ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2011 唯一の人

唯一の人

 

 この原稿を書こうと思っていた矢先、東日本大震災が起きました。被災地の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。

 今日はみなさんに少しだけ息子のことを知っていただきたく、私と息子の話を書かせていただきます。息子には障害があります。「広汎性発達障害」「高機能自閉症」「自閉症」、人はそう呼びます。そして、「障害」「障がい」「障碍」、人はそう言います。私にとってはどう呼ばれようが、どう言われようが、息子は息子、大事な「ママのゆうちゃん」なのです。息子は見た目は普通の元気な男の子、身体的には異常はなく、脳も正常です。障害があるのは、脳自体ではなく、脳機能に障害があるのです。一見普通の子ですが、いきなり癇癪を起こしたり、こだわったり、人とのコミュニケーションが苦手で、「なんか変な子」だと思われてしまいます。

 私たちは息子が生まれる一年前に娘を亡くしました。妊娠八ヶ月でした。それ故、私たちは息子を妊娠する前からたくさんの検査を受けてきました。妊娠がわかるとドクターたちも念入りに検査をしてくださいました。息子には何の異常もなく、私たちは生まれてくる「元気な男の子」にたくさんの夢をみました。主人は自分が校長だったので、「この子はぼくのような校長になるかなあ」といい、義父は当時政治家だったので、「この子は私のような政治家になるかな。大統領になっちゃうかな」といい、そして私は「バイリンガルで、アメリカと日本の両方で活躍できる国際人になるの」といいました。超音波でみる胎児の息子はすでに主人とそっくりな頭の形をし、元気に動き回っていました。私たちの夢は広がり続けました。

 息子に発達障害があると診断されたのは息子が二歳四ヶ月のときでした。二歳になると遅れがわかったのでセラピーを始めたため、「なにかが違う」というのは知っていました。覚悟はしていたものの、実際「広汎性発達障害です」といわれてしまうと、今まで抱えてきた夢も希望も全てが押し流されてしまったような絶望感に陥りました。毎日毎日私は泣きました。「明けない夜はない」という言葉がうそのように、私の目に映る世界は果てしなく続く暗闇でした。二歳になっても言葉は出ません、積み木も積みません。そんな息子がいつか動物のようになってしまうんじゃないかと不安の波にのまれそうになりました。そして、そこから私たち親子は歩き始めました。

 自閉症の子は目をあわせない、といわれます。でも、発達障害を持つ人はみんな同じではないのです。百人いれば百通りというほどに違いがあります。目を全く合わせようとしない子もいれば、目を合わせて微笑む子もいます。目をあわせないから自閉症だという基準ではないのです。そして、どうして目をあわせないのかという理由もみんな同じというわけではありません。ただ、多くの場合、発達障害を持つ人は他人とのアイコンタクトを得意としません。息子も言われました、「この子は目が合いにくいですね」と。私はそういわれたときびっくりしました。なぜならば、息子は生まれたときから、いいえ、生まれる前からずっと私をみていました。そして、私は息子を感じていました。息子は私をみて微笑みました。でも、その微笑みは他人には感じられない、みえないものだったのです。私と息子はつながっていました。どんなときも、暗闇の中でも、明るい光をみつけたときも、どんなときも手をつなぎ寄り添っていました。実際には息子は人を見ようとしなかったのかもしれません。そして、私はそれに気がつかなかったのかもしれません。でも、それはそれでよかったのです。息子は私を見ていました。そして、あれから三年がすぎた今、息子は笑います。人が大好きで、みんなの顔をみて笑います。息子がみているのは顔でしょうか、それとも人の心でしょうか。わかりません。息子は「アイコンタクトの苦手な自閉症」と言われたけれど、彼の笑顔は人の心に届いています。

 息子は三歳の誕生日の翌週に言葉が出始めました。それからは溜め込まれたものがあふれでるかのように言葉が増え、一ヶ月後には二語文も話し始めました。通常、子供は単語が出て、しばらくすると二語文が話せるようになり、そして三語文、そこから少しずつ会話に発展し、そのあたりから文字を読むことができるようになります。発達障害の場合、その期間も順序も乱れることが多々あるのです。息子は言葉が出るのが正常発達の子供より二年近く遅れていました。しかし、単語から二語文を話し始めるまでは一ヶ月というスピードでした。二語文を話し出した頃、息子はアルファベットを読んでいました。三歳二ヶ月でアルファベットを全て読めるようになっていました。ただ、息子が一体どのように学んだのかわからないのです。幼稚園では「おうちでママが」と思い、私は「幼稚園で先生が」と思っていたのですが、そのどちらでもありませんでした。気がつくと数字も読めるようになっていました。会話は息子の苦手なことのひとつです。でも、「文字」というのは彼の得意とすることなのでしょう。日本に帰ってきて二ヵ月後、息子は五十音を読んでいました。このときも私は教えていません。だから、テレビの字幕のひらがなを声を出して読んでいるのをみたとき、驚きました。「なんで人と会話できないのに、アルファベット読めるの?」と聞かれたことがありました。息子はできない子ではありません。苦手なことはとことん苦手、でも、できることはすごくできるのです。そして、それには人が常識とする時間も時期も関係ありません。息子には息子の流れがあり、彼のやり方があるのです。誰も彼の流れを読むことも止めることもできません。それは息子だけでなく、人はみんなそうですよね。それぞれの人生、わからないから苦しく面白いのですから。

