ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2010 芝刈り

芝刈り

 

 若葉の季節、お出かけが楽しい時期ですね。しかし、私はこの時期、花粉症で大変苦しみます。この時期だけでなく秋もそうなので、花粉なのか木の芽なのかそれとも草のせいなのか一体なにが原因なのかはよくわからないのですが、とにかくクシャミ、鼻水、発疹と最悪な状態になります。時々は熱まで出ることもあります。子供の頃はなかったのですが、二十歳を過ぎた頃から徐々に出始め、アメリカに来たらなくなると思っていたところ、期待はみごとに敗れました。聞いた話では、長くその地にいると、そこにあるアレルギーを起こす物質(花粉など)が体内に蓄積され、それでアレルギー反応を起こすようになるらしいのですが、それが本当なら、私の花粉症を起こすものは日本とアメリカに共通するものに違いありません。杉や稲ではないことは確かなので、草か花に関係するように思えます。私の花粉症は雨にも打たれ強いので、お天気に関係なく春と秋は毎日グジュグジュの顔をしております。

 しかしながら、私はこの時期から初夏にかけて大変好きなものがあるのです。それは、芝刈りをした翌朝の香りです。青くさい草のいい香りがするのです。朝、窓を開けると少し冷たい空気にのって漂う香りに私はかつて住んでいたタイの農村での生活を思い出すのです。20代半ば、私はタイの北部の小さな村に住んでいました。観光地で有名なチェンライやチェンマイよりももっと北の、タイ、ラオスミャンマーが隣接するゴールデントライアングルから車で約1時間半南におりた小さな小さな農村です。そこに日本人が経営する農場があり、私はその農場内に住んでおりました。キングコブラの宝庫と呼ばれたその地には見渡す限りなにもなく、夕方あぜ道を歩けば三角の頭をつきたてたキングコブラと出会ってしまうというとんでもなく田舎でした。そこで私は農業をしていたわけではなく、農場でのプロジェクトのひとつで村の女性に縫製技術を教えるという仕事を管理していたのです。そうです、「管理」です。私は縫製は大の苦手なので教える技術はありません。テレビもなく、娯楽らしいものは何もなく、楽しみといえば夕方、タイ人の友達と雑談することくらいでした。着いた当初はあまりの原始的な生活に根をあげ、「週末には日本に帰ろう」と毎日のように思っていました。ところがそんな私を田舎生活のとりこにしてしまうあることが訪れたのです。朝、部屋の窓を開けたら清々しい草の香りが立ち込めてきました。それはまるで、アルプスの少女ハイジが山頂で深呼吸するように、今までに吸い込んだことのないくらい新鮮な空気が私の体内に流れこんできました。田舎に行くと空気がおいしいとかよく聞きますが、私はそれがどういうものなのかよくわかりませんでした。子供の頃は「おいしいといえば炊きたてご飯」と思っていたので、いくら空気のきれいなところで深呼吸したところで「おいしい空気」つまり、炊きたてご飯の味の空気などは味わえませんでした。でも、このとき生まれてはじめて「空気がおいしい」という意味を体で感じました。外を見ると、いつもと同じどこまでも続く草原。昨日刈られた草が所々に落ちていました。青くさい草の香り、私は大嫌いだった原始的生活に魅力を感じるようになりました。

