ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2013 名前

名前

 

 みなさんはご自分のお名前が好きですか? 私は子供の頃、自分の名前が嫌いでした。嫌いというよりむしろ恥ずかしく思っていました。まったく変わってもいないよくある名前なので、読み間違いされることはなかったのですが、この平凡さが本当に嫌でした。親がつけてくれた名前とはいえ、私が親ならこういう平凡な名前を選ぶだろうか、と何度も思ったことがあります。本誌二月号でも紹介がありましたが、最近の日本の子供の名前は流行り名前に集中するか、読めない当て字名前か、はたまたいきなり英語名前に漢字をくっつけちゃった名前など、摩訶不思議な世界が繰り広げられています。私のような平凡な名前は昭和の古き日本のなごりのようになっているかと感じます。

 名前というのは不思議なもので、たいていは名前と本人がマッチしてくるものです。ま、そうでないことも多々ありますが。私は渡米し、大学に通っているとき、名前に関して不思議であり、おかしくもあったことがあります。 日本人はアメリカにおいても自分の名前を貫いているように思います。ただ、ヤスユキなどという発音しにくく長い名前を「ヤス」と縮めることはあっても、ヤスユキがクリスになることはまずないと思います。しかし、中国人にいたっては大半がニックネームを使っていました。クラスで出欠をとるとき、教授に名前を呼ばれると「Here!」なり「Yes」なり返事をします。セメスターの初日は教授も手元にきた名簿を読み上げるから本名で呼ぶわけです。クラスを見渡すと中国人らしい生徒もいて、やはり中国名で呼ばれるのです。XやZh音の入った名前で、いかにも中国名なのです。それが、次の授業になるとびっくりが飛び出すのです。その中国人はクラスにいるのに、教授は出欠で彼女の名前を呼ばない。「呼ばれてない人いませんか」と出欠最後に教授が言っても彼女は名乗り出ない。そして、そのまた次の授業でよくみていると、教授が「ステファニー」と呼ぶと彼女が返事していました。中国人の彼女はステファニーになっていました。そして、なぜか彼らの選ぶニックネームは「ステファニー」「ジェニファー」「ケイディー」などかわいらしい名前ばかりなのです。一度、台湾人のクラスメイトと仲良くなりました。やはり彼女も「ジェニファー」でした。しかし、あるとき見せてくれた彼女宛の封筒には「陳 なんとか」と漢字で名前が書かれてありました。「これ、あなたの名前? これでジェニファーって読むの?」と名前の部分を指差したら、彼女は苦笑いをして「ジェニファーは私が決めたニックネームなの。」と言いました。理由は、やはりXやZ音はアメリカ人には発音しにくいようで毎回自分の名前を違った音で呼ばれたり首かしげて呼ばれたりするのは嫌だから、自分の好きな名前をニックネームにしたということだそうです。こういう場合は、名前と本人がマッチしないケースになってしまうのかもしれません。本名とちょっとでも似たような名前を選ぶならともかく、多くは全く違うニックネームなのですから。

 かつて付き合っていたボーイフレンドと出会ったとき、びっくり質問をされてのけぞりそうになったことがあります。「Oってどんな意味があるんだい?」と。O? アルファベットのOでしょ、どんな意味かってわかんないよ。「わからないけど、なんで?」と訊いたら、「君の名前、不思議だから。」と言うのです。不思議って?「どうして君の親はJunk(ジャンク)なんて名前につけたのかなあ、と思って。Junk-Oだろ、君の名前。」 はあ?ってなもんです。出会ったばかりの女性に「ジャンク オウ!」だなんて。言い返しました、私は。「オウっていうのはね、王―キングーって意味なのよ」と。すると、彼はこれまた爆笑して、「お前、キング オブ ジャンク?」と。ありえない話です、本当に。ただ、それまでちょっと不思議に感じていた謎が解けました。よく私の名前を「ジャンコ」という人がいました。なんでジャンコなんだろ、ジュって発音できないんかな、と思っていたのですが、いやいやあの人たち、私をJunk-oと呼んでいたわけです。そして、なんだかこんなことから私は自分の名前に愛着を持つようになりました。

