ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 頑張る

頑張る

 

 

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。みなさんにとって昨年はどのような年でしたでしょうか。そして、今年はどんな年であってほしいと思われますか。私にとって、昨年は大きな年でした。日本人でありながらも日本から離れていたせいか、帰国して日本での生活を始めるとたくさんの混乱があり、納得いかない風習があり、それでも文句を言ったところで今日明日の私たちの生活が変わるわけもなく必死で乗り越えてきました。そして、どんなときも私のそばには子供たちが寄り添い、支えてくれました。昨年も私たち親子、がんばりました。

 

「がんばる」って、日本の文化を背負った日本語ならではの意味を持つ言葉に思えます。英語に訳すとどういう言い方が適当なのでしょう。人から「がんばって」と言われたらどう思われますか? うれしいですか、うっとうしいですか、それとも「黙れ」と反発心を持ちますか? 私はそれらのどの感情もあり得ると思います。自分が努力してもう限界だと思うくらいまでやっても結果が思わしくないとき、「がんばれば大丈夫」といわれると「がんばってきたけど、全然大丈夫じゃないじゃん」と腹立たしくなります。たとえば、私は学生時代、成績にムラがある生徒でした。得意な教科は成績もよかったのですが、苦手な教科は恐ろしくできませんでした。個別懇談などで先生から「成績にムラがあるけど、やればできるんだから、もっとがんばりなさい。そうすれば大丈夫なはずだ」といわれると、「できないものはできないんです」と反発心を持ったものです。私は確かに怠け者でもありました。でも、嫌いな教科に向き合えないというのも、がんばってもできない理由のひとつなのですから仕方ないのです。それを他人に「大丈夫」なんて軽々しく言われたくありません。

 日本に戻ってきた当初、私には車もなく、息子はこだわりとかんしゃくの絶頂期で、娘もまだ小さく、これからどうして三人で生きたらいいのかわからなくなり、相談に行きました。当時、私はまだ抗がん剤も終わったばかりで肺炎を繰り返すような状態で心身ともにへとへとでした。「相談に行けばなにかいい方法がみつかるかもしれない」と聞いて、藁をもすがる気持ちで出向いたところ、「お母さん、がんばらなきゃ。お母さんががんばらないとだめですよ。もう少しがんばってみてください。お子さんのためにもがんばってください」と言われ、なにも得たものはありませんでした。「がんばってなんとかなるものなら、その方法を教えてください」と苛立ちを感じながらも反論する力もなく黙って帰途につきました。

 かつて、私のいとこがうつ病になりました。叔母がいうには「うつ病の人に、がんばってという言葉は絶対に言ってはいけないの。がんばりすぎたからこういう状態になったわけで、それをもっとがんばれなんて追い込んではいけない」とのこと、私はいとこと話すときもそれだけは気をつけました。

 こういうふうに「がんばって」と言われてネガティブな気持ちになるのはなぜでしょう。きっと、一生懸命やっているのに、他人から自分の努力をあっさり否定され、「あなたは努力不足ですよ」とおまけまでつけられた気持ちになるからではないでしょうか。相手はもしかするとそこまで深く意味をこめたつもりはないのかもしれませんが、受け取る側としては「これ以上どうしろと言うのだ」と混乱をも感じてしまうのでしょう。

実際、私自身がこういう思いで「がんばって」と言われてきたせいか、長い間「がんばる」という言葉が大嫌いでした。軽々しくあいさつのように、「じゃ、まあ、がんばってよ」という人に出会うと、「無責任」と心の中でぼやいたものです。

 

 そんな私でしたが、今は毎日「がんばって」を言います。一体、なにが起きたのでしょう。私は「がんばる」という言葉の持つ別の面を子供たちから学びました。発達障害を持つ息子は、同年齢の子供たちと比べるとできないことがたくさんあります。でも、それは永遠にできないわけでなく、ただみんなとは違う時間の流れをしているため、習得するまでにみんなの何倍もの時間がかかることが多々あるのです。私はずっと息子に対して「がんばってよ」ということを避けてきました。息子を急かし追い立てるようで、そのつらさは私自身が体験してきたから息子には同じ思いをさせたくないと思ってきました。ところがある日、息子がいつものように靴下履きに悪戦苦闘していたら、娘が手拍子をしながら「ゆうくん、がんばれ。ゆうくん、がんばれ。」と応援していました。息子はちらりと妹をみながら、靴下が思うようにつま先、かかとに位置が定まらないことにいらだち始めました。おかまいなしに「お兄ちゃん、もうちょっとだよ。がんばれ。」と応援する妹を横目に、お兄ちゃんは靴下をクルクル回し、ぴょこっとつま先もかかとも定位置に落ち着きました。口達者な娘は「お兄ちゃん、がんばったね。上手にできたよお」と母親のようにお兄ちゃんを褒め称えました。「がんばれ」という娘の応援には、「お兄ちゃんは努力しないからできないの。ちゃんと努力すればできるはずなのに。」という否定的な気持ちはまったくなく、ひたすら「お兄ちゃん、うまく靴下履けるといいなあ」と願う応援だったのです。そしてそれが成功したとき、「お兄ちゃんががんばったからできたんだよ」とお兄ちゃんのがんばりをしっかりと認めてあげていました。娘は物心ついたときからお兄ちゃんのがんばりを目の当たりにしているからそれを一番わかっているのです。それで出てきた「がんばれ」は私の心にじんときました。

