ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2010 冬になると思い出すこと

冬になると思い出すこと

 

先日4年に1度やってくる運転免許の更新に行って参りました。早いものでこれで3度目になります。免許更新の2-3ヶ月前になると更新の通知がきます。そして、更新はMotor Vehicle Commission (MVC)のエージェンシーにて受け付けてもらいます。MVCに行くときはまずどこのMVCエージェンシーに行くのかを選びます。信じられないかもしれませんが、エージェンシーに寄ってうるさいところとそうでないところがあるのです。つまり「あたり」「はずれ」があるわけです。もちろん、「6POINT ID 証明プログラム」といって、IDとなるものにポイント数がつけられていて、それを6ポイント分持参するという規則はどこも同じですが、それをみる係りの人の目が違うのです。公的な機関でこういう差があっていいものかと思いますが、実際、「これではだめだ」と3回も出直しさせられところもあれば、同じ書類ですんなり通してくれるところもあったりするわけです。

最も楽に通してくれるといわれているEast Orangeのエージェンシー。うちから最も近いので前回からそこに行くことにしていたのですが、いきなり場所移動していて、移転先がわからない。というよりも、移転した住所は記されてあったのですが、そのあたりへ行ってもそれらしきサインもなければ建物もみつからず、結局用を足せずに帰ってきました。なので、次にうちから近いMVCエージェンシーへ行くことにしました。いやあ、むかつきましたわ。ほんと、係官の態度といい、物言いといい。まず受付で、「ID出して」といわれ、パスポートを出すと、「そんなんじゃない。」ときた。パスポートはNon-citizenとしてのIDで4ポイントもあるんだぞ。しかし、そんなことで怒っていても進まないので、「では、あと何を出せばいいのでしょう」と聞いたら、「ソーシャルセキュリティーカード。」と言い放つ受付係。もっとちゃんとした物言いはできぬか、と思いながら、言われるがままソーシャルセキュリティーカードを、グリーンカードと今までの運転免許証と一緒に出しました。そしたら彼女、ロリポップを口にくわえながら「これもって、奥へ」と、また私の目をみることなく言い放ちました。

奥へ行くと、二人の女性係官が座っており、ひとりは多少なりとも笑顔をみせながら話しておりました。そして、もうひとりは「この人、なにしてるんだろう」というオーラをかもし出しておりました。AVONのカタログを堂々とみながらプレッツェルをポリポリ。私が立っていると「May I help you?」とカタログを見たまま言うのです。私も「免許の更新」と一言。彼女、やっと顔をあげたかと思うと、いきなり手を差し出してきました。握手かい?と思ってみていたら、「それ、それだして」と私の書類を指差しました。黙って手を出されても困ります、はっきり言ってくれなきゃ。書類をテーブルにおくと、見るや否やいきなり、「これじゃあ、だめ。」と言い放つのです。なにかと思えば、私のソーシャルセキュリティーカードは日本の姓のまま、グリーンカードや免許証は主人の姓を使っているので、「別人」だと言い出しました。パスポート出して「これが私。こっちは日本の姓、そしてこっち(運転免許証)は主人の姓。前回更新したときに、主人の姓に変えられたわけで、別人じゃないですよ。さっきもパスポートを出したらソーシャルセキュリティーカードと言われたので出しただけで、実際、どちらの苗字でも私はかまいません。じゃあ、どれで統一すればいいんでしょうか」と問い詰めたら、「銀行のATMカード」とまた、言い放つのです。言われるまま銀行のATMカード出したら、それでOK. 「え、それだけ?」てなもんです。そして、そこにはちゃんとカメラもあるのに、いきなりスクリーンに出てきた私の顔写真は4年前に撮影した、今までの免許証で使っていたもの。「これでいいわね」と一方的に言われ、気がついたら、免許証は発行されていました。渡してくれるときもAVONカタログから目を離さない彼女。素晴らしいまでにAVONカタログに熱中する姿に、私は言葉をなくし、そのまま無言で立ち去りました。

こうして免許の更新をすると、12年前の冬を思い出します。私は渡米以来ずっとニュージャージーに住み続けております。最初の6年間過ごした街はとても閑静な住宅街なのですが、車がないと身動きできないところでした。なので、アメリカに来て一番最初にすべきことはニュージャージー州の運転免許を取得することでした。免許証がないから車がない。車がないから試験を受けにいかれない。そんな状態が4ヶ月も続きました。当時同じカウンティー内の大学に通っていたのですが、それでも通学時間が車で45分かかりました。8月に渡米して11月末までバス通学。通学時間が半端じゃない。乗り継ぎがあったので片道2時間以上かけておりました。たった3クラス授業を受けるのに朝7時前に家を出て、帰宅すると夕方6時過ぎておりました。冬は日が暮れるのが早いです。夕方6時といえば外は真っ暗。「早く免許が欲しい」と切実に願っておりました。

忘れもしない11月23日。私の念願の運転免許証取得が現実となりました。それから1週間後、私は念願の車を購入しました。車を買って2日後に車の保険加入の手続きがすみ、やっと運転できるようになりました。「これで私も一人前」、なんだか成人式を迎えたばかりの20歳の若者のような気分でした。

12月始めの寒い日でした。アメリカでの運転初日、私は友達を空港まで送ることになりました。彼は事も無げに「運転できるんだろ。明日、空港まで送ってくれるよね」と言うので、「いいよ」と軽く引き受けました。ところが、朝起きてみると、雪が降り始めておりました。「うそ、雪の中を運転するわけ?」そんな私を気にするふうもなく、彼は荷物を私の車に積み込み、助手席に座っておりました。初めての運転が雪の日、空港までの道のりは当然のごとく高速道路。日本でもしばらく運転してなかったので、かれこれ5年ぶりの車の運転、ゆっくり行かせていただこう。と思うのもつかの間、のんびり走ろうものなら後ろから来た車に脅かされる。これぞ、ニュージャージーの運転。若葉マークなんてものはないから、誰がどのくらいの運転歴なんてことは関係ない。邪魔なやつはどかす、雪が降ろうが容赦しない、そんな感じでしょうか。本当に怖かったです。空港のDepartureで友達を下ろすと、彼は「サンキュー」と言い残しただけで消え去りました。「さて、私はここからどうやって帰ったらいいのだろう。。。」空港から家までの道は至ってシンプル。78号線を西へ、そして24号線が出てきたら、24号線を西へ。言ってしまえばそれだけの道のり、でも、それだけのことをどうやって帰ったらいいのかわからないのです。まずは空港から出ないといけません。助手席に乗っているときは「空港から出口に沿って出て行けばいいだけじゃん」と思うことも、実際運転すると、それがなぜだかできないのです。そして、私は空港を一体何周回ったのでしょう。奇跡とも思うべくしてやっと、空港から出られた私は、次に78号線に入りました。しばらく78号線を走っていると、24号線が出てきました。「おお、いい調子」と思っておりました。さて、そこからです。私は一体24号線のどこの出口で出たらいいのでしょう。標識をみて、私の町の名前が出ているところで24号線を降りました。それがどうしたことでしょう。今度は24号線を再び空港方面に向かって走っていたのです。次の出口で出て、また24号線を西へ。そして、町の名前の出ている標識に従って24号線をおりると、また空港方面に向かっているのです。「あーん、あーん、おうちに帰れない」と子供のように泣きました。当時、携帯電話も持っておりません。やっとのことでこれまた奇跡的に小さな道に出て、そこから家へ通じるメインストリートに出ることができました。家から空港まで通常なら片道20分の距離なのですが、その時は朝6時に家を出て、家にたどり着いたのが正午。あたりは真っ白に積もった雪景色。一体、私はどこを走っていたのか今でもなぞなのです。

