ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 価値

価値

 

 最近「価値」という感覚に興味を持っております。価値というのが感覚なのかどうかはよくわかりませんが、実態があるようでないようで、正しいようで正しくないような、その判断基準は人によって、時によって、場によって、また物によって異なってくると思います。最近私が気になる私なりの「価値」について少し紹介いたします。

子供のおもちゃ

 うちの娘はやたらと物を保管したがるため、遊び部屋の押入れはわけのわからないオモチャがいっぱいなのです。新聞広告の裏に描いた絵が大事だからと箱いっぱいに新聞広告が詰まっていたり、リカちゃんやバービー人形がごちゃごちゃに突っ込まれていたり。それはまさに見てはいけないお部屋状態になっておりました。ある日、息子と娘そして私の三人でお片づけをしました。なつかしいおもちゃがたくさん出てきました。いくつかは子供たちがまだ小さな頃気に入っていたおもちゃでアメリカから持ってきたものです。捨てるに捨てられずにしまってあったのです。これらのおもちゃをガレージセールに出したところで売れるようなものでもなく、でも私にはものすごい価値のあるものに感じるのです。二歳になった息子がまだ言葉がでなくて心配して過ごしていたころ、息子が気に入っていたのは英語のお風呂ブックでした。アルファベットのウォータープルーフのオモチャの本がお気に入りで、口に入れたり噛んだりして穴を開けたためお風呂には持ち込めない状態でしたが、いつもいつも持ち歩いておりました。そのボロボロの本が出てきました。古びたボロボロのおもちゃにはたくさんの思い出が詰まっていました。三歳になった息子がいきなり話し始め、その翌月にはアルファベットを読んでいました。息子はオモチャのアルファベットブックを読みました。いつも小さな手にボロボロのあの本がありました。他人にとってはごみのようなボロボロのおもちゃも私には二度と返らない、息子が小さな頃の大事な思い出。同じものでも人によってそのものの価値は変わってくるのですね。

九十八円と百八円

 以前聞いたことがあるのですが、人は、特に主婦は「九百八十円」に惹かれるのだそうです。それはたった二十円だけなのに、「千円」と「千円もしない」というのは大きな違いで、そこに購入意欲が高まるそうです。私の場合、その一桁少ない九十八円に惹かれてしまうのです。だいたい最近の私は千円単位の買い物はしません。スーパーの食料品ショッピングで千円単位の買い物はそうはありません。例えば娘の大好きなピカチュウの蒸しパンが通常百十八円なのがセールで九十八円になっていたとします。私は大喜びして三つ四つ買うでしょう。その逆のことが起きたら、つまり通常九十八円のものがいきなり百八円になっていたら、「うわ、高い。もう買えないわ」と思うでしょう。では二十円がそんなに大きな金額なのかといったらそうとも思えません。お財布のなかに小銭がいっぱい入っていると財布がふくれあがるから赤いポストの貯金箱に入れます。その時、二十円をあつかう手はお財布をふくらませる厄介者をあつかうかのごとく「こっちにいれておかなきゃ」と貯金箱に処理します。その二十円なのに、どうしてあるときは邪魔者、またあるときは商品の価値を大きく左右する絶対的な存在となり、同じ価値のお金なのに扱いが違うのでしょうか。例えばレシートをみて、二桁数字で九十八円と三桁数字の百八円ではどうみても桁が違います。でも、二十円です。たった二十円、それとも二十円も? 商品が九十八円なら三つ四つ買うのに、百八円だとひとつだけ、もしかしたら買わないかもしれません。結果的には多く支払うことになったとしても九十八円で購入したものは私には価値に見合った商品を購入したという安心満足感の賜物となるのです。先日そのことを主人に電話で話したら、「頼むから子供たちにケチなことをするな」と言われました。でも「二十円よ」と反論したら、「ポケットに入れたままの二十円、たんすの隙間に落ちた二十円、カウチに裏に入り込んだ二十円、君はそれらを必死で探したことがあるのかい」と笑われました。確かに仰るとおり。私は二十円に惑わされているだけなのかもしれません。が、これからもきっと私は二十円の違いで購入するや否やと決断するのでしょう。

