ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2016 祖母と彼岸花

祖母と彼岸花

 

 今日仕事を半日で早退しました。さぼりではなく、今日は午後から障害者自立支援協議会のミーティングがあったのです。私、今年から二年間の任期で協議会の委員を勤めております。ミーティングまで少し時間があったので川べりの道を散歩することにしました。すると、春は河津桜で有名なこの川べりの道にたくさんの人たちが歩いていました。台風が去り、さわやかな秋晴れに人々は散歩に出てきたのかな、と思いながら土手をおりていくと、なんと、彼岸花が土手を真っ赤に染めていました。あまりの華やかさに思わず見入りました。川向こうには私の通っていた高校がみえます。私は彼岸花の艶やかな赤を目にすると、子供の頃、祖母がこの真っ赤な花を忌み嫌っていたことを思い出しました。彼岸花はなんだか不気味さもあり、妖艶な花ではないでしょうか。

 みなさんは彼岸花をなんと呼びますか。彼岸花はお彼岸のころに咲くことから彼岸花と呼ばれていますが、たくさんの呼び名を持っている不思議な花です。よく聞くところでは「曼珠紗華(まんじゅしゃげ)」というのは仏教の経典からきているそうです。サンスクリット語の「天界に咲く花」という意味だそうで、おめでたいことが起きる兆しに天から赤い花が降ってくるといわれているそうです。私は子供の頃、誰が教えてくれたのか記憶にはないものの、「死人花(しびとばな)」と呼んでいました。おそらく祖母が忌み嫌っていたため、家族の誰かがそう呼んでいたのではないかと思われます。私は真っ赤な花が大好きです。クリスマスの時期になると真っ赤なポインセチアが大好きです。南国を想わせる真っ赤なハイビスカスも好きですし、チューリップも赤が一番好きです。でも、この彼岸花の赤にはなんだか近寄りがたい妖艶さを感じます。簡単に「好き」と言ってはいけないようなオーラすら感じます。

 子供の頃、こんなことがありました。毎年、秋分の日は祖母の家に親戚が集まりました。そしてみんなでお墓参りに行きました。私は年の近いいとこが数人いました。秋分のお墓参りの際、いとこの中の誰かが「彼岸花って花火みたいだよ」と言い出しました。お墓は山を背に、水の高さが子供の足首にも満たないくらいの小さな川が流れる自然の中にありました。お寺があり、その裏山にお墓があるような感じでした。当然のように彼岸花はいたるところに咲いていました。大人たちがお参りをしている間、私たちはお墓の横を流れる小さな川に裸足ではいり、パシャパシャと遊んでいました。川のわきに群生していた彼岸花を「花火」と呼び、みんなで花火を取っていました。彼岸花には葉っぱがありません。茎と花だけです。その花も外側に開いているような咲き方で、それはまるで勢いのよい花火のようにみえたのです。茎の根元を握り、花を下に向けて持つと、子供の私たちには「花の花火」にしかみえませんでした。みんなそれぞれに彼岸花を下向きにぎゅっと握りながら、目に付く限りの彼岸花を取り続けていました。

「おばあちゃん、怒るかなあ」と一人が言いました。祖母は彼岸花を忌み嫌い、孫たちの誰彼かまわず「あんな赤い花はろくな花じゃない」と言っていましたから、私たち孫はみんな「おばあちゃんと彼岸花」の関係を知っていました。なんだか、「花の花火」を摘むという感覚だけでなく、なんだか血なまぐさいような、魂がこめられているような、なにか人の抜け殻みたいなものが込められているような不気味な花を摘んでいるような感じでした。

「おーい、そろそろ帰るぞー」と大人の声が聞こえました。私たちは彼岸花の花束を抱えると走って大人たちのところにもどりました。彼岸花は切ったらすぐにしおれてしまうので威勢のいい花の花火をみせようと走りました。「おばあちゃーん!花火だよー!」私とひとつ年下の従弟はいたずらいっぱいの笑いをこめて、祖母に彼岸花を持っていきました。祖母は怖い顔で「縁起でもない。お墓でこんな花を摘んでくるなんて。早くなんとかしてくれないかい。その辺に捨てておくんじゃないよ。縁起でもない」と低い声で私たちをにらみました。いとこと私は、おばあちゃんに怒鳴られるのは平気だけど、低いことでつぶやかれるのは苦手でした。「雑草だから誰も怒らんとは思うけど、あんまり気持ちのいい花じゃないな」と叔父が私たちが摘んできた花の花火を、枯れた供花を捨てるところに捨ててきてくれました。枯れた供花は茶色の中にわずかに元の花の色を残している程度で、そのてっぺんに真っ赤な彼岸花が束で乗っかっていました。その光景は少々異様でもありました。