 私は息子が積み木を積めないということに悩んだことがありました。「この子、まだ積み木が積めませんね。」息子が二歳のときに言われ、「積み木が積めない」=「できない子」というつながりが私の中にできあがりました。「どうして積み木を積まないの」と息子に言いながら、泣きました。OT(作業療法)のセラピストから「積み木を積むことから見立てができるようになり、それは目に見えない世界を仮定するということへとつながっていきます。積み木を積むこと自体よりも、そこから発展していくことが大事なことなんですよ」と言われました。それでも積み木を積めないことにはそこから先なんて話にもならない、と思いました。意味がなくてもいいから積み木を積んでくれたらそれでいい、と願いました。頑固な息子は積み木を積みませんでした。ある日、息子はブロック(LEGOのような)遊びに目を輝かせていました。はめてははずす、その繰り返しを楽しんでいました。何をしているのか私にはわかりませんでした。毎日みていると、初めは二つのブロックをはめてははずしていたのが、ブロックが三つになり、四つになり、数が増えていました。私はハッとしました。息子は曖昧な感覚が嫌いなのです。階段を上るときもダラダラ登ることを嫌い、小気味よくタンタンタンと音を立てるように上ります。積み木は曖昧です。少しずれていても積めます。そしてグラグラ不安定にもなります。ブロックは組み合わせです。カチッと組み合わせて出来上がっていきます。グラグラしません。息子はその感覚が好きだったのです。ブロック遊びは感覚的にも満足でき、息子はとても楽しみました。ブロックで、タワーを作りました。トンネルも作りました。そして、息子は自慢の作品ができると「ママ、みてみて」と持ってきて、見せたがります。息子は一人だけで楽しんでいるのではなく、私にもその楽しみを分かち合ってくれるのです。「ママ、トンネルつくって」「まな(妹)、一緒にやろう」と誘いかけてきます。健常な子なら当たり前のことですが、息子のような障害を持つ子にとって、誘いかけや人と感情を分かち合うということはものすごいことなのです。息子がブロックで作るものは時々私の想像を飛び越えます。「ママ、これなーんだ」と持ってきたもの、「これは傘」といわれて、みてみるとちゃんと「し」の字の柄のある傘でした。「これはねえ、Z」といいながら「Z」型のブロックをみせてくれました。「これねえ」と繰り返しなかなか答えを教えてくれないブロックはどうみても「階段」。でも、息子は「みんな一緒」と呼びました。息子は階段は階段と知っています。なんだろう、と不思議に思っていました。私も息子との付き合いが五年も続くと謎解きも少しだけ上手になりました。息子は療育センターから近くの公園にお散歩にいくとき、リーダー的存在なので、他の子の手を取り歩きます。お散歩道には階段があり、そこでは先生たちが「みんな一緒に行きます」と声をかけるそうで、そうすると息子は他の子の手をつないで階段を歩くらしいのです。息子は自分で作ったブロックのかたまりから、大好きなお友達との散歩道を想像していました。息子は積み木を積みませんでした。でも、積み木じゃなくてもいいんです。息子は息子のやり方で社会へとつながっています。

 私と息子は明るい夢いっぱいの世界から暗闇におち、夢をなくしました。でも、手をつないで歩いていたら、今まで想像しなかったあらたな夢がみえてきました。息子は「できない子」でもなければ「かわいそうな子」でもありません。私をびっくりさせてくれる刺激的な子です。時々刺激が強すぎて私がヘトヘトになります。息子は努力の人です。毎日力いっぱい生きています。私は息子の子育てが楽だとは思いません。大変なことがたくさんあります。でも、息子は生まれたときも今もずっと「ママの大事なゆうちゃん」なのです。誰もゆうちゃんの代わりになれません。そして誰も私の代わりにもなれません。人はみんな、唯一の人なんです。