見えていたものが小さくみえたり、魅力あふれる虹色の世界が土色の現実にみえたり、私は私のままなのにいつの頃からか世界を違ってみるようになりました。子供だった私も今では子供の親となり、叱られながらも頼っていた親は年をとり、今では私が心配する立場となりました。人はこうして年をとり、流れていくのでしょうか。今、幸せだなあと思っているこの生活を、将来私は、そして子供たちはどう感じるのでしょう。もっともっとたくさんのものに恵まれるかもしれません。今の生活が古めかしく思えるときが来るかもしれません。でも、幸せだという気持ちはいつのときも同じであってほしいと願います。そして、私もいつか「ママ」ではなく「おばあちゃん」と呼ばれる日がくるのです。そのときは、鯉のぼりに名前をつけようと言う、父の娘としての私になっているのかもしれません。