冬になると、車がなく寒くて暗い中バス通学していたこと、免許取れてはじめて運転した日のことを思い出します。あの頃に比べれば、4年に1回こうして無愛想な係官相手に免許証の更新をするのなんてたいしたことありませんよね。面倒くさがりの係官にあたるといいこともあります。だって、私の免許証の写真は4年前のまま、そうです、2013年までは2005年の私の顔でいられるのですから。

ENJOY 2010 世界一幅広な橋

世界一幅広な橋

 

 私は狭いところと高いところが大嫌いです。そうです、高所恐怖症と閉所恐怖症なのです。ただ単に苦手というくらいなら「恐怖症」とはならないのでしょうが、私はこういった場所が怖くてパニックを起こしそうになるくらいなのです。これは先天的なものと後天的なものとがあると思うのです。たとえば、高いところから落ちたことにより高所恐怖症になったとか、真っ暗な部屋に長時間閉じ込められたことで閉所恐怖症が発生したとかいうのは後天的なものだと思うのです。しかし、私の場合は先天的なもので、それがあるからこそ怖い想いをしたという記憶があるのです。

 子供の頃、私は橋というものが全て駄目でした。道路を渡る陸橋も、小さな小川にかかる木橋も、もちろん古いつり橋などはもってのほかでした。私が小さいときは母は運転免許がなかったので、平日おばあちゃんちに行くときは電車に揺られていきました。母はそれがとても嫌だったといいます。なぜならば、駅前に国道一号線が走っており、そこを渡らないとおばあちゃんに行かれないため、陸橋を渡る必要がありました。陸橋は駅前にありました。しかし、私は陸橋が大嫌い。渡れなかったのです。なので、泣き叫ぶ私のため、横断歩道を渡るしかなく、その横断歩道というのがしばらく歩いていかないといけなかったのです。おばあちゃんちは駅前の陸橋を渡ってすぐのところ。横断歩道を渡るために歩き、渡ったらまた歩かないといけなくて、母は「無駄な歩きをした」とよく言いました。

 それは大人になってからも変わりませんでした。9・11の前、友達が遊びに来ると決まって自由の女神に連れて行きました。冠の部分まで上るための列はいつも混んでいて並ぶため、「時間ないから並ぶのはまた次回来たときにしよう」と避けていたものの、「並ぼうよ、せっかくだから。1時間や2時間並ぶのはどうってこともない」と言い出す輩がおりました。連れてきたことに後悔しました。「いやあ、中は空洞でそんなに興味深いものはないと思うよ。展示物をみていたほうがいいと思うけど」と言ったものの、「空洞でもいいよ。自由の女神は日々どうのように世界をみているのか、彼女の目になってみてみたいから。」ともっともらしいことをのたまう友達。日本からはるばる来たんだし、ま、付き合うかと覚悟を決めました。途中まではよかったのですが、細い螺旋階段を登っているうちに、天国にある地獄(とても矛盾していますが)に行くような気分になり、足元ガクガク腰は抜けそう、怖くて涙がこぼれてきました。そんな私におかまいなく、私の前をさっさと登っていく友達。てっぺんでは、「次々人が来るから早く流れてください」と促す係員の声も、「ワタシ、エイゴ、ワカリマセン」と気にせず、窓から外を見ては喜んでいた彼女。涙を流す私に「そんなに感動したぁ」と喜びを分かち合おうとしてくれました。恐怖の次に来るものは怒り。「信じられない、こういう場ではしゃぐなんて!」と怒りながら螺旋階段を下りていったのは言うまでもないことです。

 高いところが怖いという感覚はどう言葉で表したらいいのかよくわかりませんが、人それぞれかもしれません。私の場合あまりにも怖くなると、その場から地上に飛び降り、そのままこの世から消えてしまうという錯覚にとらわれるくらいになるのです。高層ビルの屋上から下をみると、まるで映画「タイタニック」の名シーン、船の甲板の上で両手を広げ風を体で受けるような、そんな気分になり、そのままスパイダーマンがビルの谷間を飛ぶように自分もビルから飛び降りていきそうな、そんな錯覚にとらわれるのです。

 狭いところが怖いというのは、怖さのあまりその場をぶち破ろうとする錯覚にとらわれます。これも感じ方は人によって違うものかもしれませんが、私の場合、ちょっと危険性を伴います。夕方の薄暗い中、建物のわきにある細い階段を下りていて、その狭さに圧迫感を感じ、階段の下数段あたりから下方においてあった段ボール箱めがけて飛び込んでいったことがありました。後ろを歩いてきた友達がビックリしました。私自身、なぜ段ボール箱に飛び込んだかという明確な理由はわかりませんが、とにかく圧迫から逃れたい一心で飛び込んだと思うのです。

 なので、私はマンハッタンまで車を運転できません。ニュージャージーからマンハッタンに行くには橋を渡るか、トンネルを通るか、二者択一でしか行かれないのです。橋は高い、トンネルは狭い、そうです、高所と閉所恐怖症の私にはどちらも無理なのです。助手席に乗っていても気が遠くなるくらいに手に汗握っているのに、自分で運転していけるわけがありません。助手席に座って橋を渡るときは「まっすぐ前だけみて運転してちょうだい。私に話しかけないで。車線変更なんてしてはいけません。」と運転手に言い、トンネルを通るときは「酸素が少なくなるから話しかけないで。呼吸困難になりそうだから」と言い、笑われながらも私は本気なのです。

 そんな私ですが、実は毎日橋を渡っていたことがあるのです。かつて勤めていた中学・高校は、ガーデンステイトパークウェイ(通称パークウェイ)を45分南下したところにありました。45分の運転というのは私にとってどうってこともなかったのですが、難関は橋でした。橋を渡らなければ行かれなかったのです。北部からパークウェイで中南部に向かうとき、まず最初に渡る大きな大きな橋をご存知でしょうか。Raritan川にかかるDriscoll橋。いやいや、この橋を渡るのに、毎日命がけでした。毎朝、「今日こそが最後の日だ。辞表を出して、仕事を辞めよう」と思いながら橋を渡り、帰りになると「今日も辞表が間に合わなかった。明日こそは辞めよう。」と思いながら渡りました。それが何年続いたことでしょう。止むことなく毎日同じ事を思いながら橋を渡り、毎日同じように手に汗びっしょりでハンドル握っていました。この橋、とにかく大きいのです。私が通っていたころはちょうど橋を拡張する工事をしていたため、橋の路肩を狭くしたり、車線をしぼったりして、余計に怖くなっておりました。私は娘が生まれる2ヶ月前に仕事を辞めたので、それっきり渡ることもなくなっていたのですが、ある日久々に通ったとき、大きくなった橋に驚きました。とにかく大きいのです。それもそのはず、この橋はなんと、世界で一番幅広な橋なのです。なんだか感動しました。世界一幅広の橋に毎日命がけで挑んでいた私ってすごいじゃん、と。でも、当時はきっとまだ世界一の幅広にはなっていなかったのでしょうが。

 世界一まで及びませんが、私が勤めていた学校のある町は、アメリカで最もバーの多い街でした。バーの件数が一番多いのではなく町の大きさに対してのバーの件数です。今はどうなんでしょうか。私の初出勤の日、同僚に「どこから来てるの?」と聞かれ、「北部よ。ここから45分くらい北にあがったMontclairから」と言ったら、「それじゃあ、知らないかもしれないけど、この街はアメリカで一番なんだよ」と言われました。「すっごい!」という私に、彼は「そんなにすごいことで一番でもないんだけど、街をみて思わなかったかい? 1ブロックに1軒はバーがあるんだ。町の広さに対してのバーの件数の比率は、アメリカ中でこの町が一番なんだ。」と言いました。地元出身の彼はこれが誇りだったのかどうかはよくわかりませんが、私は「アメリカ1」に感動しました。私がみるのは昼間の町なので、小さな町でしかありませんが、夜には赤や緑の電気が灯るのでしょうか。ちょっと想像できませんでしたが。

