ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 アメリカの戻ろう

アメリカに戻ろう

 

 四月に主人が来ました。別にこれからどうしていくかを相談したわけではありませんが、子供たちについては共通の考えがあることは確認できました。方法は違っても私たちは親として子供たちには幸せになって欲しいと強く願っています。夫婦としての私たちはたくさんの違いがありすれ違うことが多かったのは確かです。でも、子供を通した時、私は「子供たちの父親」を憎めないどころか尊敬し、彼は私を「子供の母親」を苦しめたくない、という思いでお互いをみることができます。子供がいなかったら破綻していた私たちの関係がこうしてつながっているのは子供がいるからで、お互いが子供を大事に思えるのはこれが私たちの形だからだと思います。

 

 四月から息子が小学校に入学しました。主人は小学校の校長ですから、息子の小学校の校長にも挨拶をし、滞在中は息子のクラスに毎日通いました。主人は大きなため息をつきました。ニュージャージーでは特別支援クラスの教師は専門です。なのに、息子の担任は普通クラスから転がり落ちてきたような「小学校担任」教師なのです。ニュージャージーでは「小学校担任」と「特別支援」は異なる資格です。私もはじめは驚きとショックとでめまいしそうでしたが、日本に暮らしているとそういう状況の中で生き抜くことを強いられているためある意味麻痺していました。主人が「子供には教育を受ける権利がある。あのクラスであの教師が障害のあるユウ(息子)に何をどう教えるのだ。ユウには特別な支援が必要だ。しかし健常児から隔離して特別な場所に入れてしまう必要はない。普通クラスと特別支援の両方をバランスよく受けていくためにもユウをアメリカで教育を受けさせて欲しい」と言いました。私は反発できませんでした。なぜならば私も同じことを考えていたからです。息子のためだけではありません。息子には自立してほしい、そして娘には娘の人生を歩んで欲しい。息子が自立していくために私はアメリカの教育を選択したいし、同時にそれは娘のため、そして私たち親子が健康な形で生きていくためでもあると考えました。

 

 息子は小学校に入ってからたくさんつらい思いをしました。ガイジンと呼ばれ、ジロジロ見られました。同じ特別支援クラスの上級生にいたずらされたり、毎日暴力を振るわれていました。先生も麻痺しているせいか、目の前で上級生に突き飛ばされている息子を見ながら止めようともせず、「あの子は私たちにも暴力を振るってくる子ですから」と苦笑いするとはどういうことでしょう。私は先生たちの目の前で何度となく上級生のふたりを怒鳴ってきました。こんなふうに一学期を過ごすともう結論は固まります。アメリカに戻ろう!

 

 調べてみるととんでもない事実を知りました。私はグリーンカードを持っていますが、アメリカを出国する前に手続きせずに一年以上アメリカ国外に出ていたらグリーンカードは無効になるのだそうです。子供たちは二重国籍だから問題ないとしても私はアメリカに戻れないわけです。これは困りました。私は子供たちなしでは生きていかれませんし、子供たちも同じです。私たち親子三人はどんなときも運命共同体で生きてきました。離れて暮らすわけにはいきません。あの頃は癌の手術、抗がん剤人工肛門の手術と、体は限界に達していました。息子はこだわりと癇癪のかたまりのような状態で、しっかり者の娘とはいえまだまだ二歳、この先三人どう生きていけばいいものかと行き詰る思いで日本に帰ってきました。目の前の一日がいっぱいいっぱいで先を考える余裕などありませんでした。だから、「あのときどうしてちゃんと手続きしてこなかったんだろう」という気持ちはありませんでした。あのときはあのときで精一杯生きてきたわけですから。

 

 また調べました。そしたら「Returning Resident visa」なるものを取得すれば再入国が認められるとわかりました。まずは申請です。申請は東京か沖縄でしかできません。在日アメリカ大使館のウエブサイトで予約希望の週をリクエストすると翌日には返信メールで予約の日時が知らされます。申請に必要となる書類がかなりあるため、予約は二週間後にしました。その二週間で主人から取り寄せる書類を急かし、私が日本に帰国した理由を証明するためかかりつけの病院の医師から診断書を出してもらい、手元にある諸々の書類のコピーを取り、そして申請書の必要事項を記入しました。提出書類はどれも英文でなければなりません。幸い、私の担当医は英語ができる方でしたので翻訳に出したりの手間が省けました。

 

 愛知県に住む私は東京にあるアメリカ大使館に行くのに新幹線に乗ります。豊橋から新幹線に乗り、なんだか日帰り旅行のようです。途中富士山がみえ、かつて住んでいた熱海を通り、懐かしさでいっぱいになりました。あの頃熱海に住んでいた私は仕事で東京に行くこともありました。同じように新幹線で東京に向かっているのに、私はあの頃とは違う。年をとりました。職業も変わりました。そして、今の私には「ママ、お土産買ってきてね」と私の帰りを待っている子供たちがいることです。

