ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2011 つながり 元ESL教師として

つながり ー元ESL教師としてー

 

 みなさんはESLというとどのような印象があるのでしょうか。私は渡米すぐに大学のESLに入りました。そして、大学を卒業し、ESLの教師になりました。生徒と教師という両方の立場からESLをみてきました。私は自分がESLの生徒だった頃、早くESLを終えてレギュラークラスに入りたいと思っていました。お子さんが現地校のESLに入られている親御さんのなかにはこういうふうに思われる方も少なくありません。「うちの子はもうESLは必要ないのに、おとなしいから先生もやりやすいみたいで、なかなかESLのクラスから出してくれないの」とおしゃべりをするお母さん会話を耳にしたこともあります。今回は元ESL教師として、ESLについてお話したいと思います。

 私はESLバイリンガル、小学校担任の3つの教員資格を持っています。自分がバイリンガルとして異国で暮らすなかで、「異文化」「外国語」というものにものすごく興味を持ちました。私は「ESL」と「英語」という授業は同じとは思いません。教師も「ESL教師」と「英語教師」とは異なるCertificateになります。ESLとは英語という言語のみを教えるのではなく、英語を母国語としない生徒に文化を通して英語を教えるのだと私は受け止めています。私のクラスの生徒はそれぞれに異なる母国語を持っていました。私は言葉は文化の一部だと思います。一言で「ESL教師」といっても、教員ひとりひとり違う考えがあり、教育方針も違います。「English Only、No Japanese!」という人もいます。それが正しいとか間違っているとかは私には判断できません。ただ、私は生徒には母国語を捨てないようにと常に話してきました。ESLの授業は英語で行われます。授業中、他言語で会話するようなことがある場合は「English, Please」と言いました。他言語を話すことはいけないことではありません。でも、ESLの授業中は英語を使う場だから、そうするように促すのです。親御さんのなかには「私たちは英語がうまく話せないので家では英語で会話ができません。だから、うちの子は英語がなかなか上達しないのでしょうか」と心配そうに相談してくる人もいました。私は「家では母国語で話してください。言葉は文化です。親は自分たちの文化を子供に伝えてください。そして、子供たちは自分のルート(根)に誇りを持ちます。子供たちは学校で英語を使います。外の世界には英語がいっぱいです。母国語の強さは第二ヶ国語習得にも影響を及ぼします。母国語でたくさん会話し、たくさん本を読ませてください。お母さんが片言英語で話して心のうちを伝えきることができますか? それよりもお母さんの言葉で心を伝えてください。英語ができないからと家族の会話がなくなったら、子供たちは会話をするという力が伸びません。」と答えてきました。言語というのは、話す、書く、聞く、読むといった4つの分野から成り立ち、それらはどれも大事でどれかひとつ欠けてもいいものではありません。そして、私は、母国語におけるそれぞれの力は第二ヶ国語を学んだとき、力そのものはトランスファーされると信じています。たとえば、日本語でとても読んだり書いたりが上手な子は、英語が身についたとき英語でも読み書きが上手になり、おしゃべりな子はやはり英語でも話すことは得意になるでしょう。言語を使いこなすという力だと思います。

 ESLの授業は強制ではありません。決定権は親にあります。では、同じ日本人でもESLに入る子と入らない子、どのように決まるのかをお話します。まず、入学の際、親は調査書を記入します。そこに母国語または家庭での言語が英語以外とある子は、ESLのテストを受けます。その結果によってESL要または不要が決められます。でも、それは決定ではありません。その後、親のもとにお手紙が届きます。今後学校生活を送る上でESLを受けることをおすすめしますが、同意しますか?といった内容です。その同意を受けた上でESLに入ることが決定となります。なので、時々親御さんのなかでは「ESLに入れられた」とおっしゃる方がいますが、どうしても嫌だったら「必要なし」「拒否」といったことを学校に出せばいいわけです。私の勤めていた学校にもいました。最初の2年はESLにいたけれど、他の子たちは2年でESLを出れたのに自分の子供だけ次の年もESLをすすめられ、「うちの子には必要ない」と親が断りました。その子は結局、レギュラークラスになかなかついていかれず、今度はチャイルドスタディーチームによって発達の遅れがないかを調べました。発達に遅れはないものの、あきらかに英語力に欠けていました。いくら親に伝えたところで「2年もESLにいたし、いつも英語を使っている。必要ない」と断られました。みなさんもご存知でしょうが、日常生活で必要な言葉と学習に必要な言葉は必ずしも同じではありません。買い物やレストランでの食事など日常会話に不自由ないからといって、大学で授業を受けてノートをとり、課題論文を英語で書けますか?学校でESLが必要というのは、日常生活だけでなくアカデミックな部分を英語でやっていくだけの力がついているかどうかを判断するのです。ESLに入ることが、なにか劣っているから、と受け取る人がいるようですが、それは間違いです。必要なことを遂行するために足りない部分を補うということだけです。うちの息子のように言葉に遅れがある場合は「スピーチセラピー」を受けます。それはESLとは異なります。私のESLの生徒にもスピーチセラピーを受けている子もいました。それは母国語の段階ですでに言葉が遅れていたからです。専門が違うのです。ESLが必要かどうかはESL教師が判断します。しかし、発達の遅れや障がいについてはチャイルドスタディーチーム(担任、特別支援、心理士、などによって構成されます)によって判断されます。

