ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 不思議な日本語

不思議な日本語

 

 かつて私が若者だった頃(過去形になることがちょっと悔しいけれど)、私たちの使う言葉を「乱れた日本語」と呼ばれました。「ナウい」「やるっきゃない」といえば、どの時代かおわかりでしょう。

その頃は、流行の言葉も使えない年寄りのひがみだと思っていたのに、いよいよ私もその年寄りになって参りました。そうなんです、今の流行の言葉遣いが耳障りだったり、おかしな使い方の日本語に立ち止まってしまうのです。時としていらだちを感じたりもします。言語学的に正しいか間違いかということではなく、あくまでも私個人が好きか嫌いかということなのですが、みなさんには気になるまたは耳障りな日本語はありませんか。では、私が気になってしまう不思議な日本語をいくつか紹介してみましょう。

 

「~的には」

 「わたし的にはそれでもいいと思うんだけど」などと言われると、「そのわたし的って、どういう意味よ」と不快な気分になります。おそらく話している人は意識的にかまたは無意識か自分という部分をあいまいにしていることで語意を和らげているのかもしれませんが、聞いている方としては不自然で、私のような年寄りには「私が、でしょう。わたし的にではないでしょう。」とイラっとさえしてしまいます。たとえば「経済的には」「年齢的には」という使い方であれば自然に聞き入ることができるものの、自分という存在を最もわかっているはずの自分が「わたしとしては」「わたしは」をあいまいにしてしまうことがどうも年寄りの私には受け入れがたいのです。そして、「的」の前に名詞がつくなら意味も明確ですが、「わたし」というのは代名詞です。おかしな響きではありませんか? しかし、ある辞書ではこの「わたし的」を「~的」の例文としてあげられています。わたし的にはこれはどうも受け入れることができません。

 

「ガチ、ガチンコ」

テレビ番組で「ガチで」「ガチンコ勝負」という言葉をよく聞きます。これも私が嫌いな使い方のひとつです。もともと「ガチンコ」というのは相撲などの勝負での真剣勝負を意味する隠語だったそうです。だから最近作られた若者語ではなく、以前からあった言葉なのです。でも、最近はやたらと「真剣」を意味する場面で「ガチ」「ガチンコ」が使われ、天下のNHK教育テレビで「ガチンコ勝負」と見出しに出ていた時は、私はためいきをつきました。普通に「真剣勝負」といえばいいではありませんか。「どちらもガチです」って、いい大人が言うのに適しているのでしょうか。私が「ガチ」という言葉を使う時は、寒さで歯がガチガチと音を立てている、という時くらいです。

 

「サクサク」

サクサクっていうのは、クッキーなどを食べた時に「サクサクしておいしい」と言います。そのときのサクサクは歯ざわりです。では「インターネットがサクサクつながる」っていうのはどうでしょう。感じとしてはわかります。でも、私はクッキーのサクサクとインターネットとはどうしてもつながらないのです。クッキーを食べた時のサクサクは擬音語、それがどうしてインターネットがつながるときにサクサクとなるのでしょう。コンピューターやインターネットのテレビコマーシャルで「サクサク」と聞くたびに、私はクッキーが食べたくなります。

 

「ガッツリ」

 「ガッツリといえば、食べる」となるのは私だけでしょうか。「トンカツをガッツリ食べる」というイメージがある「ガッツリ」なのですが、これを「では、ガッツリやってもらいましょう」と言われてしまうと、それは違うもんねと反論したくなってしまいます。トンカツはたっぷり食べますが、ガッツリやるってのはなんだかおかしく聞こえます。勢いよく、って意味ではどちらもあてはまるかもしれませんが、そこらじゅうで「ガッツリ」と聞くと、私はトンカツを食べ過ぎた胃もたれのように感じます。

 

「~から」

 コンビニに行くととても不思議な言葉を機械的に耳にすることがあります。 たとえば、五百円くらいの買い物をしたとします。そしてお財布には一万円札しかなく、両替してるみたいで申し訳ないなあと思いながらも一万円を出します。レジのお姉さんは笑顔でこう言います。「一万円からお預かりします」と。え?一万円からって?違うよお、私から一万円お預かりしたんだよ、私は一万円じゃないよ。私が渡した一万円はレジのお姉さんになにも預けてないよ。常々こんなことを思っておりました。おそらくこの「~から」も語を和らげるための言い回しなのでしょうが、何度聞いても不思議でなりません。たまたま友達がコンビニでアルバイトすることになりました。研修があり、マニュアルがあるというから、もしかすると彼女ならこの「一万円からお預かりします」の出先を知っているかもしれないと思い聞いてみました。すると彼女から思ったとおりの答えが返ってきました。「一万円からお預かりします、って言うんだよ。そう言うようにって言われてるもん。そのほうが丁寧っぽく聞こえるでしょう。」と。「一万円お預かりします」で十分丁寧な気がします。そこに「から」をつけるのは蛇足ではないでしょうか。

 

「~も出た!」

 テレビコマーシャルをみていると、本当にたくさんのものが「新発売」となっております。コマーシャルとは一体なにかと考えることがあります。多くの人にその商品を知ってもらいたいと、商品を宣伝することではないでしょうか。その商品について「教えてやる」「知らせてやる」ではなく、「知ってもらいたい」ですよね。既存の商品プラス新しいフレーバーの新商品をも宣伝するとき、どうして多くの場合、タレントさんたちが「メロン味も出たー!」「フレッシュフローラルも出た」などと言い放つのでしょう。私はこれが気になってなりません。私としてはもっと謙虚に宣伝してもらいたいのです。テレビをみながら、「メロン味も出ました、と言ってください」とぼやくのは私も年をとってきた証拠でしょうか。たとえば、お店にいって店員さんから「メロン味も出たんですよ。よかったらお試しください」と言われたら「そうね」という気持ちになるものの、「メロン味も出た」などと言われたら、私はきっと「だから何?」とむっとした顔をするでしょう。テレビをみながら、こう言い放つ意味はなにかと考えてしまいます。