その出来事があったあとも、私たちは彼岸花を「花火」と呼び、摘んだら花を下向きにして、燃えない生の花火を楽しみました。おとなしくおしべとめしべが花びらに包まれている花とは異なり、おしべもめしべも花びらが飛び出し、ただ、花の花火で遊んだあと、彼岸花はなにか重いものを感じ、捨てるのではなくお弔いするような気持ちで土をかぶせて埋けるようにしていました。この花はやはりなにか不思議なルールというか天命があるように感じます。6という数字のもとの命も咲かせているようで、ひとつの茎には6つの蕾ができます。開花すると6枚のはなびら、6つのおしべ、1つのめしべで花は構成されています。なにか遺伝子に組み込まれた不思議さを感じるのです。人によっては彼岸花をみると、「この妖艶さに魅了される」、「癒される」、「ふるさとを思い出し懐かしくなる」とポジティブな感情を抱くのでしょうが、わが家族の中では不気味な花でしかありません。それゆえ、なぜか怖いもの見たさからお彼岸の頃になると、あの赤い妖艶な花火の花に視線がいってしまうのです。

川沿いの彼岸花は私に忘れていた子供の頃の思い出をよびおこしてくれました。彼岸花を忌み嫌っていた祖母を思い出せてくれる皮肉さ、やはり彼岸花はただものではありません。真っ赤な彼岸花の土手を離れ、自立支援協議会のミーティング会場に向かいました。そこはかつての繁華街のなかにありました。私が子供の頃、栄えていた通称「街」、かつての賑わいはなく当時4つのデパートがひしめいていたのに今はたった一つの小さなショッピングスーパーがひっそりと建っているだけとなりました。市の反対側にショッピングモールができると、人々はそちらに行くようになり、モール周辺の地区は栄え、「街」はどんどん廃れていったようです。靴屋さん、本屋さん、喫茶店、小さなお店はどこもシャッターを下ろし、残っているのは旅行会社、不動産屋、銀行、そして老舗の和菓子店くらいとなりました。「街」にはたくさんの人がいました。私が子供の頃、「街」に出かけるのは特別なことでした。祖母は買い物とお出かけが好きでした。祖母がうちに来ると、祖母は私を街に連れて行ってくれました。「なんかおいしいもの食べまい(三河弁で、食べよう、という意味)」「ほしいものあれば買いん(買いなさい)」、祖母は街に行くと私をレストランに連れていき、ほしいものを買ってくれました。通りを車でゆっくり通り抜けると祖母と歩いていた日がよみがえります。祖母にとって私は初孫でしたので、特にかわいがってくれました。子供の頃は祖母が私の手をひいて街を歩いたのに、いつの頃からか私が祖母の手をひいて歩くようになりました。「おばあちゃん、なんかおしいもの食べに行こうか」「おばあちゃん、なにか買いたいんだけど、おばあちゃんは今なにがほしい?」そう言ってデパートに出かけたのがもう三十年以上も昔のこととなりました。

時間は不思議なものです。時と共に変わっていくもの、時が流れても変わらないものがあります。人は無邪気な子供から大人になり、そして年を取り、わが子や孫の世話になるようになっていきます。私は祖母が大好きでした。祖母は初孫の私をかわいがってくれました。祖母は年をとっていき、私は大人になりました。自閉症の息子を連れて日本にもどり、途方に暮れていたのが6年前のこと。今、私は自閉症の息子を抱えながらも、障害者を支援する自立支援協議会の委員になり、支援されるだけでなく、する側にも立てるようになりました。彼岸花は、私が子供の頃も今も、1本の茎からは6つの蕾ができ、開花すると6つの花びらと6つのおしべと1つのめしべで構成されます。彼岸花は毎年お彼岸の時期に咲きます。彼岸花、子供の頃は「花の花火」に見えていたのが、ここ数年は咲き誇る真っ赤な花の存在すら忘れていました。川沿いの彼岸花は来年も咲くでしょう。そして、再来年も、私がおばあさんになっても、ずっと変わらず咲くのでしょう、この時期に。私はおばあちゃんになったとき、彼岸花をどう思うのでしょう。