 

 品川駅で新幹線をおり、そこからアメリカ大使館まで地下鉄を乗り継いでいきます。かつての私は田舎者と思われるのがいやで乗り継ぎは出発前に頭にたたきこみ、いかにも「東京人」の顔して闊歩したものですが、今の私は正真正銘の「おのぼりさん」。見回す、見上げる、看板探す、それでもわからないときは人に訊く。そんなことしながらやっとの思いでアメリカ大使館にたどりつきました。初夏とはいえ暑い日でした。予約時間の午後二時はまさに炎天下。順番待ちの列に二十分ほど並び、干物になりかけた頃やっと入館できました。

 

 最初に日本人スタッフが書類をチェックしました。それがすむと次はアメリカ人面接官との面接です。面接ではどういう理由で日本に戻ったのかと訊かれ、私の病気や子供たちが幼かったことなどを話すと「君は本当によくがんばってきたね。もう体調はいいのかい。無事にアメリカに戻れることを祈るよ。君の申請は問題ないから、次に必要なことが書かれたものが近日中に届くはずだ。そしたら、インストラクションに従えばいいだけだ。よくがんばってきたね。」と優しいお言葉までいただき、申請は受理されました。聞いた話では、面接官によっては優しさどころか事務的に質問され、答えによっては大変冷ややかな目でみられるというから、私はラッキーだったのかもしれません。

 

 帰りの新幹線での私は両手に東京土産を抱え、ふたたび始まるニュージャージー生活を想像しました。苦しみつらかったこともたくさんありました。またそういう生活に向き合えるだろうか。やっと日本の景色がみんなと同じように目に映るようになり、疲れた日にはスーパーのお惣菜コーナーで今夜の夕飯を買い求め、懐かしの昭和音楽がテレビでやっていれば三ツ矢サイダーを飲みながら柿の種をほお張り、そんな日にお別れする手続きをしてきたことは正しかったのか。特別でない普通の日本人の友達に囲まれ、時々は愚痴り、時々はテレビや流行の話に夢中になり、「あ、やだ、もう子供たちが帰ってくる、洗濯物も取り込まなきゃ。じゃあ、また今度ゆっくりね」と言いながらもいつもあわただしい私たちパート主婦。私はこんな仲間なくして毎日を楽しめるのだろうか。一時間前申請が受理されたことに喜んでいた私なのに、新幹線の窓の外の景色を見ながら不安ばかりが押し寄せてきました。

 

 申請が受理された翌日、アメリカ大使館からメールがきました。次回面接までに揃えておくべき書類、健康診断について、警察からの犯罪証明などが書かれてありました。その中のひとつ、「タイ警察からの犯罪証明」がありました。なんで?と思い、調べてみると日本とアメリカ以外の国に一年以上住んだことがある人はその国の警察から犯罪歴がないという証明を出してもらわないといけないとありました。私はかつてタイに二年住んでおりました。対象です。これは大変なことだと思いました。今はわかりませんが、私がタイに住んでいた頃は、タイ人は何事も「マイペンライ(気にしないで、大丈夫)」と適当に交しているように感じられました。だから、日本の警察から犯罪証明を出してもらうのは全く問題ないとしてもタイ警察からとなると話はまた別です。タイ警察から証明を出してもらわないことには書類不備になってしまいます。

 

 そこでまた調べました。いやいや、最近のタイ警察はちゃんと書類は出しているそうです。かつての古い勝手なイメージで疑ってかかってはいけません。ちゃんと出してくれるとわかればリクエスト書類をちゃんと揃えないといけません。ほかにも日本の警察からの犯罪証明、特定医による健康診断とその証明、出生証明、結婚証明などなど。一つずつ片付けていくには時間がかかりすぎるため、すべてを並行して集めることにしました。

 

 お金も時間も労力もかかる作業です。それをしなければアメリカには戻れません。特定医からの健康証明を出してもらうために神戸にある特定医をたずねました。交通費もかかりますし、診断料もかかります。タイ警察へ犯罪証明リクエストのためには公証印で証明されたパスポートのコピーを送る必要があります。公証印が思っていたよりも高いのです。ビザとは取得するものではなく購入するようなものと思うくらいに費用がかかりました。

そこまでしてアメリカに戻りたい?私ひとりならこんなまでしてアメリカに戻りたいとは思えないでしょう。でも、私はひとりではありません。大事な子供たちには未来があります。私がいなくなった後も子供たちが幸せで自立した生活を送るにはその子に適した教育を受ける必要があります。うちの子供たちにとってはやはりアメリカでの教育のほうが適しているでしょう。

さて、私は今どんな状況にいるでしょう。続きは来月号に。来月号が出る頃、私たち親子は一体どこにいるのでしょうね。