ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2011 滞在資格

滞在資格

 

 先日ふと思いました。私は一体どのようにアメリカに渡り、13年も住んでいたのかと。多くのみなさんがそうであるように私も滞在資格、そうです、ビザには悩まされてきました。なぜだか私は「こういうことは滅多に起こらないんですけどね」ということが毎度のように起きるのです。悪運の強い人生だと嘆いたこともありましたが、結果的にみると毎回それはそれでなんとかなり乗り越えてきていたわけで、強運の持ち主でもあるなと思ったりもします。実際、私の場合、どん底まで突き落とされなければ学ばないし、天狗になり続けるどうしようもない人間なので、人生がそういうふうに仕組まれているのかもしれません。

 1997年8月、私は学生としてアメリカに入国しました。最初に入学したのは2年制のコミュニティカレッジ。F1と呼ばれる学生ビザを持っていたのですが、学生ビザで滞在するにはフルタイムの学生であることが条件付けられていました。英語もままならず、一日学校で勉強していると、学業以外にはとても手が回らず、なんだかわけもわからないまま2年が過ぎていきました。この学校での私の専攻はブロードキャスティングでテレビ業界を専門にしておりました。インターンで地元のケーブルテレビでマイナー野球の試合中継や地元の政治家のインタービュー番組の制作に携わることができました。「すっごーい」と人から言われましたが、実際、私がしでかしたのは、番組のスタートを遅らせてしまったり、カメラを担当したときはディレクターの指示が聞き取れず、ズームでアップにすべきところを遠くから撮っていたり、違う意味ですごいことをしてしまいました。そんな状態でしたが、まだまだ私は自分という人間を理解できておらず、この学校を出たら仕事に就こう、いや、就けると決めていました。

 最後のセメスターが始まったときに、留学生課のオフィスに行きました。「OPTを申請したいんですけど」と言いました。留学生の書類を全て担当している人のはずなのに、「はあ?OPT?」と聞き返してきました。「Occupational Practical Training programです」と言えば、「ここで申請するつもりなの?」と怪訝な顔で言われました。おそらくOPTの申請をする留学生はコミュニティカレッジにはそんなにいなかったのかもしれません。分厚い本を出してきて、ページを探しながら、「で、そのOPTってどういうもの?」と聞いてきました。「大学を卒業してすぐに就職し就労ビザを取得することは容易ではないため、卒業した外国人学生はOPTプログラムを取得することで1年間、学校で学んだ分野の仕事に就いて働くことができ、その間に就労ビザのスポンサーになってもらえる就業先をみつけることができる、というものです。」と答えたら、今度は「あなた、2年制大学出て仕事に就けると思うわけ?国に帰ったら?無駄なことだと思うけど、そのOPTに申請するってことは」と言われました。かなりカチンときたものの、喧嘩して申請を出してもらえなければそれまでのことなので、「やるだけやってみたいのです。」と言いました。手にした分厚い本をみながら、「無駄だと思うけど」を数回連発しながら必要な書類を書き出してくれました。しかし、手馴れない仕事なのか、私が不明に思うことを聞くと、「いいんじゃないの、それで、たぶん」としか返って来ず、数回彼女のオフィスに足を運んだものの、不安はふくらむばかりでした。申請書類を郵送した2ヵ月後のある日、私のもとに移民局から大きな封筒が届きました。「おお、OPTのカードだ。」と喜んで封をあけると、そこには私が郵送した書類が戻ってきていたのです。あれだけ念入りに確認したのに、彼女はしっかり調べることなく適当に答えていたことがよくわかりました。再度申請書を送りなおすことになりました。OPTがおりるまで約3ヶ月かかるときいていました。そこからまた3ヶ月待たなければいけなくなりました。怒りいっぱいで彼女のもとへいき、「あれだけ何度も聞いたのに、どうして聞いたことがどれも間違っていたの?どうしてちゃんと調べてくれなかったの!」と言いました。彼女は相変わらずちらりと私を見て、「あら、ごめんなさいね」と言葉だけの謝罪をしてくれました。

 OPTがおりるのを待ちながら、仕事を探しました。みつかりません。専攻した分野の仕事しか就けないわけですから、ブロードキャスティング、つまりテレビ、映画、ラジオといった分野の仕事にしか就けないのです。面接で落とされるならまだしも、求人募集しているところすらみつからないのです。日系の人材派遣会社に登録に行くことにしました。そこで言われたのは、「難しい業界ですね。みつかる確立はかなり低いと思いますね。うちに求人がきたことはありません。」ということでした。まずはOPTがこないことにはたとえみつけても働けないからOPTが来るのを待ったらどうか、ということでした。テレビや映画の仕事に就きたい人は山のようにいて、競争はすごい、だから仕事に就けるのであれば賃金はいくらでもかまわないというくらいの人がたくさんいるため、たとえ仕事があってもそんなに稼げないかもしれない、と聞き、私は途方に暮れました。そんな競争の中で私なんかが勝ち抜けるわけがないのです。

 OPTというのはその人の人生にたった一度しかもらえないものだから、今もしもOPTで仕事して、その後また学生にもどり上の学位をとったとしても、その後のOPTは申請できないと聞いておりました。とんでもないことをしでかしたのかなあ、と思い始めました。希望のない就職活動をしてOPTの1年間は終わっていくのか。悩んだ末、私は4年制大学に編入することを決めました。OPTはそう決めた翌週に手元に届きました。もったいないことしたなあ、と手にしたOPTカードを見てしみじみとなりました。「もういりませんから」とスーパーで返品するようにOPTカードを返せるわけもなく、返したところでもう私の人生では新しいOPTを手にすることはない。なくすものを嘆くより私はこれから始まる新しい大学生活をがんばっていきたいと願いました。こうして私は4年制大学に編入し、専攻も言語学に変更しました。