 毎朝、子供たちを送り出すとき、私は一人ずつ抱きしめ、おでこにキスして、「今日もがんばってね」と言います。私はその言葉に「努力していい成果を出してきて」とは込めません。「思いっきり楽しい時間をすごしてきてね。自分らしく力いっぱいすごしてきてね」という思いで送り出します。お迎えの車の中で、子供たちはこう言います。「今日もまあちゃん、がんばったよ。折り紙でアメンコ作ったし、お絵かきもしたし、お友達とお花の蜜も吸ったよ。」「お兄ちゃんもがんばってたよね。お兄ちゃん、なべなべ底抜けをやっていたよね。ねえ、お兄ちゃん。」 今日も楽しかったんだなあ、と微笑ましくなります。子供たちはそのときそのときを精一杯生きているのです。それががんばるということではないでしょうか。

 

 毎日生活していると、疲れることもあります。自分のイライラから子供を怒ってしまうことがあるともっと気分は滅入ります。「ああ、私はダメな母親だなあ。もっと大きな気持ちの母親なら子供たちも怒られなくてすんだのに、私はだめだなあ。」とネガティブにもなります。そんなとき、私は空を見ます。私は昔から空を見るのが好きでした。なぜならば空はみんなに平等だから。空は試練とか人生修行とかそんなことは下しません。空はどこから見ても見え方は違ったとしても同じ空だから。空はいろいろな表情を見せてくれます。私が一番好きな空は夕方の空です。濃いオレンジの空だったり、雲が不思議な形でかかっていたり、ピンクや紫だったり。私は疲れたり、落ち込んだりすると夕方の空を見ます。そうすると、なんだか空が私のネガティブな気持ちを抜き取り、私は目に見えている空のままを気持ちの中に取り入れるようで、自分で自分を「よくがんばってるよ」とほめてしまうのです。かつては成果のない私の人生を「がんばっている」なんておこがましいと思ったものですが、最近は年のせいか図々しくなり、自分を認めるどころか最大級に褒め称えてしまうのです。

 余談ですが、うちは不思議なことに親子三人ともに空を見上げることが好きなのです。私は自分の心が落ち着くから空をぼーっと見上げるのですが、息子は空を飛ぶ飛行機やヘリコプターが好きで空を見上げ、好奇心旺盛な娘は空にある「みーつけた」を発見するために空を見上げます。聴覚が大変高性能な息子の耳には私たちには聞こえないような遠くを飛ぶ飛行機やヘリコプターの音が聞こえます。音が聞こえると、「あ、飛行機!」「あ、ヘリコプター」とうれしそうに空を見上げます。夕方、ベランダで夕焼けをみていると、娘は一緒に出てきて「あ、白いお月様みーつけた」と指差し、夜空をみては「あ、一番星だあ。まゆちゃん(息子が生まれる一年前に亡くした娘です)のお星様かなあ。」と会ったことのないお姉ちゃんをみつけています。空には不思議な力があるように思います。ただ、私がひとつだけわかるのは、空はすべてを認めてくれるのです。怠けた人も、がんばった人も、空はちゃんとそれを認めてくれます。だから落ち着くのです。空はきっと、私たち親子の一日をちゃんと受け止めてくれるから、私たちも空を見上げてしまうのかもしれません。

 

 今年はどんな年になるのでしょう。私たちをとりまく社会はどのように変化していくのでしょう。社会がどう変わっても、私は自分というものをしっかり持っていたいと思います。ただ、まず目先のことで目標を立てるとしたら、「なるべく怒らないこと」です。怒らないことははっきり言って無理です。4歳、5歳の子供がいたら毎日観音様のような顔ではいられません。でも、できることなら自分自身が滅入るほどは怒りたくはありません。がんばって怒らないようにしよう、というのもおかしなものです。私は毎日をがんばって生きます。大腸がんを患った者としては「いつ再発するか」「長くは生きられないかもしれない」といった思いがあることは否めません。だからこそ、一日一日を大事に精一杯力いっぱい生きたいと願っています。宝くじで何億円当たるとか、身分不相応なことは望みません。でも、人の生きる道として、毎日子供に背中を見せられるように生きていきたい。それが私にとってのがんばるという意味です。今年も私はがんばります。気持ちが滅入ったら空を見上げます。そうして生きた結果として、ほんのちょっとでも怒らないママになれていたら最高にうれしいですね。