ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2014 新しい家族

新しい家族

 

 八月の暑い夏の日、実家の犬が永眠しました。ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアの男の子、七歳でした。朝、いつものように父と散歩に出かけ、いつものように朝ごはんを食べました。お昼前に母が買い物に出かけるとき、玄関の前でそよそよと風に吹かれて寝ているなと思っていたら、買い物から戻っても同じ格好で寝ていたため声をかけて触ったら死んでいたそうです。あまりにも急なことでした。我が家では、私が五歳の時以来犬がいなかったことがありません。常に2匹以上の犬がいたため、たとえ一匹亡くなっても他の犬がいました。犬のいない生活にはうちの誰も慣れていません。私と子供たちは実際にはアパート暮らしなので、毎日犬と暮らしているわけではありませんが、それでも実家にいけば犬がいることが当たり前でした。年を取ると慣れない生活は応えます。父は犬がいなくなり、散歩仲間がいないため寂しそうですし、母はお茶のときに一緒にクッキーを食べてくれる仲間がいなくなりました。祖犬を失くした寂しさは、新しい犬を飼うことで癒されていくと聞いたことがあります。先週、実家に新しい仲間が増えました。

 名前はラッキー、柴犬とシュナウザーのミックス犬。すでに生後6ヶ月がすぎており、ペットショップでも隅の方に申し訳なさそうにいたそうです。私の弟がペットショップにかわいい犬をみにいったら、「この犬、どうかね? 安くするよ」と言われて見てみたら、一目ぼれ。翌日、ペットショップで肩身狭そうにいたラッキーが実家にやってきました。ラッキー、お世辞にも「うわあ、かわいい~」とキンキン声を上げるような美形からは程遠く、印象として裏庭に出てくる野生動物。毛は剛毛、体のわりに頭だか顔だかがでかく、やたらと耳がでかい。背中の毛の色は下地が茶色、上から白や黒をまぜて散らしたようにみえます。思わず、「顔なんていいよね、性格がかわいければいいもんね。」と言ってあげたくなるくらい。私たちを見るとちぎれんばかりに尻尾をふり、飛びついてきます。なんだか、久しぶりに天使にあったような気がします。

 私が5歳以来、うちにはいつも犬がいました。犬は家族の一員です。人と犬の関係は古くから始まります。一万年以上前からの付き合いだと聞きます。そうなるとDNAに組み込まれた遺伝子のように、犬は人を、人は犬を、お互いに家族として求め合うのも当たり前かもしれません。私が初めて家族として迎えた犬は雑種でした。迎えたというより、連れてきたというほうが正しいかもしれません。ある日、母と二人で家から少し離れたデパートに買い物に行きました。母の自転車に二人乗りしていきました。帰りに私たちに付いてくる犬がいました。茶色の犬でした。ずっとついてくるので、私が頭をなでてあげるとうれしそうにじっとしていました。私は当時5歳でした。そのときの記憶が今もはっきりとうかびます。当時はまだ野良犬や捨て犬がいました。この犬が飼い犬なのか、捨て犬なのかわかりませんでした。私はこの犬がかわいくて欲しくなりました。どういういきさつがあったのかは記憶にありませんが、この犬は我が家の子になりました。チコという名前をつけました。チコは雑種犬でした。とてもかしこい犬でした。私が小学校2年生のとき、近所の公園に段ボール箱に入った子犬が数匹置き去りにされていました。私と弟はその中の一匹が欲しくなりました。ダルメシアンみたいに白地に黒の水玉模様のオス犬。母に頼み込み、その犬をうちで飼うことにしました。名前はムク。そうして我が家には犬が2匹となりました。それから数年後、チコは亡くなりました。私たちが学校から帰ってくるとチコはおらず、ムクだけがさみしそうにひなたぼっこをしていました。その後、ムクをみつけた公園にはたびたび子犬が捨てられるようになりました。小学5年生のとき、公園にいくとまた犬が捨てられていました。白くてかわいい子犬が私をじっとみるので、私は思わず、その犬を抱きしめてそのままうちに連れて帰りました。母はあきれていました。こんなふうに我が家では次々に捨て犬を拾ってきては飼っていました。私が大人になるまで、うちにはいつも雑種犬が2匹いるのが普通になっていました。