 私が勤めていた中学・高校というのは、特に目立つことのないアメリカの平均的な学校でした。それゆえ、私にはとても魅力的でした。その前に勤めていた小学校はアジア系の多い街のニュージャージー州でも上位の学校でした。アジア系、特に韓国人が多かったせいか、みんなまじめで勉強もよくやっていました。アジア人の私にはなじみやすかったです。でも、この中学・高校に勤めるようになって、私は初めて、自分はアメリカで教師をしていると感じました。生徒たちをひとつの言葉で表現できないくらいに、それぞれが「個人」だったのです。勉強をがんばる子もいれば、勉強嫌いな子もいて、スポーツもそれぞれに好きなことをし、音楽もそうです。喫煙をみつかり停学処分を受ける子もいたし、留年する子もいました。スカラーシップを受けて悠々大学に行く子もいました。ランチタイムになると人懐っこく寄ってくる大きな体の男子高校生や、妊娠6ヶ月の私のことを「妊娠か、太ったのか」で賭けをしていた女子中学生。みていてあきない、それがアメリカの学生らしく、私は魅力を感じていました。統一テストでも決して上位でもなければ下位でもなく、「この学校はすごいよお」といえるものも特になかったのですが、それがあまりにも平均的っぽく、「最もアメリカンな学校」と言えたかも知れません。だからこそ、あの橋を渡りながらも、辞表をなかなか書けずに勤め続けていたのかもしれません。

 普段なにげないと思っていた場所や物が実は「一番」だと知るとうれしくなりませんか? だからといってその場所、物が自分にとって別物に変わるわけではないのですが、なんだか「実はすごいんだぞ」と誇りに思えてきます。私は毎朝、「この橋が川に転落したら」と恐れながら渡っていたDriscoll橋を渡っていたということに誇りを感じます。世界一幅広だから、というのではなく、世界一幅広の橋を渡っていた自分に誇りを感じるのです。そして、あのアメリカ1バーの多い町で最も平均的な学校に勤めていたことにも誇りを感じます。苦手なことがあって、できないこともあります。でも、それを克服したときこそ、自分を褒め称え、誇りに思いたいと思います。すっごい! 私は世界一がんばったんだぞ、と。

ENJOY 2010 Unsung Hero 2010

Unsung Hero 2010

 

 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年はみなさんにとってどのような年でしたでしょうか?私は人生の中でナンバー3に入るくらいに大きな年でした。癌だと診断され、入院は3回もして、手術も2回して、子供たちと離れ離れで1週間の生活を味わい、抗がん剤治療に苦しみ、あげればきりがないくらいにいろいろなことを体験いたしました。それらが全て「最悪」なことばかりとは思えません。そういうことがあったからこそ、人の優しさを知り、健康のありがたみを感じ、「普通」と呼ばれる生活のすごさを知ったわけですから、学び多き1年だったと解釈しております。

 

去年が学びの年であるならば、今年はそれをいかすようにしたいものです。私はどういう人でありたいか、どういうふうに生きていきたいかと自分に問いかけてみました。

子供の頃はスーパーヒーローであったり、アイドルであったり、まさに見た目の華やかなものにあこがれました。少し大きくなると、もう少し現実的となり、小説家とか脚本家とかそういった文筆業を生業にしたいと思うようになりました。しかし、年を重ねると冒険というよりも地に着いたものをみるようになります。それは経験からそうして生きていくことを学ぶのかもしれません。今の私にとって大事なのは外見よりも中身です。というより、外見にかけるのは無駄だと、ここ数年で悟りました。子供ができてから、私は自分を直視するよりも子供という鏡を通して自分をみるようになりました。「私はいい母親であるか?」「私は子供たちの誇りになっているか?」それゆえ、1週間の入院生活で子供と離れ離れになったときは、自分が消えてしまったようで悲しくなったのです。では、子供たちにとって誇りに思える母親とはどんな存在なのでしょう。

 

世の中にはUnsung Heroと呼ばれる人が多く存在します。決して有名ではないんだけど、その地区、場所で人々に大きな影響を与える人、称えられてるわけではないけど人の心に残る人、ってすごくカッコいいと思うのです。私の身近にも「この人はすごいなあ」と思う人がいます。その人は登下校時間帯に道路の横断を助けてくれるCrossing Guard、そうです、「みどりのおばさん」です。私の住むMontclairの隣のGlen Ridgeという町の学校の前で、莫大な交通量をさばいている白髪の女性がいます。お化粧して流行の服を身にまとい、街を闊歩するような都会の女性とは違い、ハロウィンのときは黒い魔女ハットをかぶっただけで十分にウィッチにみえてしまうようなふさふさの長い白髪のおばあさんなのですが、すこぶるカッコいいのです。その学校は大きな通りに面しており、通りをはさんで図書館、はす向かいにはニューヨークにつながるニュージャージートランジットの鉄道駅があります。登下校時間は子供たちの送りや迎えの車が路上に停まります。ものすごい交通量なので、当然のごとく私も通り過ぎるだけで、車から降りて話しかけたことはありません。だから、彼女とは面識もなければ名前も知りません。

下の子が生まれるまで私は公立学校の教師でしたので、私の出勤時間も帰宅時間も、ちょうど彼女の仕事時間の真っ只中。自他共に認める「もみじマーク」つけるべく老人運転をする私は、通行人や左折車が交差するような大きな通りの十字路は大変苦手なのです。もたついた運転をするせいか、よく後続車にクラクションを鳴らされたり、Crossing Guardに大きな声でしかられたり、怖い思いをするのです。しかし、このおばあさん、ただのおばあさんではありません。白髪のばあさんか、などとあなどってはいけません。凄腕Crossing Guardなのです。怒らない、怒鳴らない、嫌な顔しない、人を混乱させるような誘導をしない、そんな「ない、ない」続きプラス、笑顔で誰にもスムーズな誘導、動きが敏速という、まさにCrossing Guardのお手本のような人なのです。どこから誰がみてもわかりやすく両手を大きく動かし、車もバスも歩行者もベビーカーもとにかく道を通る全ての人を見事なまでにさばくのです。片手に持つ「Stop」サインも自分の片腕のように扱っています。学校の下校時はやはり子供たちがおしゃべりしながらゆっくり歩くし、お迎えの車もいっぱいなので、警官も出ます。しかし、どんな警官でも彼女にはかなわない。彼女の誘導の補助でしかないのです。

 

以前住んでいた街で、私が愛犬の散歩をしていると必ず物言いたげににらんでくるCrossing Guardがいました。雪の降った翌朝、犬の散歩していたら、ちょうどといいますか、たまたまといいますか、愛犬MOMOがそのCrossing Guardのそばでおしっこをしたのです。そしたらすかさず、「だめだめ!そこにおしっこさせたら汚れる!」と怒鳴ってきました。一瞬のことで驚いて、「ごめんなさい」と謝って帰ってきましたが、あとで考えてみたら、道端で犬がおしっこして罰金なわけない、じゃ、なに、おしっこした黄色い雪を持って帰ってこればよかったってこと?通りを渡ろうとすれば、「早く早く」と怒鳴り散らすし、道を歩くだけでこうも怖い思いするのもどうかと思いました。以来、遠回りしてでも私はそこの横断歩道は渡らないことにしたのです。確かに寒い中ずっと立っているのはきつい仕事ですし、人にあたりたくもなります。でも、通る人に不快な思いをさせてはいけないと思うのです。

一言でCrossing Guardといっても人柄が出るものなのだと思いました。白髪の凄腕Crossing Guardのおばあさんは、彼女の人柄、そして、仕事に対する自信と誇りがあるから、あれだけの交通量を笑顔でさばいてしまえるのでしょう。みていると、歩行者には必ず声をかけています。子供から大人、ベビーカーに乗った赤ちゃん、散歩している犬にまで声かけては手を振っています。そして、みんなも彼女に声かけているのです。クリスマス、バレンタインデーには、横断歩道をわたりながら彼女にプレゼントを手渡す人もたくさん。

