ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2013 親子

親子

 

 子供が生まれてから私は親子といえばわが子のことばかり思ってきました。でも、私も父と母の子なのです。この年になると親はいつまでもいるものではないと実感するのです。実際、七十を越えた父がこの先三十年四十年生きることはまず考えられません。先日、父が癌宣告を受けました。元気に毎日三時間山歩きをしている父を見ていると、「あとどのくらい生きられるんだろう」とは想像がつきませんでした。でも、人はいつかは死にます。そしてその時は誰も選べません。人はそのときを迎えるまでさまざまな生き方をします。

 最近、高齢化とか介護という言葉をよく耳にします。年をとったとき、どのように過ごせるのかも人は選択できません。先日、友達のお父さんが亡くなりました。大変なことでした。友達はここ数年お父さんの介護に挺していました。お母さんが二十年ほど前に病死して以来、お父さんはひとり静かに暮らしていたそうです。それが数年前の冬、風邪をこじらせて肺炎を起こし入院しました。友達は、お父さんは肺炎が治ればまた元通りの生活にもどれると思っていました。ところが入院は思いのほか長引き、寝たきりの生活から足腰が弱り歩くのが難しくなりました。介護が必要となり、日中はヘルパーさんのお世話になり、夕方からは友達が世話をするようになりました。ずっと一人で暮らしてきたため、人の世話になることにお父さんはストレスを感じ、常にイライラするようになりました。たとえば、友達が仕事でお父さんの家に着くのが遅れると夕飯が遅くなったと怒り散らしました。そうなると仕事をしながら家事をこなしてきた友達にも大きな負担となり、時としてお父さんのお世話が面倒くさく感じることもありました。早く家に帰って夕飯の支度を、と思っても帰宅前にお父さんの家に寄りお世話をしなければなりません。外出しても夕方早くには戻らないといけません。旅行もできません。次第にお父さんとの会話も減り、夕飯を食べさせ、朝食の支度をすると急いで帰宅するようになりました。冬になり、お父さんはまた風邪をひき、肺炎になり入院しました。実際、入院してくれた方が介護する立場からすると楽になったといいます。病院で体調管理してくれて、食事が遅れたと怒られないし、彼女の負担も減りました。ところが、今度は結核にかかりました。かかったというより、お医者さんによると結核菌をすでに保持していたのですがずっと発病しないでいて、体調がくずれ体力がおちたことによって発病したということで、いずれにしても感染するものなので、隔離病棟に入りました。きつい薬を投与し、お父さんの体力はどんどん落ちていきました。あんなに面倒くさく感じていた介護、入院したときやっと介護から開放されるとほっとしたというのに、みるみる痩せて衰弱していくお父さんをみていると、早く退院しておうちで暮らそう、と願うようになったそうです。隔離病棟から一般病棟に戻った翌週、お父さんは眠るように息を引き取ったそうです。大変だった介護なのに、それがなくなったとき彼女の中に大きな穴があいたようで、どうしてお父さんに優しくできなかったのかと後悔し、取り戻せない時間を悔いたそうです。お父さんを見送ると、自分が子供の頃のお父さんとの思い出が走馬灯のようにかけめぐり、彼女はお父さんを追っていこうと思ったことも数回あったと言います。お父さんがいなくなり、彼女は介護する側より介護される側のストレスのほうが大きかったのではないかとあらためて感じたといいます。

 私の祖母は八十八歳で亡くなりました。おばあちゃんは太っていたため膝が悪かったのですが、内臓は大変丈夫で亡くなるまで入院したり手術したりといったことはまったくありませんでした。旅行とカラオケが大好きで、老人会のカラオケに通い、発表会にはマイクを握り舞台で歌っていました。八十をすぎた頃のおばあちゃんは人生を謳歌していました。近所の人たちと旅行に出かけ、帰った翌日にはカラオケに出かけ、毎日が楽しくて仕方ないといったふうでした。旅行に出かけ、滅多に風邪もひいたことのなかったおばあちゃんが珍しく風邪をひきました。寒い二月のことでした。熱が高くなったため、お医者さんが往診にきてくれました。珍しく風邪をひいたせいか、それとも年のせいか、おばあちゃんはみるみる体力を消耗していき、食事がとれなくなりました。風邪で寝込んだ三日目、「プリンが食べたいなあ」と言いました。プリンを食べた後、豪快ないびきをかきながら眠りにつき、そのまま逝ってしまいました。みんなは大往生だと言いました。おばあちゃんは結局、人生一度も体にメスを入れることもなく、長い闘病生活も送らず、旅行したりカラオケしたりした翌週にいびきをかいて眠ってしまうなんて、本当に人生を謳歌していった人でした。