 翌年、タイの首都バンコクに越し、それからカンボジアに渡り、日本に戻り、そしてアメリカ、ニュージャージー州へと移り住んで参りました。農村を出て以来、あの草の香りはすっかり忘れたものとなっておりました。あれから5年が過ぎていました。渡米した翌年のこの時期、当時住んでいた家の友達が「あーあ、また芝刈りの季節がきたなあ」とぼやきながら庭の芝刈りをしていました。翌朝、部屋の窓をあけたら、タイの農村で嗅いだあの青くさい草の香りがしてきました。私がクシャミをしながら、ティッシュで鼻を拭きながら、窓から外をみていると、友達が「窓閉めたら?風が入るからクシャミが出るんでしょう」と不思議そうに言いました。彼は芝刈りを面倒くさそうにやっていましたが、私にとっては芝刈り機の音は翌朝のお楽しみを告げる音で、その翌朝は必ず早起きをしておりました。そこで私が興味を持ったのは芝刈り機。「あれを使いこなしたい」という願いは日に日に強くなりました。夏の終わりに、「ねえ、私が芝刈りしてあげるよ。その芝刈り機の使い方教えて」と言ったところ、すぐに願いは却下されました。「いいんだ、君には大変すぎるから」と丁寧に。でも、落ち葉かきも雪かきもかなりの重労働だけどちゃんとできるのになぜに芝刈り機はだめなんだろう、と考えました。いまだにその理由はなぞのままなのですが、思いつくことはひとつ、ふたつ。その夏、彼が1週間バケーションに出たとき、私はひとりで留守番をしておりました。観葉植物の多い家で、それらの植物がなぜだかみんなひょろひょろと背が高く、ムーミンに出てくるニョロニョロがいっぱいいるように思えていました。決してがっしりと栄養いっぱいに育っているようには見受けられませんでした。そこで私は植物には日光が必要なんだと思い、お天気のいい日に家中の植物を外に並べてあげました。お水をたっぷりとかけてあげました。朝日を浴び、植物が喜んでいるように思えました。そして、夕方になり、「さあ、みんな、おうちに帰る時間よ」とお迎えにでたところ、大半はヘニョッとしおれておりました。そして、彼が帰ってきたときには、3分の2の観葉植物はお亡くなりになっておりました。彼は怒らない人なので叱られませんでしたが、大変落胆している様子がはっきりみえました。以来、なぜだか彼は私に庭の手入れも植物の手入れも「しなくていいよ」と優しく断ってくれるようになりました。それが理由でしょうか。それとも、ある日、私が庭の片隅でみつけた薬味に使うワケギのような草を「うわあ、うちには自然のネギがいっぱいあるじゃん。今夜の味噌汁に入れちゃおう」と束にして取りました。喜んでキッチンに持ち帰ったところ、彼はそれをみて「ぎゃ!それはオニオングラスだ。雑草だよ。ぼくは食べたくない。いや、絶対食べない。君は。。。食べても死なないとは思うけど、とにかく早く外に捨ててきてくれないかなあ」と、とても怪訝な目で見られました。以来、彼は私に庭の草取りでさえやらせてくれません。それでしょうか。

 それから6年後。結婚してから初めの1年半くらいはアパート住まいでしたので、芝刈りは知らない間に業者がきてやってくれておりました。芝刈り機を操縦するチャンスは訪れることはなかったものの、タイの農村を思い起こさせてくれる香りだけは変わらず楽しんでまいりました。5年前、今の家に越してきました。裏庭があるのですが、猫の額ほどの狭い庭なので私が芝刈りをやっても大丈夫かなと思いました。ところが、この付近にはすごい男がいるのです。この人、恐ろしく嘘つきなのです。いきなり、うちの裏庭で芝刈りをしていたのです。仕事から帰ってきたら知らない男がうちの裏庭で芝刈りしてるからびっくりして、「なにしてるんですか?」と聞きました。そしたら、すました顔で、「芝刈りさ」と。急いで主人に電話をすると、主人も心当たりがないというのです。しばらくして主人が帰ってきました。それをどこかでみていたかのように、あの男が玄関のベルを鳴らしました。主人に「君の家の裏庭の芝刈りをしておいたから」とお金を請求したのです。「頼んでないだろ」といったら、「いや、この間道で会ったときに頼んだじゃないか」と言い張るらしいのです。どうやら、この男が道で声をかけてきて「いつでも裏庭の芝刈りしてあげるから」と言ってきたから主人はどこの誰ともわからぬ相手なので、「ああ、そのときは頼むよ」とだけ答えたらしいのです。それが契約?だったらしいのです。主人が「必要なときは頼むから勝手に芝刈りして請求しないでくれ」と言ったら、そのときは「わかった」と言いました。ところが、それから2週間後、家に帰るとまた裏庭がきれいに芝刈りされているのです。そうです、あの男が勝手にきて芝刈りしていったのです。懲りない男でして、いくら私が「あなた、うちの主人に頼まれてやってるの?」と聞いても、すました顔で「彼が頼んできたから刈ってるのさ」というのですが、主人は一度も頼んだことがないらしいのです。そして、毎回請求してきて、主人は払ってしまう。。。その繰り返しです。最近はもっとすごくなり、私が家にいるのにやってきて芝刈りを始め、私には「今朝、君のだんなから頼まれた」といい、主人には「君の奥さんが芝刈りをしてもいいと許可をくれたからやったわけだから払ってくれ」というのです。この男はうちだけでなく近所の人のところへも同じことをしているらしいので、この時期になると、男が芝刈り機をひいて道を歩く姿がこのあたりの風物詩のようになっているのです。そして、私たちも勝手に芝刈りされることになれてきつつあるのです。自分の家なのに芝刈りができない、という悔しさは残りますが、やはり芝刈りをした翌朝の香りはいいものです。こればかりは人が作り出せるものでもなく、猫の額ほどの裏庭に潜む小さな自然を感じるのです。