 人生とは本当にわからないものです。専攻を言語学にかえると、今度は自宅でできる日本からのアルバイトが舞い込んでくるようになりました。翻訳であったり、英語問題集や英会話本の執筆といった内職をしながら、大学での勉強をしました。内職はあっても、それが卒業後の就職になるとは思えず、私は言語学専攻を活かしてESL教師になる道を選びました。勉強も楽しく、教授にも恵まれ、教育実習も公立小学校で子供たちと和気あいあいと過ごせました。卒業したらすぐに就職しなければ私は滞在資格がなくなります。なぜならば2年前にOPTを無駄遣いしてしまったのですから、OPTという猶予期間がないのです。留学生オフィスにいき、アドバイザーに相談しました。すると、「あなたはラッキーよ。」と言われました。なにがラッキーなんだろう、と思ったら、どうやらあの後、OPTは人生に一度しかもらえないものではなく、その専攻で学位を取ればその都度もらえるようになったというのです。つまり、私は2年前のOPTは無駄にしてしまいましたが、今度は言語学専攻で卒業なのでまたOPTがもらえるというのです。私は悪運強いからと言い続けてきたのですが、そうでもない一面があることに気がつきました。

 卒業後しばらくしたある日、またも移民局から封筒が届きました。「ありえない、こんなにすぐにOPTがおりるわけない。」と恐る恐る封を開けると、中に入っていたのは私が郵送した申請書類の一部でした。急いで大学のアドバイザーのところへ書類を持っていきました。アドバイザーは苦笑いをして、「あなたが4人目よ」といいました。「どうやら、移民局にひとり、私かうちの大学を嫌いな人がいるみたいなの。その人にあたると、こうしてこの部分を指摘して書類を戻してくるの。今期は200人分の申請書を同じように出したの。でも、あなたを含めた4人だけがこうして戻されて、その担当官が同じ人物なのよ。いやんなっちゃうわね。でも、心配しないで、これは実際には間違いとはいえないようなことだから、私が訂正すればいいだけのこと。再申請ではないから心配しないで。ほかの書類は受理されているわけだから、これが届くまで流れが止められているだけのことだから。」なんで?なんで私がその200人の中の4人に選ばれちゃったの?いいことは選ばれないのに、いつもこういうことには選ばれてしまうんだから。やはり悪運の強い人生なのでしょうか。

 私が大学を卒業したのが5月。学校の新学期は9月から始まります。8月中に仕事をみつけなければ、新学期がはじまったら教師の求人はほとんどなくなります。50通以上の履歴書を送り、何回も面接を受けました。圧倒的にスペイン語を母国語とする生徒が多いため、スペイン語を話せるESL教師を探すところが多く、就職先がなかなかみつかりません。「あーあ、もうどうなるんだろうな」とあきらめかけた夏の終わり、日本人を含むアジア系の生徒が多い学区のESL教師になることができました。OPTでの就職は合法的に就労できます。でも、そこから1年の間に就労ビザを取らなければおしまいです。そこでH1Bという就労ビザの手続きをしてくれる弁護士に相談しました。「現在就職できており、自分でビザ取得にかかる費用を出すということならその就職先はスポンサーになることに大きな問題はないと思います。取得費用を出して欲しいとなるとまた話し合わなければなりませんが、費用を自分で出すのなら、ただ書類にサインすればいいだけですから。」と言われました。なので、勤めている学区の教育委員会に行き、その旨を話しました。どうやら初めてのことらしく、「いいですよ。書類を持ってきてくれたらみてみましょう」と簡単に受けてくれました。なので、翌日書類を届けに行きました。長くかかったけど、これで私はアメリカで自立した生活が送れるようになるんだ、とうれしく思いました。しかし、そんなうかれた日は私の人生の中では長くは続きません。翌週、教育委員会に来るように連絡を受けました。サインしてくれたのかと思い、オフィスに入ると、「君はなんてことを依頼してきたんだ!」怒り口調で切り出されました。「うちの弁護士に話したら、こんなことにサインしたら大きな責任を負うことになると言われた。スポンサーになるわけにはいかない。その、今の滞在資格が切れたら、そのときは国に帰ることだな。」と冷たく言われ、書類を返されました。あのときのみじめで悲しかったことは今でも覚えています。人はこうも冷たく物言いできるのかと思いました。

 覚悟を決めました。よし、今年度が終わったら、私は日本に帰ろう、と。そう思った数日後、主人と出会いました。同い年なのに、私は新人教師、彼は小学校の校長。感覚的には「友達」なのに、仕事の話になると彼は私の50年先を歩いているかのようでした。半年後、私たちは結婚しました。OPTの期間内に私はH1Bビザ(就労ビザ)ではなく、グリーンカードの申請をすることになりました。

 選ばれたくない場面では必ず選ばれ、そのたびに「もうだめだ」とあきらめました。それでも、結局はなんとかなってきました。なるようにしかならないし、いいことも悪いことも私の気持ちや状況に関係なく起こります。でも、そのときはその運命を受け止めるしかないのかもしれません。卑屈になったこともあるし、泣き続けたこともあります。自分の運命を恨んだこともあります。それでも、そこから一歩ふみだせば、運命はちょっとだけ変わるかもしれませんよね。