 父は十年前に大腸癌で手術を受けました。それから毎年検査をしてきて、十年が経ち「完治だね」といっていた矢先、早期胃癌がみつかりました。ストレスが癌には一番よくないと、健康のため毎日三時間以上近くの山を散歩していたのに、どうして癌なんだ。。。と父は落ち込みました。自分で自分に言い聞かせるかのように「早期発見でよかったんだ」と何度も何度も私たちに言いました。早期の胃癌は治る、と聞いていたし、お医者さんも「検査をしていたから、まだ本当に小さなうちにみつけられた。だから、心配はいらない」と言われたのですが、父にとっての苦痛は入院生活と手術なのです。父は痛みが大嫌い、そして食事制限も大嫌い。実際入院は二週間程度と言われているものの父にはそれが長い長い闘病生活に思えるのです。癌宣告を受けてから父は落ち込んでいました。雨が降り続いたため散歩にも出かけていませんでした。雨上がりの日、「ちょっと山を散歩してくる」と母に言い残し、父は散歩にでかけました。夜になっても父は帰らず、「お父さん、途中で誰かと会って飲みに行ったのかなあ」と思いながら母は布団に入りました。夜中、父が帰宅しました。「お父さん、帰ってきたなあ」と思い、母が玄関に出て行くと浴室前に父の洋服が脱ぎ捨ててありました。「酔っ払って。。。」と思いながら洋服を洗濯バスケットにいれようとしたとき、父のシャツが血だらけであることを発見しました。母は驚き、二階に行くと頬に大きな傷をした父がベッドに眠っていたそうです。あまりのことで母は父を起こさず、父の服をよくみてみました。ズボンは泥だらけ、靴も泥だらけ、シャツは血がべっとり。母は父になにがあったのか想像しました。お父さん、やけ起こしちゃったのか。。。と。

 翌朝遅く、顔をパンパンに腫らした父がリビングに降りてきました。父は静かに事情を母に話しました。日課となっていた散歩に出かけていなかったから余計に気分が滅入っていたそうです。「癌」という診断に自分の死が近づいてきた気がして不安にもなり、同時に入院して手術することが嫌でたまらなく、自分で気持ちの整理がつかずにいたそうです。雨があがったから散歩に出かけ、山を歩きながらずっとそのことを考えていて、「癌で死ぬのならもう入院は嫌だ。いっそこのまま死んでしまった方がいいくらいだ」と思いながら歩いていたら、泥濘で足を滑らせ転んでそのまま崖から落ちてしまったそうです。崖といっても山肌を滑り落ちたようなものでそんなに高いところから落下したわけではないそうですが、木や岩があり、地面はぬかるんでいたためズボンや靴は泥だらけ、シャツはひっかかり、顔をぶつけ怪我したそうです。

 「いっそ死んでしまいたい」と思った瞬間、本当に死ぬかと思う事故にあい、父は「死にたくない」と入院を決意しました。数日してから父が私たちのアパートに遊びにきたときに傷だらけの顔でそんなことを話してくれました。年をとるといつかは自分がこの世を去ることを身近に感じてくるのだけど、それが現実にせまってくると怖いのだと言いました。「嫌な入院を思うと、いつかは死ぬなら入院なんてしないでこのまま死んだ方がいいと思うのだけど、滑り落ちたときは死ぬかと思い助かりたいと必死だった。人間なんて矛盾したものだ。」と言いながら、複雑な顔をしていました。父はあのとき、岩で顔だけでなく頭をぶつけていたらそのまま帰らぬ人となっていたかもしれない。そうしたとき、父は入院しなくてすんだことを喜ぶだろうか、それとも無念な死となったのかな。

 父が入院してから娘が毎日「おじいちゃんへ」と手紙を書いています。学校でつらいことがあっても「まあちゃんはまいにちがっこうがたのしいです」と書き、「1ねんせいになってともだちがたくさんできたよ」と書き、「はやくげんきになっていぱいいぱい(いっぱいいっぱい)あそぼうね。とらんぷをまたおしえてあげます」と書いてはじいちゃんを励ましています。息子は一年遅れでやっとひらがなで手紙を書けるようになり、大好きなレインボーを描いてその上に「おじいちゃん」と書いて、じいちゃんの気持ちを明るくしています。子供たちの手紙を病室の壁に貼っている父。看護婦さんたちに「いいお孫さんたちがいて幸せですね」と言われ、父はそれがまたうれしくて入院生活もいいものだと苦笑いしています。

 人はそれぞれの人生を背負っています。父は七十三年の人生を背負い、息子は七年、娘は六年の人生を背負って毎日暮らしています。父の病室に飾られた子供たちの手紙の中にはたくさんの彼らの人生がこめられています。その思いの中で子供たちはおじいちゃんを支えます。私の友達はお父さんの介護に疲れストレスを感じたもののそれでもやはりお父さんがいなくなったことが寂しくどこかでまた会えるならまた介護したいしそのときは、自分が子供の時にお父さんがしてくれた気持ちでお父さんに接したいといいます。私の祖母は人は幸せな人生だったと言いますが、幸せなだけでなく辛くて苦しいこともありました。母にはお姉ちゃんがいましたが、お姉ちゃんは子供の頃亡くなりました。祖母はわが子を先に亡くしました。戦争があり、生活も大変だったでしょう。祖母の最期だけではわからないくらいにたくさんのことが含まれた人生でした。今まで私は「子供のためにもまだまだ死ねない」と必死で子供のことを思い、癌と戦ってきました。今、あらためて思うのは、それは私だけではなく、私の両親も同じ思いで私のためにがんばってきてくれているということです。親子というと親である自分と子供たちだけを思ってきましたが、親子というのは私は子という立場でもあったのです。子供たちを連れて父のお見舞いに行くというのはもしかするとそれだけも大きな意味があることなのかもしれないと、エレベーターで父の病室に向かいながら思いました。