 今、私は英語の幼児教室に勤めています。ここでは子供たちは幼稚園や保育園に行く変わりに、英語で一日幼児向け教育を受けて過ごしています。英語のみなので、私たち職員も英語で会話します。アメリカ人講師たちが常駐していますから、もちろん彼らとは英語だけです。この時期、私は来年度のクラス編成などを調整しているので、保護者からのメールをもとに、子供たちの希望クラスを受けています。この作業の大変なのは、子供の名前が読めないのです。確かに私は漢字が得意なほうではないので、読めない文字がたくさんあるわけですが、それにしても読めない。子供の名前を読むのに相当な時間を費やしてしまうのです。日本ではDQNネームやキラキラネームと呼ばれる名前があります。このDQN、どういう意味かと調べましたら、「常識がない」という意味で、もともとはテレビ番組「目撃 ドキュン」に出てくる一般常識に欠ける若者からきた言葉だそうです。キラキラネームというのは字のごとく、キラキラしたイメージの名前だそうです。こういう名前を子供につける親が多いのだそうです。私の職場は英語教室なので、一般より英語嗜好の親が多いのかもしれません。どうみても日本人の子供に「ティアラ」「ダイア」という名前には驚きます。名前に「山田Tiara」「田中Dia」とみたら、私はうちと同じハーフの子供かしらと思います。でも、日本の公式文書でのローマ字明記の場合、Tiaraという明記は一般には認められません。うちの娘のミドルネームJulietでさえも、Juriettoと書かされました。そして、Tiaraという名前の子供をみたとき、日本人そのもの、どうしてTiaraなんて英字表記までしたいんだろう、と不思議に思いました。では、いくつか質問です。「山生」はなんと読むでしょう? 「秋愛空」は?「琉樹」は?「華李都」はいかがでしょう。山生はルウ、そして表記はLou。秋愛空はキアラ、Kiala。琉樹はルウキ、Rookie。そして、華李都はケイト、Kate。 私たちの住む市はまだまだ閉鎖的な田舎町。うちの子供たちは「ガイジン」と呼ばれます。肌の色が違う、髪が違うだの言われています。そうして自分たちと違うものをはじき出すのに、どうして名前は自分たちの文化から離れた外国の名前にしようとするのでしょうか。私はそれが不思議です。子供でかわいいときは似合う名前だとしても、名前は一生背負うものです。将来、おばあちゃんの名前がティアラやキララが一般的になる時代がくるのでしょうか。そうした時代、それでも「ガイジン」という言葉は存在するのでしょうか。ほかに気になった名前として、ココアちゃんもいれば、青と空という双子もいます。ココア同様に、緑茶なんて名前があったらちょっとおもしろいけど、おばあさんになったとき、「サトウ緑茶さん」なんて病院の待合室で呼ばれたらどんな気分でしょうね。

 我が家では、息子の名前をつけるときに夫婦喧嘩にもなったくらいに折り合えない文化の違いがありました。主人は息子に自分の名前をファーストネームもミドルネームをそっくりそのままつけてJr.にしようとしました。私はそれが本当に嫌でした。アメリカではよくあることだと思います。主人の家族でもそれはあります。でも、私はどうしても嫌でした。家の中に同じ名前の男が二人いるなんておかしいです。では、うちの父タクオが、息子つまり私の弟にタクオと名づけることは、日本でありますか? 家の中に鈴木タクオが二人いる景色なんておかしくないですか? だから嫌だと私は言い張りました。主人は夢にまでみた自分の分身のような息子Jr.。お互いに引けません。妥協策としてお互いに受け入れたのは、ファーストネームは主人の名前をつけてもよし、でもミドルネームは私が日本名をつける、ということで折り合いがつきました。息子が生まれてしばらくは主人は息子を自分と同じ名前で呼んでいましたが、私が「あなた、自分の名前呼んでる。ふふふ」と笑ったせいか、いつしか私同様に息子をミドルネームで呼ぶようになりました。

 アメリカにいたときは、私は本当によく入院しました。その都度、おもしろいなあと思ったことがあります。当たり前なんだけど、看護婦さんたちがその日の担当だという挨拶にくると決まってファーストネームで名乗ったことです。 「今日のあなたの担当のマーサよ。気分はどうかしら。」と来るわけです。もちろん、普通です。でも、これを日本の設定にしてみるとおもしろいのです。日本では苗字で名乗ります。「本日の担当の長井です。よろしくお願いします。」というのが一般的ではないでしょうか。いきなり初対面の看護婦さんが、「今日の担当のサトエです。」とあらわれたらびっくりでしょう。そして、書類のサインもMarthaと書くわけです。日本で書類の担当者の欄にサトエなんて書いたら「ふざけるな」と思われるでしょう。 文化の違いといいますか、同じことでも設定を変えて考えるとおかしなことってありますね。

 私はこの平凡な鈴木という姓から抜け出すには結婚か、芸名・ペンネームを持つしかないと考えていました。でも、不思議なもので私は抜け出すことはありませんでした。アメリカでは主人の方の苗字とこの鈴木という苗字の両方を適当に使っていました。主人が外国籍なので日本ではずっとずっと結婚しても鈴木のままです。今も昔も書くことをしているけれどペンネームを使ったことはありません。神林、藤原、大河原、。。。そんな苗字にあこがれてきました。いまだに「鈴木さん」と呼ばれると、びくっと反応してしまうものの自分のことだというには皮一枚ピンとこない鈍さはありますが、半世紀近くこの姓を名乗っていると、私は鈴木以外の何物でもないのです。みなさんもご自分のお名前をちょっと思ってみてください。誰がつけてくれたのかな、どういう意味なのかな、などなど。名前にはたくさんの人の思いと歴史が含まれています。生まれた時に自分以外の人がつけてくれた名前に、いつしか自分は名前に込められた思いのような人間になっていくのですね。