ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 今を生きる

今を生きる

 

 さあ、今私たち親子はどこにいるのでしょう。先月号の終わりの問いかけの答えです。私たち親子は日本にいます。そしてこれからも多分、きっと、絶対とは言い切れませんが、日本で暮らすことになりそうです。私は運命とか、神様とか、目に見えないものに対しての信仰心はまったくありませんが、それにしてもなぜ私たちの生きる道はこうも平坦には行かないのでしょう。私だけならまだしも子供たちを巻き込んでいることに時として腹立たしくもなる私の人生です。

 

 十月に入り、いよいよアメリカ行きの飛行機チケットを購入しようと思っていた矢先、アパートをひきあげる矢先、息子の学校にアメリカ行きを知らせようと思っていた矢先、そうです、なにもかも予定が立ててあり、あとは波に乗るだけになっていました。ふと気になりながら、まさかという思いと現実を知る怖さとで主人に聞くに聞けずにいたことがありました。でも、まさかという思いが強くなり九月三十日の深夜聞いてみました。「今、家の二階には誰が住んでいるの?」と。うちは二世帯住宅のようなアパートでして、私たちは一階に住んでおり、二階は他人に貸しておりました。十月一日の早朝主人から返事がきました。だんなと別居中の妹と彼女の子供たちが二階に住んでいると。そして、Studioタイプの地下の部屋にも親族の誰かが住んでいると。大きくため息をつき、窓の外を見ると遠く暗く悲しい過去が蘇ってきました。子供たちの寝息を聞きながら明けていく空を見上げました。

 

 世の中には嫁姑問題、義理家族との関係で悩む人は多々います。私もその一人でした。辛くて苦しい日々でした。毎日逃げるような思いで暮らしていました。そんな中で癌と闘い、子育てをしているうち私は疲れてしまい、日本に帰ってきました。それでも主人に感謝しているのは、最終的に私から子供たちを取らなかったからです。私と子供たちにこうして生活を送らせてくれていることに本当に感謝しているのです。だからまたアメリカに戻り、子供たちに特に息子に教育を受けさせて新たな生活を始めようと、きっと大丈夫だと思っていました。

 でも、現状は違うことを感じました。あの家に戻れば、子供たちは今のような私とののんびりだらだら生活は送れなくなり、「今日はどこいく?」「公園行きたい」「いいよお、じゃあ、支度しようか」なんていう普通の週末もなくなります。確かに息子にはよりよい教育を受けさせられるでしょうし、私も息子の障害を学校と相談しながら取り組めるでしょう。でも、家庭生活は今のような安定さはなくなります。私はどうすべきか、本当にわからなくなりました。誰に訊けば正解を教えてくれるのでしょうか。私たちはアメリカに戻るほうがよかったのでしょうか。子供の教育を犠牲にしてでも自分の生活を優先する母親は子供を不幸にするのでしょうか。子供はどういう状況が一番幸せなのでしょうか。明けていく空は夕焼けにも似ています。今が始まりなのか、終わりなのか。私はなにもわからなくなりました。

 

 午前六時、空は明るく、息子が起きてきました。「ママ、コーヒー入れる?」「ママ、新聞は?」息子は私の入れたコーヒーの香りをかいで、新聞のスポーツ欄を見るのが毎朝の日課です。こんな普通の朝が私たちの毎日なのです。この普通の朝を失うことが怖くなりました。誰が悪いのでもありません。ただ、私はこんな朝を誰にも邪魔されたくない。朝なのか夜なのかわからないような朝はもう嫌だと思いました。これからそんなに長くもない人生なのだから、私が我慢すれば子供たちに幸せが訪れるとしたら私は人生を捨ててでも乗り越えるべきかもしれません。でも、本当に子供が幸せになれるのでしょうか。学校でがんばってきた子供たちにはくつろげる家庭が必要です。それは親戚がつくるものではなく親が作る家庭なのです。私はこの子達とこの生活で暮らしたい、と強く思いました。

 午前六時半、娘が起きてきました。「ママ、まあちゃんね、プリキュアの夢見たの。まあちゃんも大きくなったらプリキュアになるの」とまだ眠たそうに話してくれました。娘にはずっと支えられてきました。いろんなことを相談してきました。まだ五歳です。でも、私は娘を家族の一員として本当にいろんなことを相談しています。家具を置く場所から、新しく買ってきたクッション、そしてこれからの私たち三人のこと。「まあちゃん、ママ、アメリカに行くことがいいのかわからなくなってしまったの」と言いました。いい年した母親が早朝から五歳の娘に話すような話題ではありません。でも、私の中ではこの日の朝は何年にも感じられました。こんなダメ母に娘はさらりと、「ママ、まあ、ゆっくりしなよ。まあちゃんは日本好きだし、保育園も好きだからいいよ。」と言いました。

 