寒い日も暑い日もあります。天気のいい日ばかりではありません。それでもいつも笑顔で混乱を招くことなく交通安全のためにがんばってくれる彼女。きっと地元の人以外は知らないでしょう。でも、彼女に毎日命を守られている人の数は莫大なもの。私はこの交差点を通るとき、おびえることなく安心して通り抜けることができます。いつか、車を止めて歩行者としてこの道を歩くことがあったら、そのときは「いつもありがとう」ってお礼を言いたいです。

 

私はうちの子供たちにとってのヒーローでありたいです。どこからみてもただのおばさんであっても、うちの子たちにとっては最高のママでありたい。そのためにはまずは健康であること。折り返し地点まできた抗がん剤もきつさを増し、時々は「もう死んでもいいからやめたい」と思うこともありますが、まずはこれを乗り切ること。癌を敵視してはいけません。癌細胞が体内にあるとしたら、どうか悪い細胞にならないよう、騒ぎをおこさぬよう、不良生徒と接するようにあきらめず更生させていい細胞になるように共に生きていきたいものです。そして、できるだけ怒らないこと。そうです、「できるだけ」です。怒ります、これからも。でも、滅多やたらに、感情に流されぬよう、怒っていきたいと思います。そして最後に、自分に自信と誇りを持つこと。凄腕Crossing Guardのおばあさんのように、自分のしていることに自信と誇りを持つことであんなに輝くのですから、「いいよなあ、外で仕事してるんじゃないから、うちでゴロゴロできて」といわれようとも、自分の中で満足した生き方ができていればそれでいいのです。そして、子供たちはそんな私を認めてくれるでしょう。隣の芝生は青く見えるものです。隣にないもの、それは私には大事なふたりの子供たちがいること、そして、その子供たちといつも一緒に暮らしていられること。昨日できなかったことが今日できた、子供の成長を目にしていられるのは今のうちです。そんな生活に感謝し、今年もちょっと怖いけど、カッコいいUnsungママでありたいと思います。真冬でも真夏でも笑顔でこなすあの凄腕Crossing Guardのおばあさんのように素敵に輝く1年を過ごしたいと願っております。

ENJOY 2010 犬の訓練

犬の訓練

 

 5年前、首も据わらぬ息子を初めてお風呂に入れたのは私。手伝いに来てくれていた母が、「初めてにしては手馴れた手つきねえ」と感心しました。そうです、自分でいうのもなんですが、私はとても上手にできました。赤ちゃんを入浴させるのは初めてでしたが、実は私、こういうことには経験があるのです。なにせ、私は生後7週目のMOMOをわが子として育ててきたのですから。MOMOというのは、愛犬アメリカンコッカースパニエル、12歳。当時、独身だった私は子犬を育てることを子育てにたとえることをはばかりました。母親という存在はきっと「犬と子供を一緒にするな!」と思うだろうから、独身の私がそういうことを言ってはいけないと思っておりました。しかし、母になり、二人の子を育ててくると、子犬を育てるのも子供を育てるのも共通することは多々あると思うのです。お風呂もそのひとつです。ふにょふにょした体のMOMOを両手で抱きながら少しずつお湯につからせ、シャンプーでマッサージしながら気持ちよくさせ、お風呂は気持ちいいところですということを教えながらきれいにしていく。それはMOMOも息子も同じでした。息子の首を支えながらも体を洗っていくのは、小さなMOMOの初入浴と同じ要領でした。息子、あまりの気持ちよさにおしっこを飛ばし、うとうと眠りかけました。

 私の人生の中で犬のいない暮らしというのは本当に数年しかありません。3歳のときに初めて犬を飼い始め、以来私は犬と共に暮らしてきました。海外に出るようになり、タイでの2年間は犬と暮らせなかったもののカンボジアに渡ってからは犬を飼い、日本に引き上げるときは一緒に連れて帰ってきました。渡米して初めの1年は犬を飼えませんでした。なにせ友達の家に居候しているような私が犬を飼える分際ではありません。犬のいない生活は寂しく、メインストリートにあるペットショップのショーウィンドウにいる犬を毎日見に行っていました。ルームメイトに「犬飼いたいなあ」といえば、「だめだ」と言われ、彼のお母さんやお姉さんにまで話しにいきました。なにせ家族ぐるみでの付き合いでしたので、お母さんもお姉さんも私の身内みたいなもの。お母さんとお姉さんが彼に、「ジュンコに犬を飼わせてあげなさいよ。犬はいいわよ。気持ちが優しくなれるわよ」と話してくれたものの、彼の返事は同じ。犬を飼うことをあきれらめかけていた冬の日、私はひどい風邪をひきました。寝込んでしまいました。ベッドの中で毎日、犬の写真本を見ていました。彼が「ジュンコ、大丈夫かい?」と心配してくれるものの私の風邪は一向によくならず。「あーあ、こんなとき犬がいてくれたらなあ、病気なんてすぐに治るのに」とぼやきました。彼が「なにか欲しいものはないか」と聞いてくれば、「犬」と答え、巳年生まれでもないのになかなかのしつこさで、とうとう彼が折れました。「犬がいれば本当によくなるのか」と。瀕死の病人の顔つきで寝ていた私は飛び起きました。「もちろんよ!」というが早いか、キッチンへ行き、冷蔵庫から食べ物を出し、食べ始めました。「ほらね、犬がもうすぐ私のもとに来ると思ったら食欲も出てきたわ。たくさん食べて元気にならなきゃ。そうよ、犬がいれば私は二度と風邪なんてひかないもの!」呆れ顔の彼も、その翌月には私に巻き込まれ、MOMO育てに参加させられていたのです。

 MOMOは私の自慢でした。どこにいくのも一緒に連れ歩きました。とてもきれいな毛色のため、散歩しているといつものように「どこでその犬買ったの? 同じ色の犬いるかしら」と聞かれました。時々は通りで車を停めてまで聞いてくる人もいるくらいでした。MOMOが5-6ヶ月のころ、友達の家によばれ、一緒に連れて行きました。お庭に大きなプールのあるおうちで、その友達も日本の実家に遊びにきたりしての家族ぐるみの友達でした。そこの娘さんのジェーンが私と同い年で、犬好きが高じて獣医にまでなり、久々におうちに戻ってきていました。私がみんなでプールに入っていたら、小さなMOMOはプールが深いということも知らず、私のところに来たい一心で飛び込んできました。「おー!」みんなで、ジャンプインしたMOMOに声をあげました。が、MOMO、泳げません。私が近づくとしがみついてきました。相当怖かったようでブルブルと震えていました。以来、MOMOは泳げません。川や海に連れて行っても水辺には近づきません。

 MOMOはもともと臆病な性格でした。初めてMOMOにあったとき、MOMOは5週目で、そのときすでに私はこの子が臆病者であることがわかりました。それも数匹いた子犬の中からMOMOを選んだ理由でもありました。プールで溺れたMOMOをみていたジェーンも同じ事を言いました。MOMOは臆病な性格で、ペットとして飼うならそのほうが飼いやすい、と。でも、飼うだけじゃだめ。犬とはいえ、教育が必要、子犬のうちにしつけておけばこれから先、お互いに楽しく暮らしていけるから、とも言われました。彼女からアドバイスされたのは半年頃から通える子犬の訓練学校。早速、家の近辺で通えそうな子犬のクラスを探しました。