 今では野良犬とか捨て犬はほとんど目にしませんが、野良猫は相変わらず増えています。私は時々考えるのですが、捨て犬や野良猫がいたらどうすることが一番いいことなのでしょうか。保健所に連絡すればその犬や猫たちは連れていかれ、いずれ殺処分になるのかもしれません。でも、無責任にえさをあげることが優しさとも思えません。そこで生きていられるということは野良猫や野良犬が繁殖していくのです。えさはあげない、ただそういう犬や猫を見て見ぬふりしていることがいいのかといえば、やはりそれもよくないと思います。お腹をすかせた野良猫はゴミをあさります。それも困ります。本来は犬や猫を飼うとき、人は責任持って飼うべきだと思うのです。避妊手術を受けさせておくのも大事です。子犬や子猫が生まれてしまってから「どうしよう」と悩み、無責任に「心優しい人にかわいがってもらいな」と放置してしまうのは最も困ったことです。うちの周りにたくさんの野良猫がいます。私たちの部屋は1階です。夜になるとベランダに猫がやってくるのです。寒い冬の夜はエアコンの室外機の上で寝ているようです。とても迷惑なのです。布団を干すベランダの手すりをよじ登ってくるためか、足跡をつけていくし、エアコンのホースに爪をかけるからボロボロになってしまうし、時々は朝窓を開けると獣くさいのです。このアパートはペット禁止です。そうでなければ私だって犬をうちで飼いたいです。それは許されないのに、野良猫がベランダに入り込むなんて不愉快です。どうしてこのあたりにこんなに野良猫が増えたかといえば、アパートに住んでいるおばあさんが毎朝、餌をあげたり、冬になるとうちのベランダの下に段ボールを敷いて寝床をつくってあげるのです。おばあさんにしてみれば、かわいそうなお腹をすかせた猫に餌をあげているだけなのかもしれませんが、そういうことをするからこの近辺に猫たちは居つき、揚句に子供を産んでしまうのです。その繰り返しです。おばあさんが餌をあげることで、猫たちはここに居つきうちのベランダに上がるようになるのです。どうして私が野良猫に居場所を提供させられるのか、と不快に思います。

 ペットを飼うということはその命に責任を持つということではないでしょうか。私は犬が大好きです。大好きだからこそ、私は犬にしつけをします。それは家族として一緒に暮らすにあたって、家族のルールを守れないと困ります。犬はもともと狼が祖先で、群れの中で生きてきた動物です。群れでは縦割り社会、ボスを筆頭に上下関係が存在します。だから、犬はペットとなり人間と暮らすようになっても、そこの家族のなかでの自分の位置づけを見出そうとします。犬にコマンドすることは決して人が犬を下に見下す行為ではなく、人がリーダーとして犬に家庭での生活ルールを教え、守らせることにあると思います。どんなにかわいい犬でも、犬は犬です。そこをわきまえないと、犬はリーダーを失いどんどん傲慢になり、最終的には一緒に暮らせないようになってしまいます。かつて私がニュージャージーで飼っていた犬のMOMOは生後半年くらいから私と一緒に訓練に通いました。MOMOには手の動きと声の両方でコマンドをしました。日本に一緒に戻ってきたとき、MOMOは10歳。それからMOMOは耳も遠くなり、老化してきました。それでもMOMOは私の手の動きを見てコマンドを理解し、日本に来てからも家族の中で自分の位置をしっかり見極めていました。

 新しく家族になったラッキーはとてもかしこく、私が数回教えたコマンドをしっかり覚えました。私は日本に戻ってから、実家の中で自分の場をみつけられずに今まできました。一度家を出たのですから当たり前です。実家からそんなに遠くないこのアパートに住み時々実家に行くものの、なかなか居心地のよさを感じられず用事がすむとさっさと帰ってきていました。ラッキーが来てから、私がラッキーのしつけを始めました。やっと、私は実家に少し長居もできるようになりました。以前は用事がなければ実家には行こうともしませんでした。ラッキーが私の位置づけをしてくれた気がします。犬は人の心を癒してくれます。遠い昔から付き合ってきた人と犬。ちょっとブサイクだけど愛嬌いっぱいのラッキーによって、私は実家に自分の居場所を少しみつけることができた気がします。