私は基本的に過去はあまり思い出さないようにしてるのですが、こうして季節の香りと共によみがえってくる思い出は格別な思いがします。頭では思い出そうとしなくても、五感によって体が思い出すのです。きっと、私はこれからもずっとこの芝刈りをした翌朝の香りが好きだと思います。いつかどこか別の場所で住むようになったら、私はまたこの時期のこの香りで何を思うのでしょう。タイの農村を思い出すのでしょうか。それとも、ここでの風物詩となった芝刈り男を思うのでしょうか。そして、私にはいつになったら芝刈りに挑戦できるチャンスは訪れるのでしょうか。

ENJOY 2010 こぐま教室

こぐま教室

 

 4月になると日本では新しい年度が始まりますね。日本人としてアメリカにいると、子供をどの幼稚園・学校に通わせることがいいのか悩みますよね。日系がいいのか、それとも現地校がいいのか。そして学校を選ぶときも自由なところがいいのか、規律正しいところがいいのか。遊びを重視するところか、勉強を重視するところか。うちの場合、まずは日系の保育園から始めて、日系プラス現地の保育園、それから小学校は現地校、と考えております。日系の保育園といってもやはりいくつかあり、どこがいいのか悩みます。うちは息子が2歳のときからこぐま教室にお世話になっております。娘にいたっては1歳3ヶ月から通い始めました。私にとってこぐま教室は子育てをするうえで大きな存在なのです。私もママ友ができましたし、なによりも子供たちが喜んで通っていることが一番です。

 息子が2歳のとき、発達の遅れに気がつき、セラピーを始めました。その時点では「広汎性発達障害」という診断名はありませんでしたが、2歳になっても言葉が出ず、ほかの2歳児と比べると遅れていることは顕著でした。その頃、知人に「宣伝とか出してないので聞いたことないかもしれないけど」と、こぐま教室のことを聞きました。その後、何人かに同じように「口コミで広まっているけど宣伝出してないから知らないかもしれないけど」という前置きでこぐま教室のことを聞きました。宣伝出してないから、といわれても実際には多くの日本人が知っていたわけです。見学にうかがった際に、「言葉も遅れているし、ほかのこともやはり遅れていると思うのです」と息子の事を説明しました。この時点で入園を拒否されるのではと覚悟していたのですが、普通に「子供の発達は個人差ありますからね」と言われ、肩の力がすっとぬけたのを覚えています。以来、こぐま教室を経営なさっている大熊先生はじめ、先生方みなさんが息子を普通に受け入れてくださり、現地校のセラピストとも連絡を取り合ってくださいました。私は息子が発達障害と診断されてから自分なりにその障害について勉強してきましたが、それをセラピストやスペシャリスト以外の人には語ろうとは思いませんでした。親でさえ理解しがたい受け入れがたいことを、他人がわかってくれるとは思っていませんでした。ところが、大熊先生に「障害児についてどうお考えですか」とうかがったところ、「障害という言葉は好きではありません。発達に幅があると考えます」と仰いました。この言葉には脱帽しました。発達に幅がある、実際その通りなのです。うちの息子をみていても、秀でていることに関しては同じ年齢の子よりもはるかにできるのですが、別の面ではかなりの遅れがあります。数字で表現するならば、健常児が0から100の範囲のなかの40-70で収まるとすれば、うちの息子の場合、得意なことは100を越すし、苦手なことは10とか20とかで、大熊先生の仰るとおり、幅が大きいのです。これは息子のセラピストにも同じ事を言われました。「いろいろな子供たちがいることでそれぞれが相手の立場になって考えることができるようになったり、相手のよいところを認めることができるようになるのです。どの子も一緒に大きく育って欲しいと願っています」とのこと。健常児だけの日系保育園、幼稚園はたくさんあると思います。でも、障害児と健常児という枠をとりはらって保育してくださるところはそんなにたくさんあるとは思いません。