 隣町、Madisonにありました。St. Hubert’sといえば、Morris Countyに住む人の多くが知っていると思うのですが、動物シェルター、アダプション、訓練学など、動物愛護に関することをしているノンプロフィットの団体です。そのプログラムのひとつがMadisonにあったのです。当時私は学生だったので、あいているのは土曜日しかなかったのですが、たまたま翌月からの土曜クラスにMOMOが入れるということで、早速申し込みました。事前に送られてきた書類には何回も目を通し、忘れ物がないように前夜には何度も持ち物チェックをし、初日の朝は意味もなく早くから目が覚めてしまいました。それは、息子の親子教室に行く日の朝のようなものでした。当人より母が興奮してしまい、「いよいよ社会への一歩だわ」などと心を躍らせたのはMOMOのときも息子のときも同じで、申し訳ない、娘のときはそのときめきがなくなっておりました。

 クラスは確か12ヶ月までの子犬のクラスで、MOMOはちょうど9ヶ月。大型犬も小型犬も一緒のクラスでした。親子同伴のクラス、そうです、親子です、教室では「Mom」「Dad」と呼ばれるわけですから、犬と飼い主ではなく、「MOMOとママ」なのです。朝9時からのクラスには、朝食は食べさせずに来るようにとのこと。お腹いっぱいの犬には教えにくいのです。少しお腹がすいていると、ごほうび欲しさにいろいろ覚えてくれるのです。自分だけ朝食を食べるのが忍びなく、土曜日は私も朝食をぬき、コーヒーだけで出かけたものです。クラスが始まる5分くらい前に着くようにいくと、他の親子(飼い主と子犬)連れも来ています。人間の中で育てたせいかMOMOは犬が嫌いでした。どんな犬が来ても嫌がり、びびっておしっこをちびってしまったり、相手の存在を否定するかのように無視して遠くをみたりしていました。それでもMOMOは親たちにはとても人気があり、それをMOMO自身も喜んでいました。MOMOが行くと、他の親たちが「おー、MOMO!」と言ってくれて、MOMOも大喜びしてよその人の膝の上に飛び乗り座り込んだりしていました。

 先生は訓練された自分の愛犬を連れて、どのようにするかを見本をみせて教えてくれました。まずは「Sit」(おすわり)と「Down」(伏せ)から教えました。上手にできたらご褒美のクッキーのかけらをお口にポイ。臆病者のMOMOは周りの犬に興奮してしまい、蛙のようにピョンピョン跳ねてばかり。先生はそれぞれの犬の性格を理解してくれて、興奮してしまうMOMOにもできるように指導してくれました。1レッスンが終わると、翌週までにそこでやったことをマスターするように家でのホームワークが出されます。それも私の楽しみでした。うちに帰ってからMOMOと一緒に課題に取り組むのは、それこそ小学一年生の子供の宿題を一緒にみてあげるような、そんな優しい気持ちになれました。訓練では散歩のしかたも教えてくれました。たとえば、拾い食いさせない、ひっぱらない、いきなり走り出さない、といった、人間と犬が楽しく散歩できるように指導してくれました。拾い食いは危険です。うっかり毒のはいったものを口にしたら大変です。訓練のおかげで、MOMOはとてもいいコンパニオンになりました。ソファーやベッドには上らない、家具は噛まない、室内ではおしっこしない、テーブルにてをかけない、散歩の姿勢もよく、拾い食いもしない、一緒に暮らすのには最高の犬になりました。臆病で甘えん坊な性格は変わりませんが。

 訓練コースの卒業式ではドキドキでした。先生に名前を呼ばれ、親子で卒業証書を受け取ります。MOMOは卒業証書よりもお祝いクッキーに目が釘付けとなり、スキップしながら卒業証書授与となりました。先生からのお言葉で、「これからも訓練は続けてください。少し疲れているときやお腹のすいているときがなにかを教えるベストなときだと思います」とありました。となりにいた仲良しのおじさんが、「じゃあ、MOMOはエンパイアステイトビルディングの階段を登って降りてきてからだな」と言い、クラスメイトの親みんなが大笑いしました。悪い意味でなく、みんながMOMOを愛してくれていました。ここは私がアメリカにきて初めての社交の場でした。MOMOのママとして、私がMOMOを連れて社会のみなさんと交流していたのですから、MOMOの卒業は私の卒業でもありました。

 うちの犬はバカだから、という人がいますが、犬はバカではなく、教えられなかっただけです。犬はただ飼えばよいというのではなく、子供と同じで、責任持って健康管理をしてあげて、しつけてあげなければいけません。しつけとは怖い顔して怒ることではありません。私はMOMOを怒ったことがありません。それでも基本的なしつけはできました。芸はしませんが。ただ、犬はあくまでも犬であることを念頭に、その上で思いっきり愛してあげることが大事です。おうちで犬を飼っていないけど犬が好きとか、近いうちに犬を飼うという家庭の子供たちは是非、St. Hubert’sのプログラムの子供向けのクラスを受けてみることをお勧めします。ペットとはどういう存在か、どのように共存していくのか、といったことを教えてくれます。アダプションもしているので、子犬や子猫は育てられないから成犬や成猫が欲しいという方は是非問い合わせてみてください。MOMOはあの3ヶ月の訓練が12歳になった今でもいきています。動きが鈍くなり、耳が遠くなってきても、私の指命令をみればちゃんと私のいうことを理解しています。

St. Hubert’s のウェイブサイト: sthuberts.org

 

ENJOY 2010 一番好きなもの

一番好きなもの

 

我が家の一日の始まりは早い。私は毎朝5時半に起きます。続いて息子が起きてきます。本来なら6時に起きても間に合うのでしょうが、息子が6時前には起きるので、その前に起きておかないと大変なことになるため5時半起きなのです。夏ならまだしも冬の5時半ははっきりいって夜の10時半のようなもの。外は暗く、ほとんどの家では消灯。ベッドに入ってテレビをみている薄明かりはみえるものの、こうこうとした家の明かりは消えています。そんな午前5時半に、一日が始まり、追われるようにあわただしく毎日が過ぎていきます。

私は寒いのも早起きも嫌いです。でも、子供がいるとそんなこと言っている暇もないくらいに「起きざるを得ない」状況で、寒かろうが暑かろうが子供の学校の送迎、スクールバスの待ち、外に出て行くしかないのです。だから、時々は母の愚痴も許してもらわねばたまりません。

12年前、私は初めてニュージャージーの冬を知りました。日本の実家では寒いと言っても積もるような雪はみたこともなく、積雪何センチというのはテレビの世界でしかありませんでした。なので、ニュージャージーに来て初めての冬の始まりには戸惑いました。家の中は暖かいのに、外は骨にしみるような寒さ。一体、この温度差は何ぞ、と。日本の実家ではセントラルヒーティングなんて近代的なものはなく、部屋ごとの暖房なので、廊下もトイレもお風呂も寒いのです。小さな家の中でも部屋移動には走りました。一番風呂も嫌。でも、外は寒いとはいえ、氷点下になるようなことは滅多にありませんでした。

12月のある晩、とても寒くて眠れませんでした。いつもと同じ室温設定のはずなのに、暖房もきいているはずなのに、どこからか体の芯が冷えるような、底冷えするってこういうことなんだろうなと思うような、そんな寒さでした。夜中の2時過ぎでしょうか、目が覚めて窓の外をみたら、真っ白。一面の銀世界で、外が明るいのです。「うそ、これ、何。。」生まれて初めてみた銀世界に、私はディズニーの世界を想いました。テレビでみていた積雪何センチの世界に私がいるのです。

翌朝、ウキウキして朝食の準備していたら、友達が「Hope no more snow」と言いながら起きてきました。どうして?こんなきれいな雪の世界に喜びはないの? 友達とはいえ、私の叔父と同い年の言ってみれば私のアメリカでの唯一の家族のような人、雪に感動するには年を取りすぎているとのこと。「ジュンコ、雪が降ると雪かきをしないといけないんだ。それに、道路もすべるから事故も起きるし、渋滞もするし、いいことはないよ」と。なんだか、初めて野生のリスをみたときと似ていました。「うわあ、野生のリスがいる!」と感動した私に、彼は「ジュンコ、リスなんてどこにでもいる害虫みたいなものだよ。彼らは遠くでみるにはいいけど、悪いことするからうちのそばにはきてほしくないんだ。屋根裏なんか入り込まれたら大変なことになるんだから」と言いました。