一万八千円

 先日、一万八千円を払いました。これは娘の美容院でかかった金額です。五歳の娘にです。みなさんはこれが高いと思われますか?それとも妥当でしょうか。実際、どんなことをしたかによるのかもしれませんが、五歳の子が美容院でこんなになにをしたのかと思われるでしょう。娘の保育園のほとんどの子は床屋さんで切ってもらうかママに切ってもらうか、いずれにしても二~三千円が相場だそうです。娘の髪の毛は主人のクリクリと私の天然パーマの混ざった状態で、細くてクリクリなので梳かせばひっかかり、ひっぱれば切れるというやっかいな髪質です。毎朝私が娘の髪を梳かしていると息子がやってあげるとブラシをとり、娘の髪を力任せにひっぱるのです。からまった髪にひっかかったブラシをひっぱるもので娘は嫌がり、それでも兄ちゃんは力をゆるめることなくひっぱるのです。朝から惨劇をみるわけもいきません。そして、娘自身が「日本人のみんなみたいにまっすぐの髪にして。」ということもあり、四歳の誕生日を機にストレートパーマをかけているのです。お金はかかります。パーマ代だけでなく、普段から髪が傷まないようにとトリートメントやらローションやらと私にはあまり縁のないような日常的な手入れも必要となるのです。お金はかかりますが、忙しい朝に繰り広げられる惨劇を思うと価値あるパーマだと評価しております。私が時間かけて髪をほぐす必要もなく「自分で梳かしてきなさい」といえば自分でやり、兄ちゃんがブラシでひっぱることもなく、娘の騒ぐ声を聞かなくてすむのです。朝がおだやかになります。それがしばらく続くわけですから、二千円のヘアカットを毎月やるよりははるかに価値があります。そんなで、多少お金がかかっても私たちには価値あるパーマだと思ってきたのですが、ちょっと違う思いが沸き起こりました。それは今までと同じ美容院なのに、いきなり子供料金がなくなり金額があがったことです。今までは「お子さんなので頭が小さいし、生え際だけをかけているから、割引しますね」ということで一万二千円だったのです。そう思って先週行ったら、「一万八千円」と言われ、ガガーンときました。予算外ということで私は不意打ちをくらった気分なのです。私は不意のことに弱いのです。考えてみたら六千円の差です。では、私もヘアカットしたとして、娘のパーマ代が今まで同じならほとんど同じ金額で、その上で私のヘアカットがあまり上手ではなかったからとすれば、今と同じことになるのですが、それは不意打ちをくらった私には受け入れられません。では、娘のストレートパーマに価値はあるのでしょうか。はい、あります。私たちの朝を穏やかにしてくれますから。でも、不意打ちはいけません。最初から一万八千円だったら私は心穏やかに支払ってきたものを、いきなり「子供料金はなくなりました」では私の心乱れっぱなしです。

流行り物

 実家の押入れの中にたくさんアクセサリーがしまってありました。どれも私がまだ二十代の頃つけていたものです。当時流行っていたトサカのような髪を立て、腰にはチェーンのベルトだかなんだかを巻いていました。その当時は流行にのっていくつもいくつもそんなのを集めていたものですが、今見るとなんだか小恥ずかしいようなものばかりです。どれも同じようなものをいくつも集めて、独身は自分にお金をかけるんだなあとあらためて思いました。当時はちょっとの違いが全くの別物にみえていたのでしょうか、本当に似たようなものばかりがぎっしり箱に入っていました。それだけ執着していたものが二十数年たった今みると、「なんじゃこりゃ」になってしまうのです。どれも私のものだし、つけていた自分の姿をも覚えています。なのに、「なんじゃ、こりゃ」です。二十数年前の私には価値のあったアクセサリーも、時代が流れ、私は年をとり、それらが価値のない処分品となるのです。私は宝石をつけることがなく、安いアクセサリーばかりだから価値が流れるのも早いのかもしれません。あの頃は毎朝、「今日はどれつけようか」と選んでいたのに、今の私は朝は戦場、「なんでもいいからさっさとしなきゃ」です。

日本のテレビを見るスティック

 アメリカに戻るつもりでいたから、アメリカでも大好きな日本のテレビをみられるようにとUSBのスティックをさすだけで日本のテレビ見放題というものを購入しました。試聴しただけでいまだに使ったことがありませんが、なぜだか私は大事で返品もできないし、インターネットオークションで売りに出したり、リサイクルストアに売り飛ばす気持ちにもなれません。実際、今も箱にはいったままなのですが、「いつかまたの機会に」と思うと手放せないのです。十年後もしも私たちがアメリカに戻ることになったとしても、機械物はあっという間に新型が出ますから、このスティックも「わけわからない昔のスティック」になるのでしょう。二万円しました。私は日本のテレビが好きだから、アメリカに戻るつもりのときは「テレビ、どうしよう」と心配で、やっとのことでこのスティックをみつけました。二万円あったらどうするかなあ、と思うこともありますが、このスティックには私の未来が閉じ込められています。大事な意味のないこのスティック、きっと日本にいる人たちには無意味なものでしょう。でも、海外にいる日本人のなかには私同様テレビ大好きな人もいるかもしれません。二万円のこのスティック、価値ありますよね?

 価値があるないというのは、その人の価値観にもよりますし、その人のおかれた状況にもよります。正しいひとつだけの答えというのはありません。価値のある時間、価値のある人生、それらはその人次第で、人がどのように毎日過ごしているかにかかってくるのではないかと思います。今年も私たち親子にはいろんなことがありました。毎年が激動の年のようにも思えます。今、このときを価値ある時間として過ごせたらいつかきっと、この激動続きの時間(とき)が実を結んでくれるのではと期待しています。私の大好きなニュージャージーの冬、伸ばした手が届きそうでしたがまただめでした。

みなさん、どうぞよい年をお迎えください。メリークリスマス&ハッピーニューイヤー