 息子がとても楽しそうに通っているし、娘も1歳半になったらお願いしようと思っていたのですが、わが娘、誰に似たのかものすごく手のかかる子でして、1歳を過ぎた頃から私は育児ノイローゼになりそうな状態に陥りました。このままだと私も娘も共倒れになる、と思い、大熊先生に「娘が1歳3ヶ月なんですけど、お願いできますか」とうかがったところ、快く受け入れてくださいました。娘もすぐにこぐま教室が大好きになりました。家では食べないものでも、給食だとみんなと一緒に食べていたり、家ではわがままし放題なのに、教室だと先生やお友達のすることをみては真似していたり、娘は娘なりに「社会」というものを学んだようです。

 こぐま教室のよさはたくさんあるのですが、そのなかでも私は行事の多さに感心しました。アメリカで生まれ育ったわが子たちに日本の行事を教えるのは容易ではありません。たとえば、お雛様。うちでは小さなお雛様を飾っても親戚の家ではどこにもありません。鯉のぼりもそうです。鯉のぼりを上げている家なんて近所にはどこにはありません。2歳や3歳の子供に「お雛様とは」「鯉のぼりとは」「夏祭りとは」などと語ったところで理解しがたいもので、この年齢はやはりビジュアルで教えていくほうがいいのです。言葉も文化のひとつを考えますが、こういった季節の行事をみんなで見て、体験することは伝統文化を知るためには大切なことです。季節の行事以外にも遠足があったり、たくさんの社会学習があります。その中のひとつで「お店屋さんごっこ」は私のもっとも印象に残ったものです。紙や牛乳パックなどの廃品で作ったお寿司やハンバーガー、お花などが並べられ、子供たちがお店の店員になっているのです。そして、ママやパパたちが紙のお金でそれらの商品を買い物するのです。私は感動しました。いつまでも赤ちゃんだと思っていたわが娘が前掛けをして、頭には三角巾をつけ、お寿司屋さんの店先に座っていました。「まあちゃんが仕事してる」、保育園の行事なんてことはすっとび、娘が社会で働いているようで、ただただわが娘の成長ぶりに涙が出そうでした。私の姿をみると娘は恥ずかしげにニヤリと笑い、目の前にあったお寿司のパックを開けてしまいそうになりました。私の一番の買い物はその、お寿司パックでした。娘が大きくなってアルバイトするようになったら、私はきっとそのお店に行って買い物しまくるんだろうなあ、と自分と娘の将来を垣間見たような気がしました。

 このように、こぐま教室は一人ひとりの子供が輝いていられるように、先生方が見てくださっているように思います。発達障害の息子、内弁慶の娘、二人ともがこぐま教室が大好きで、そこで家族以外の人たちと触れ合う社会への一歩を学んだようです。大熊先生は「子供が主役」と考えていらっしゃるそうで、それは私が教師をしていたときに心がけていたことと同じです。大熊先生曰く、「乳幼児が生涯にわたる人間形成を培う時期に保育に携わるわけなので、一人ひとりに対して愛情を持って接し、保護者との連携を大切にします。心と体のバランスのとれた発達をはかると共に、自分を大切にする心、人を思いやる心を育て、未来を作り出す力の基礎を培うということを大事に考えます。限りない可能性を秘めた子供たちの能力を最大限に発揮できるよう、全力で保育に当たります。子供のよりよい成長には子供を中心に、保護者と園がいつも話し合い、協力しあう関係であるべきだと思います。」これも私は同感で、私は息子が現在通っているプリスクールにかなり頻繁に顔を出します。セラピーも受けているので、懇談会、クラス訪問、セラピー訪問と月に3回くらいは学校に行っては先生たちと話し合っています。家庭と学校は常に連携しているべきだと、私も思うのです。だから、いくらいい学校だ、いい幼稚園だといわれていたとしてもその園や学校の方針と家庭の方針が食い違っていたり、担任の先生といいコミュニケーションがとれなければ子供が混乱してしまうと思うのです。