あれから数年後、結婚した私の家の屋根裏にリスが住み着いていたらしく、天井からウジが降ってくる災難に見舞われ、リスは彼の言うとおり「遠くで見るがよし」という存在になりましたが、雪は別です。

雪はいつのときも私の心を和ませてくれます。雪を見ていると時間が止まるように思えます。そして、雪はどんなときも平等です。みんなに白い銀世界をみせてくれます。人がどんなにあせって走っても、軽々と隣の車を追い越すようなスピードを出せなくさせます。みんながゆっくりせざるを得ない、そんな平等な時間をくれます。

通りで雪かきをする人たちをみてください。あせってすごいスピードで雪をかきまくるような人はいないでしょう。雪かきはのんびりと時間をかけていくしかないのです。もちろん、除雪機を使えば一発ですが。

私は雪が降るとたくさんの楽しみがあります。まずは見ること。真っ白な世界、いつもなら行きかう車でいっぱいの通りも静かです。車のなかった時代ってこんなふうに通りが見えていたのかなと想像します。そして、雪遊び。愛犬MOMOは雪が大好き。まだ子犬だった頃、自分の体が埋まってしまうくらいに深い雪の中を必死で泳ぐように走っていたMOMO。雪の中、リーシュなどつけなくても走って逃げていくこともできませんし、危険な車も通りません。なので、家の庭で追いかけっこをしたものです。雪まみれになって、真っ白な息を切らせ、MOMOとはしゃいだものです。子供が生まれてからはそういう遊びこそなくなりましたが、MOMOをつれ、子供たちの手をひいて、雪遊びをするのは楽しいものです。MOMOは臆病なので、雪だるまが大の苦手。大きな怪獣がいるように見えるらしく、雪だるまをみると逃げ出します。なので、うちでは雪遊びをしても雪だるまは作ってはならぬものなのです。娘のつくる団子3兄弟のような雪だるまならOKですが。雪遊びのあとは雪かきです。多くの人が嫌う作業ですが、私は大好きです。これが土だったらおそらく楽しめないでしょう。でも、雪は素晴らしい。自分が積雪何センチの中で、雪をかいているなんてあまりにも素晴らしい光景で、自分で酔いしれてしまうのです。それに、雪かきって、古きよき時代にあったような近所付き合いを思い出させてくれます。同じ時間帯に近所の人たちが外に出て同じことをするのです。普段あいさつ程度の付き合いのお隣さんと立ち話してみたり、お年寄りがショベル持っていれば手の空いた人たちが手伝ったり、雪かきの後でお向かいさんにお茶をごちそうになったりと、忙しい毎日の中で欠けていた近所付き合いを思い出させてくれます。

 雪はそれだけではありません。もっともっとすごいのです。雪が降った後のある朝、外に出ると昨日まで雪が積もっていた木の枝が氷に覆われてまさに「氷の枝」になっていました。雪が溶けかけたものの、気温がまだ低かったため凍ったのでしょう。キラキラ光る氷の枝は子供の頃読んだ絵本に出てきそうなくらいに美しいのです。

美しいといえばもうひとつ。私は雪の結晶というのは現実にはありえない北欧の国の物語か、そうでなければ雪印という会社が作ったマークだと思っていました。家の中から降り積もる雪を見ていたら、またも「すごい」がありました。窓に雪の結晶がくっついていたのです。そう、雪印のマークのような、絵本でみた雪の絵のような、はっきりくっきりとしたきれいな雪の結晶が私の目の前の窓にはりついていたのです。こんなにきれいなものをみてしまうと、冬という季節は魅力的になります。

 雪になると学校も休みになります。これは複雑です。仕事をしていた頃は、雪の朝になると早くから起きて電話が鳴るのを待っていました。「今日は学校は休みです。次の人に回してください」とスノーチェーンと呼ばれる連絡網で連絡が回ってくるのです。教師とは子供と同じもの。職員会議で時間が延長してくるとおしゃべりが始まりごそごそするし、雪で学校が休みとなれば声も明るく早朝からうれしそうです。「イエーイ!」とガッツポーズでいた私も、母になるとちょっと立場も変わります。「え、子供たち2人ともうちにいるの。。。」と。子供たちと一緒に雪遊びはしたいとは思いますが、でも一日中家にいられるのは。。。とガッツポーズにはいたりません。2時間遅れでもいいから学校始まってくれないかしらと、勝手なことを思ってしまうものです。

 日本にいた頃、冬が大嫌いだった私。目が覚めると布団から出るのがつらいし、思い立っても隣の部屋にいく勇気すら出ず、コタツで丸くなる猫のような思いでした。でも、ニュージャージーには冬の素敵なものがたくさんあります。ニュージャージーの冬は人の心に暖かさをくれます。みんなと一緒になって、時にはみんなよりも「寒いのはイヤね」「また雪が降るんですって。早く春にならないかしらね」と冬を嫌うようなことを言う私ですが、すみません、私、うそをついておりました。本当は私はニュージャージーの冬が大好きです。どこのどんな冬よりもニュージャージーの冬が一番素敵です。なぜならば、あんなに冬を嫌っていた私の心を一冬にして変えてしまったのですから。今月はバレンタインデーですね。みなさんはどのように過ごされますか。私は、大好きな雪をみながら、大事な子供たちと一緒にアツアツのホットチョコレートを飲みながら過ごせたらいいなあ、と願っております。

ENJOY 2010 ニュージャージー 大事なこと

ニュージャージー =大事なこと=

 

 1997年8月10日、私のニュージャージー暮らしは始まりました。そして、今、私はニュージャージーから離れています。子供たちと共に日本で暮らしております。「お、子供連れて日本逃亡か」と思われましたか。でも、去年はそう思われてもしかたない大変なことが続きました。発達障害のある息子、まだ赤ちゃんから抜け出したばかりの小さな娘を抱えて、私は余裕のない子育てに追われていました。その上、私自身は癌になり、その癌もかなり進行していたため抗がん剤治療となりました。抗がん剤治療は人の話にきく以上にきつく、腹膜炎を起こし人工肛門までできてしまい、これ以上何を?というくらいにたくさんのことが起きました。 

 ちょっとだけ休みたくなりました。逃げると思われてもかまいません。でも、私は私と子供を大事に生きていきたいです。だから、今、日本に戻り、人生の休憩をしています。親子三人で暮らしています。子供たちから父親を奪うつもりはありません。だから、時がきたらまたニュージャージーに戻りたいと考えています。

 人は、なくしたときにはじめて本当の大切さを知る、と言います。私は今、ちょっとだけ休みながら、私がみていたニュージャージーについて書いてみようと思います。しつこいようでうが、私はまだニュージャージーをなくしたわけではありませんよ、あくまでも、その前に、なくして後悔しないためにも、の話です。

 私はたった一度だけニュージャージーを離れようと思ったことがあります。それは2000年の夏でした。テキサスに引っ越そうと思い、大学までみに行きました。なぜにテキサス?テキサスには実家にホームステイした知人がいたので、その人を頼ってのことで、テキサスに行きたいからというのではなく、ニュージャージーを出たいからということでした。なにが不満でそんなことを思ったのか今では覚えていません。ただ、テキサスに1週間滞在し、大学を見学しているうち、ニュージャージーに帰りたくなりました。それが答えだと思い、ニュージャージーに舞い戻りました。あのとき、もし、テキサスに行っていたら。。。と思うことも度々ありました。では、もし、あのとき私がテキサスに行っていたら、私はどうなっていたでしょう。もっと幸せな人生だったかもしれません。癌にもならなかったかもしれません。では、もっと幸せな人生って、どんな人生なのでしょう。