 そっか、そうなんだ、私はゆっくりしたくて日本に帰ってきたのにいつもあせってばかりでした。いつも「これでいいのかな」と不安ばかりで。でも、これが私なのかもしれません。いつもあせって、不安ばかりで、落ち着くことすら怖くて。十月一日は大きな日でした。主人に「もう一度考えたい。私は過去と同じ状況に戻る勇気はないし、その中で貫くには年をとりすぎている。」と伝えました。一体何通のメールのやりとりをしたのでしょう。コミュニケーション不足の私たちが、一日であんなにたくさんのやりとりをしたのは出会った時以来かもしれません。いつもどちらかの一方的な事務的なやりとりだった私たちなのに。

 「ママはアメリカには戻らない。でも、これはママがそう思っただけ。ゆうちゃんとまあちゃんはどうしたい?」と、帰宅早々の子供たちに訊きました。「まあちゃんはママとゆうくんと一緒がいい。まあちゃんはママに大きなおうちを建ててあげるから、今はこのおうちで三人でいいよ。」娘は家長のごとくはっきりと意見を言いました。言葉でのコミュニケーションが苦手な息子ですが、ここぞというときには態度で表現してくれます。それは顔の表情だったり、私たちとの接し方だったり、態度だったり、絵だったり。このときも息子は言いました、「ママ、まあちゃんも一緒」と。三人でいることがいいという意味です。

 主人は子供たち特に息子の学校教育を心配しました。それは私も同じ思いです。でも、子供の生活にはバランスが必要です。そして、そのバランスはあの家で暮らす状況において保てないことは彼も私もわかっています。たくさんの子供たちは、家族だけの家で家庭生活を送り、普通に学校に通っています。極論を言ってしまえば学校に通えない子もいる、親と暮らせない子もいる、となりますが、私たちのまわりではそれが一般ではありません。私たちはどちらかひとつを選ぶしかないとしたら、私たちは教育より生活を選びました。

 

 昨日、主人から電話がありました。また一ヶ月前と同じように冗談を言い、子供たちは電話口で「ダダはウンチだ」「ダダはクサイ」などとふざけていました。また一ヶ月前と同じ生活が流れています。ただ、私の中に残った大きな後悔は息子の学校教育です。今の学校でこれから長い学校生活を送らせるのは息子には酷です。私ですら毎日息子を送り出しながら「彼は何のために学校に行っているのか」疑問だらけです。私も主人もこのことに関しては同じ思いです。でも、私たちは別々の人間、あまりにも違いすぎるのかもしれません。同じ思いを持ちながら、どうしても上手に暮らせません。

「ゆうちゃんがね、大好きなゴールドフィッシュ(お菓子です)をインターネットで探して買って欲しいというの」と言えば、「明日スーパーでゴールドフィッシュを買ってきて送るから」と言い、「私のヘーゼルナッツコーヒーは?」と言えば、「箱に隙間があれば入れて送る」と言い、大きな問題を抱えた私たちなのにまた以前と変わらぬ会話をしています。

 

 息子の学校のことは本当に頭痛の種です。私たちがアメリカに戻らないと結論出した翌週にも私は学校に苦情を出しました。暴力によるいじめから不登校になった息子ですが、私と一緒に学校に戻れるようになりました。しかし、相当ひどいことをされていたのでしょう、息子は教室と加害生徒二人を怖がり、三週間図書室で勉強しました。その際、息子に学習指導をしたのは学校職員ではなく私でした。ある日、私が用事があるからお昼まではいられないと言ったところ、担任は「おばあちゃんを呼んでもらえないか」と言いだしました。不登校をおこしたのは学校の責任。登校してくれと頼んできたのは学校。そしてすべての負担を負ったのは私たち。学校は勉強をする場、学校は家庭とは違う子供たちの社会、そこにどうしておばあちゃんを呼ぶのでしょう。挙句の果て、特別支援の教師たちは息子の不登校、いじめ、暴力といった問題を、息子の障害ゆえ教室に入れない適応できないというふうに問題を摩り替えようとしていたのです。担任に息子の障害を説明すれば「私は障害などについては素人ですからね、へへへ」と苦笑いする相手にどうして安心して息子を預けられるでしょう。こんなだから教室内で起きている暴力を見て見ぬふりをするのでしょう。教頭に訴え、校長が「不適切な対応でした」と謝ってきました。一体、四月からこんなことを何回繰り返しているのでしょう。ここまで親が戦わないと障害のある子はちゃんと教育を受けられないのでしょうか。

 

 私が決めた答えです。私はこれからも子供たちとの生活を大事に生きていきます。そして、今も私は主人に感謝しています。アメリカでの学校教育を思うと残念だし、息子が今もこんな状態で通学していることが悔しくてたまりません。でも、どんなに泣いても悔やんでも、私たちには私たちの生き方しかできません。本当に本当に悔しいです。でも、この悔しさをも受け止める責任は私にあります。「今を生きる」ということは私たち親子には本当に大変なことです。