 私は授業では常に「つながり」を大事にしてきました。「つながり」とは何でしょう?言語習得に早道はありません。でも、なにか自分の興味とつながれば楽しく学ぶことができます。たとえば、小さな子であれば遊びを通して、お料理好きなママであれば料理を通して、というふうに興味または必要なことと言語がつながると、受験勉強で覚えた英単語のように意味なく消えていくことがなくなります。それ以外の「つながり」というのもあります。生徒たちはESLだけで一日が終わるわけではありません。ほかの授業も受けています。私はESLは他の科目の先生たちともつながって連携していくべきだと考えておりました。時にはホームワーククラブのようになることもありました。理科の授業や課題が、英語がわからないからできない、だから理科が嫌い、となってはいけません。理科の苦手な私は、生徒の理科の先生のもとに出向き、その課題について教えを乞い、その上で生徒にわからない理科用語をわかりやすい言葉に置き換え説明しました。英語の先生が私のところにきて、「来週うちのクラスで単語テストをするから、これらの単語を教えてあげて欲しい」と言われることもありました。そういうときは、それらの単語を使った授業をESLに組み入れました。意味なくアルファベットを覚えても楽しくありません。言葉は使うからこそおもしろいのです。そして、ESL教師の大きな役割として、生徒の家庭と学校とのつながりを保つことです。生徒の親のなかには英語を話せないまたは苦手な方がたくさんいました。私たちESL教師は英語を話さない人が「こういうことを言いたいんだろうな」と推測するのが他の教師よりも少しだけ長けています。それゆえ、生徒の担任から「この子の親が来週懇談にくるから付き添って欲しい」と頼まれたり、逆に親御さんが私のところにきて、「こういうことを息子の担任に伝えて欲しい」と言われることもありました。学校と家庭はいつのときもつながっていなければなりません。

 言語は文化の一部としてとらえる私は、ホリデーを組みこんだ授業が大好きでした。みなさんもご存知のようにホリデーを語るとき、そこには歴史と文化が共存しています。いったい誰がどうしてサンクスギビングをお祝いし始めたのか、どうして七面鳥を食べるのか、そういったことを調べ、自分たちの言葉で理解し、そして受け入れていく。それが言語と文化だと思うのです。高校生を教えているとき、アメリカ人生徒からよく「ESLは遊んでいるみたいで楽しそうだなあ」と言われました。遊んではいません。でも、楽しんでいました。勉強とはつらく苦しむべきだとは思いません。勉強を楽しもう、というのが私の願いでした。

 私がESL生徒であり、そして教師であってよかったと思うことのひとつに息子のことがあります。発達障害のある息子は健常者とは異なる感覚を持っています。残念ながら、それらの多くは健常な人には理解しがたく受け入れがたいのです。きっちりとできていないと我慢できない、1ミリの狂いも許せない感覚にとらわれ、同じことを何回も繰り返す。それを「もうやめなさい」と止められることは自分の人格を否定されるかのように感じる。それはどこか異文化の中に暮らす外国人のように感じました。私は渡米して最初の数年はアメリカの人々にイライラしました。時間通りに来ない、適当な返事をして忘れる、そういったことがあまりにもだらしなくいい加減に感じました。日本では「3時に伺います」と言った電話工事の人は3時前後には必ず現れます。「明日お返事いたします」といわれたら、返事は翌日聞けるものです。それが日本文化なのです。その文化を背負ってアメリカにいたら、途方にくれることがたくさんです。でも、違うということは否定することではなく、相手を理解し、受け入れようとすることが大事なのです。母国語なら伝えられることも英語力が伴わず相手に自分の思いを伝えられずいらだつことは、会話の苦手な息子が彼なりの方法で伝えているのに私が上手に受け止めてあげられなかったことに似ています。私はかつてESL教師であったこと、そして今、障がいを持つ息子の母親であること、そこになにか「つながり」を感じています。