 私はニュージャージーでとても大事な人と知り合いました。その人の名前はGladys。私の人生の中で出会った一番仏様に近い人です。Morristownで陶芸教室を開いていたおばあさんです。Gladysは私が居候していた友達のお母さんなのです。Gladysは私を自分の娘のように大事にしてくれました。息子の婚約者でもない、ガールフレンドですらない、そんな私を本当に大事にしてくれました。だから私は友達とぶつかりあうと言いつけにいき、テスト勉強がはかどらないと教えてもらいに行き、なにかにつけ自分の家のように行っていました。Gladysの陶芸教室は大きな自宅の一画にありました。Gladysはおうちに鍵をかけませんでした。大きなおうちなので、部屋をいくつか人に貸しており、いつも誰かが家にいました。だから玄関の鍵はかけなかったのです。丘の上にあったそのおうちは、夏は大きな木の陰から吹く風が心地よく、冬は陶芸で使っていた大きな窯、お部屋を暖める大きな暖炉が人の心までも温かくしてくれました。Gladysの家に行くと、心が休まりました。彼女は決して人を悪く言わないどころか、非難したことがありません。必ず人を認めます。だから、私がどんなに意味不明なことで愚痴っていても話が終わる頃には、すっきりした気持ちに導いてくれました。

春、Gladysの家にいくと、木々のにおいがしました。緑の草のにおいと青々とした木々の香りに包まれていました。おうちのテーブルの上には、「庭でそっと咲いていたからここにつれてきちゃったわ」と小さなお花が活けてありました。「ちょっと疲れちゃったからお茶でも入れましょうね」と、クッキーと紅茶を出してくれました。夏、Gladysはいつもお昼過ぎに1時間くらいお昼寝をしました。私は学校帰りにテイクアウトで買ったランチを持ってGladysのおうちに向かいました。木陰でそっとランチを食べていると、そよ風が気持ちよく、下界の暑さがうそのように思えました。人の家の庭でランチを食べて、さっさと帰るとはおかしなヤツですが、夏のランチが一番おいしく思える場所でした。秋、Gladysの家に向かう道でみる紅葉はびっくりするくらいきれいでした。炎が燃えるような真っ赤な葉、絵の具で塗ったようなオレンジや黄色の葉。車で通り抜けるとき速度を落としたものです。私に絵心があれば間違いなく写生していただろうなと思いました。冬は最高でした。雪が降り始めると急いでGladysの家に行きました。Gladysの家は丘の上なので、雪が降り始めたら出て行くのが大変です。雪が積もっていたら下の街へ行かれません。雪の世界に閉じ込められてしまうのです。私はそれが好きでした。愛犬MOMOを連れて、Gladysの家に泊まりこみました。外はすごく寒いのにGladysのおうちはあったかなのです。Gladysのつくるスープが心も体も温めてくれました。

 Gladysは私に詩を書いてくれました。ご飯も作ってくれたし、話し相手になってくれました。私の誕生日には心のこもったプレゼントをくれました。おうちにいくといつもお茶をいれてくれました。家族のない私をホリデーのたびにファミリーパーティーに誘ってくれました。まるで家族のようでした。それなのに、私はひとつだけ満たされない思いでいました。それは私がGladysの本当の家族ではないということでした。それは私が勝手に思っていた不満でした。ファミリーパーティーに誘われても、私だけ家族じゃない、と思うと寂しくなりました。

 私が結婚してからもGladysは機会あるごとに私を支えてくれました。最初の子を亡くしたときも抱きしめてくれました。息子が生まれたときも、神経質になっている私の心をゆりかごで揺らすように解きほぐし、息子の誕生を喜び、私と息子を抱きしめてくれました。息子が生まれた翌年、GladysはMarylandに越していきました。大きな家を維持するのはもう大変となり、陶芸教室をしめて、Marylandにいる娘のところに行きました。でも、月に一度くらいはニュージャージーに戻ってきて、息子の家、そう、私が居候していたおうちに数日いるようです。

 いつもGladysはいる、と思ったからつらいときも逃げていく場がありました。でも、Gladysがいなくなってから、私がどれほどGladysに頼っていたかがわかりました。空気のように、そこにいることが当たり前のようでした。Gladysがいなくなってからも、秋になるとあの紅葉の道を通りました。でも、春のにおいも、夏のランチも、冬のお泊りも、二度と戻らない過去となりました。あの、小さな幸せの大きさを知りました。

 「普通の生活を送りたい」とよく言いました。普通の生活ってどんな生活なのでしょう。私は、家庭におさまらない夫に不満を抱いていたのでしょうか、息子の障害を受け入れられずにいたのでしょうか、癌になっても孤軍奮闘している自分が哀れに思えたのでしょうか。では、それらが解決したら普通の生活の幸せを感じられるのでしょうか。そうは思えません。私はなにかと不満や文句を言いたくなるちっぽけな人間です。目の前にポテトチップスがあればフレンチフライが欲しくなります。次から次へと自分にないものを探してはそれがあれば幸せだろうなと想像してしまうのです。たくさんの情報に飲まれ、私は自分がどれほど不幸な中にいるのだろう、と思いました。「普通」からみれば、私の生活は「普通はありえないよね」ということがあまりにも多いのですから。

 考えてみました。私はどうしてニュージャージーに住んでいたのかと。好きだったからです。私はニュージャージーの冬が大好きで、ニュージャージーの草刈りの翌朝のにおいが大好きで、地図で見るとあまりにも小さな州でコンピュータースクリーン上でニュージャージーをクリックしたつもりがペンシルバニアやニューヨークが表示される苛立ち、運転がこわい、そうです、いい面もあって悪い面もあって、おかしな面もあればいらだつ面もあり、それが全部ニュージャージーで、そこが好きなのです。あのときテキサスに行っていたら、私はもっと幸せになれていたのでしょうか。私は私の選択が正しかったと思います。家庭におさまらない夫は子育てにうるさく言いません。彼と出会わなければ私はこの大事な子供たちとめぐり合えなかった。息子の障害を取り除けるなら今でも取り除いてあげたい、癌を喜んで受け入れたわけでもない。でも、それらがあって今の私たちがこうして生きているのです。「普通」ではない私の生活ですが、私の子供たちは「普通」ではない特別な子たちです。たくさんのネガティブな思いや出来事もありました。もしも、私の人生を「勝ち組」「負け組」という言葉で表現するなら、私の人生は「勝ち組」です。だって、たくさんの大好きな人やものと出会え、そして世界一大事な子供たちがいるのですから。

 もうしばらく日本で休みます。心身ともに元気になり、パワーアップしたらまたニュージャージーで「普通」ではない暮らしに戻ります。それまでニュージャージー、ちょっとだけバイバイです。というわけで、ニュージャージー便りは今月でおしまいです。今までたくさんのみなさんに励まされてきました。来月からまた別の「語り」を始めます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ENJOY 2010 スカンジナビアンダンス

スカンジナビアンダンス

 

 私は夏になると真っ黒に日焼けするので、小さい頃「チビクロサンボ」と呼ばれていました。人は自分にないものを求めると言います。そのせいか、私は色素の薄い妖精のような人にあこがれていました。北欧の人たちはまさに私のあこがれ。雪の結晶柄のセーターも民族衣装も素敵。いつかはムーミンの住むムーミン谷に行きたいと真剣に考えたこともありました。アメリカに来て、ルームメイトに連れて行ってもらったスウェーデン家具のIKEAには感動しました。家具にはほとんど興味もなかったのですが、IKEAには家具だけでなく、スウェーデン料理のフードコートがあります。ミートボールにジャム?、はじめはぎょっとなりましたが、これがおいしい。IKEAにはしばらくはまりました。ESL教師として最初に勤めたのはParamusにある小学校でした。IKEAはParamusにもあります。そうです、仕事帰りにしょっちゅうIKEAに寄ってはスウェーデンの旅をしておりました。