 

「いきます、せーの」

 これは子供の遊びで順番がきて、「じゃあ、いくよ、せーの」でぴょんと飛ぶのならかわいいと思います。私がムカムカイライラするのは、この言葉ではなく、場違いな設定でそういうことを言うことなのです。テレビのグルメリポーターの若い女の子によくあるのです。そこまでびっくりすることないような、たとえば濃厚ミルクからつくったアイスクリームとか、そういうものを食べる時、「では、いきます」と深呼吸までして「せーの」ってアイスクリームを口にいれ、もうたまらないとばかりに天井を向いて目を閉じてしまう。どうして食べる前に「いきます、せーの」とそこまでの覚悟をして挑むのでしょう。生きている大蛇の生かじりに挑むなら、覚悟を決めていくでしょうが、アイスクリームくらいさっさと食べてくれないかい。いくらおいしいアイスクリームだとしても、天井向いたまま目を閉じ、もうだめ、これ以上やってられない、ってふうに「うーん、もう、んー」というのは本当にあるのでしょうか。アイスクリームのことを言ってるんじゃないですよ。いくら丼でも、カレーライスでも、とにかく「いきます、せーの」と覚悟を決めるような食べ物が一体、私たちのまわりにどれだけあるのでしょう。そして、一口食べて言葉もなく意識不明になりそうな顔になる、それはどんなものを食べたらそうなるのでしょう。アイスクリームを前に「いきます、せーの」というのなら、リポーターさんはアイスクリームに顔をうずめてください。そしたら、アイスクリームを口にして言葉をなくし「うーん、もう、んー」とうなっていても私は納得します。

 

「ご利用ください」

 以前、ニュージャージー便りを連載していたときに、ニュージャージーのベーカリーをいくつか紹介したことがあります。いまだに私はベーカリーが好きで、パンの香りに誘われてお腹がいっぱいでもベーカリーをのぞきにいってしまいます。焼きたてパンの香りはたまらないですよね。焼きたてほやほやのまだあったかいパンが登場すると私は思わず拍手喝采したくなります。スーパーに買い物したついでにその一角にあるベーカリーをのぞくことはほぼ日課なのですが、ここでもまた不思議があるのです。頭を三角巾で包んだお姉さんが大きなお盆にならんだ焼きたてあんぱんを持って、「ただいま、あんぱんが焼きあがりました。ご利用くださーい。」と言うのです。そして、あんぱんを並べながらも繰り返し言うのです。「焼きたてのあんぱんです。ご利用くださーい」と。ご利用くださいって言われても、焼きたてあんぱんをどうご利用したらいいのでしょう。ここに並んでいるパンは売り物で、お姉さんたちはそれを売り、お客さんたちをそれを買って食べるのです。では、このあんぱんをほかにどのようにご利用できちゃうのでしょう。それとも「利用」という言葉には私が知っている以外の意味があるのでしょうか。おいしそうな香りにつられてベーカリーの前まで行き、この「ご利用ください」が聞こえると立ち尽くし、「一体どのようにご利用できるのか」としばらく考えてしまうのは私だけでしょうか。

 

「大人、中人、小人」

 先日、通勤途中の信号待ちで大きな看板を見ました。おそらく多くの人は気にも留めないくらいこれといって目立った看板でもなく、ごく普通の格安床屋の看板でした。しかし、これがまた私の目を釘付けにしたのです。看板には床屋の名前、料金、住所と簡単な地図が書かれていました。「大人 1500円。小人 800円」ひゃあ、私は思わず声を上げそうになりました。私がまず最初に思ったのは「大人って、当て字かなあ。お・とな、それとも。おと・な?大って字はどこまでカバーしてるんだろ。大きい人がおとななら、おとなの男は大男でおとなの女は大女ってこと?」でした。そしてふとその下をみてびっくり。「え、こびと? こびとさんが来るんかい?」思わず七人のこびとたちが床屋にやってきて「おやじ、散髪してくれい」と言うのを想像してしまいました。うそ、こびと料金があるなんて。。。ひとり車の中で爆笑し、次の信号で我に返りました。「違う、あれはこびとさんじゃない。あれはたしか子供のことだ。」職場で友達に話したら、あまりに見慣れているから小人とみれば子供と読んでしまうといわれ、ついでに「中人まである」と教わりました。映画館にいくと中学生は中人になるんだと。私だって、冷静になって時間かけて見れば「小人は子供」とわかります。でも、いきなり心構えもなく看板をみたら、そりゃ驚きますよ。床屋さんにこびと料金があると思ったんですから。

 

 みなさん、私がどのような毎日を送っているか少し想像していただけましたか。若者の言葉にいらだち、不思議な日本語に戸惑い、一日の半分はそんなことで過ぎているかもしれません。かつて大学の言語学の先生に言われたことがあります。「文法的には間違っていてもその言語のネイティブスピーカーが使い、それがその社会に溶け込んだ言葉や言い回しであった場合、それはもはや間違いでなくその言語になっている。」私が不思議に思う日本語も今では日本語としてのステータスを確立しているのでしょうか。そして、それが耳障りに感じるのは、私が現在の日本社会にまだまだ溶け込めていないからでしょうか。