 私がスウェーデンにあこがれるのは、自分がチビクロサンボだったからだけではありません。私をスウェーデンのBig Fanにさせた要因のひとつはルームメイトにありました。彼は骨格のがっしりしたドイツ人の父親と小柄ながらも凛としたイギリス人の母親との間に生まれたアメリカ人。なのに、家の中はなぜか北欧の物がいっぱい。キッチンの棚にはスウェーデンのジャムやら缶詰やら調味料まで。そして彼の部屋からはいつも意味不明ながらも素敵なダンス音楽が聞こえてくる。彼は木曜日の夕方6時になると大きな箱を抱えて出かけて行く。居候生活を始め1ヶ月が過ぎたある木曜日、いつものように大きな箱を抱えて出て行こうとする彼に聞きました。「どこ行くの?」と。「ダンスさ」と言いながら、鼻歌を歌っている彼。ダンスに行くのになんで箱持って行くんだろう。「今日はやることもないから連れて行って」と言い、ついていくことにしました。

 誰もいない暗い教会に入っていく彼。益々なぞめいている。電気をつけるとそこは「アーメン」とバイブル片手にお祈りするような場ではなく、まさに学校の体育館。誰もいないのに、この人はダンスするんだろうか、ここで。。。と思ってみていると、「もうすぐ誰かが来るから、それまで君が僕の手伝いをしてくれないか」と言われました。この人は毎週木曜日にここでなにをしているんだろう。謎は深まるばかり。彼はテーブルを並べると持ってきた箱をその上におきました。箱の中身は音楽テープでした。今でこそもうみることのなくなったテープですが、当時はまだまだ使われておりました。100を超えるテープがぎっしりと箱につまっておりました。そうこうしていると一人、二人と人が入ってきました。夫婦で来る人、友達と来る人、ひとりで来る人、様々でした。流れてきた音楽は、あの「意味不明ながらも素敵なダンス音楽」だったのです。そこから私はこの魅惑のスカンジナビアンダンスの世界に引き込まれていったのです。

 彼が率いるこのダンスグループSkandinojeは1993年7月に誕生しました。彼はもともとインターナショナルフォークダンスに通っていたのですが、どういうわけかスカンジナビアフォークダンスが好きで、とうとうニューヨークシティにあるスカンジナビアンダンスに通うようになったそうです。そこで知り合ったニュージャージーの仲間数人と一緒に始めたのがSkandinoje。日本ではあまりなじみのないダンスかもしれませんが、北欧のフォークダンスは衣装も音楽もダンスもとてもきれいなのです。妖精のダンスのようです。ここではスウェーデンフォークダンスをメインに、ノルウェイのダンス、フィンランドのダンスも取り入れて踊っています。一言でフォークダンスといってもいろいろありますが、ここではトラディッショナルなカップルダンスがほとんどです。カップルダンスだからといって必ず夫婦、恋人同伴で来なければならないわけではありません。ダンスのたびにパートナーを変えて踊るので、ひとりで行っても問題ありません。むしろ、ひとりで来る人のほうが多いかもしれません。夫婦で来て、だんなが他の女性とダンスをしていると怒ってはいけません。スカンジナビアンダンスの基本は、「歩く」と「回る」です。そこにリズムがついてきます。初心者はよく目を回してフラフラしています。私もそうでした。最初に教えてもらったのはHamboというスウェーデンのダンスでした。目が回って転んでいました。膝を曲げてピョンとあがって、クルッと回って、歩く、それをパートナーと組んで踊るのですが、何度相手に倒れ掛かったことか。それでもHamboをマスターした頃には目が回らないようになりました。それからひとつずつ新しいダンスを覚えていきました。そんなにたくさんは踊れないのですが、その中でもやはりHamboが一番好きです。一度テキサスの友達のところに遊びに行ったとき、その街のフォークダンスグループに連れて行ってもらい、そこでHamboを踊る機会がありました。そのときに「ジュンコは羽が舞うように軽々と宙を踊るね」と言われ、ほめられ好きな私はいい気になり、それ以来Hamboが大好きになりました。あと、Schottisというダンスも好きです。

 カップルダンスなので男女一組で踊るのですが、ダンスのリードは男性がします。なので、私(女性)が前のカップルのダンスを見ながら、「お、回った!」と思って真似して回りだすと、パートナーの足を踏んづけます。あくまでも自分のパートナー(男性)にあわせなければカップルダンスになりません。なんだかまるで人生のようで。よその夫婦を真似てもだめです。自分のパートナーとあわせて築いていかなければ自分たちのダンス(生活)になりませんものね。当時独身だった私にはそこまでみることはできませんでしたが。

 ダンスの音楽は通常録音されたものを使います。あの頃は録音したテープだったので彼が大きな箱を運んでいたのですが、今はCDなのでずいぶん持ち運びが楽になったようです。たまに生演奏のときもあり、バイオリンでの演奏にあわせて踊ることもあります。スウェーデンの弦楽器でニッケルハーパというバイオリンみたいな楽器があります。この楽器による演奏もたまにあるそうです。ダンスができなくても音楽を聴いているだけでも素敵です。初心者には手取り足取りでダンスの基礎から教えてくれるので緊張することもなく溶け込んでいかれます。みていると簡単そうにみえるダンスも実際踊ってみると、思うように体がついてこないものです。だからやめてしまうというのはもったいない。Skandinojeはみせるために踊っているのではなく、楽しむために踊っているのです。時々スカンジナビアンフェスティバルなどの催し物があると、そのなかのショーでダンスを披露したこともあったそうですが、披露が疲労となり、以来、楽しむためだけに集まり踊るようになったそうです。これが長く続く秘訣なのではないでしょうか。学校の部活動のように3年間がんばって、そのあとは後輩が続けていく、というのではなく、1993年からずっと続けているメンバーが多々いるというのは、やはりそこに楽しみがあるからだと思います。

 ルームメイトの彼は毎年夏になるとスカンジナビアンダンスキャンプに参加して、新しいダンスを習ってきます。ご存知のように、アメリカでは本当にいろいろなキャンプがあります。子供向けのキャンプから大人のキャンプ、山から海、陸上と、あやゆる趣味に対応できるくらいにいろいろなキャンプがあり、ダンスもそのひとつです。今はそのキャンプはニューハンプシャーに移ったらしいのですが、当時はウェストヴァージニアで行っており、夏になると1週間彼は出かけていました。「キャンプではスウェーデンの料理がふるまわれるから毎回食事が楽しみなんだ。」と言いながら。彼がダンスキャンプに出かけると、私はIKEAのミートボールを食べに行きました。アメリカ人のすごいなと思うことのひとつに、いくつになっても興味あることがあると、キャンプに参加するという向上心です。日本で50歳すぎたサラリーマンが夏休みにダンスキャンプに出かけていくなんて、そうはないでしょう。ま、もちろん、休みがとれないのもひとつにはありますが。

 私は結局、妊娠してからダンスに行くことはなくなりました。子供が生まれると、夜を自分のために使うことなどなくなりました。それでも、一度、子供を連れて別のダンスに出かけたことがあり、そこでHamboを踊りました。何年ぶりかで、体は重くなってかつてのように「羽が舞うように宙を踊る」ことはできませんでしたが、それでも一度覚えたダンスは体が忘れません。目を回すことなく踊れました。アップアンドダウン、膝を曲げて、ひょいっと上がって、くるっと回って。。。何年かぶりに妖精になりました。今でもあの「意味不明ながらも素敵なダンス音楽」を聴くとダンスに通っていたことが懐かしくなります。あと5年したら、うちの子たちも8歳と10歳。たまには木曜の夜、三人でダンスに行くのも楽しそうです。10歳になった息子とHamboを踊れる日がくるのを夢見ています。

Skandinojeのウェブサイト:www.skandinoje.org

 

ダンスをやっている場所:Congregational Church of Bound Brook, 209 Church Street, Bound Brook, NJ 08805