 親はみんな子供のためにベストなことをしてあげたいと願うものです。それゆえ、学校や幼稚園、保育園を選ぶ際、情報を元にそこがわが子にあっているのかどうか大変悩むのです。私は結果的に、わが子ふたりをこぐま教室に通わせてよかったと思います。社会への第一歩として、他人との接し方を学び、そこから社会における基本的なルール(してもいいこと、いけないこと)も覚えたように思います。私は幼稚園時代、幼稚園が大嫌いでした。いつも「しなければならない」ことばかりで、元々左利きだったのも右利きに矯正され、3歳にしてすでに学校教育に入っていたようで窮屈でした。幸い、うちの二人は大の学校好き。これもきっと、こぐま教室で「楽しい場」を体験したからでしょう。こぐま教室に興味のある方はまずは体験入園をしてみてはいかがでしょうか。給食もおいしいし、楽しいですよ。

連絡先:こぐま教室 (大熊先生) (201)

ENJOY 2010 たくさんのありがとうをこめて

たくさんのありがとうをこめて

 

早いもので、私がアメリカに来たのが1997年8月10日、あれから12年4ヶ月が経ちました。来た当初は、異国の地、異国の文化に戸惑いながらも感動することも多かったのですが、それも時の流れと共によくも悪くも「当たり前」になってきました。この12年間、たくさんの「すごい」がありました。今回はその「すごい」のいくつかを書き出してみたいと思います。

 

 私は日本にいるとき、冬が大嫌いでした。私の育った街は、冬といえども氷点下になることは滅多になく、雪は降るものの積もることはまずありません。ニュージャージーに来た初めての冬、感動しました。何に感動したかというと、外はとても寒いのに、家中があったかということ。冬なのに家の中ではTシャツで過ごせるというのはやはり「すごい」と思いました。実家では部屋ごとに暖房つけてあっても廊下は寒いし、トイレも寒く、冬の一番風呂は嫌でした。ニュージャージーの凍てつく冬の中、帰宅してジャケットを脱ぐと「ああ、極楽」という気分になります。そして、雪が降り出すとあっという間に積もるのも「すごい」と思いました。降り出したらすぐに家に帰らないと、雪で足止めされてしまいます。家の中で暖かいホットチョコレートを飲みながら雪がドンドン降り積もるのを見るのが大好きでした。そして、夜中にシンシンと音を立て雪が積もっていくのを聞くのも好きでした。

ある朝、外に出ると昨日まで雪が積もっていた木の枝が氷に覆われてまさに「氷の木」になっていました。雪が溶けかけたものの、気温がまだ低かったため凍ったのでしょう。キラキラ光る氷の木は子供の頃読んだ絵本に出てきそうなくらいに美しかったです。

美しいといえばもうひとつ。私は雪の結晶というのは現実にはありえない北欧の国の物語か、そうでなければ雪印という会社が作ったマークだと思っていました。家の中から降り積もる雪を見ていたら、またも「すごい」がありました。窓に雪の結晶がくっついていたのです。そう、雪印のマークのような、絵本でみた雪の絵のような、はっきりくっきりとしたきれいな雪の結晶が私の目の前の窓にはりついていたのです。こんなにきれいなものをみてしまうと、冬という季節は魅力的になります。

そんなわけでニュージャージーに来てから、私は冬が好きになりました。雪のため学校が休みになるとうれしかったし、愛犬MOMOと雪の中を走り回るのも楽しかったし、みんなは嫌がるようだけど、私は雪かきが大好きでした。

夏はどこにいても私の好きな季節ですが、冬はやはりニュージャージーの冬がいいです。「ああ、寒くてどこにも行けないし、早く春にならないかなあ」と口では言っていましたが、はい、私うそをついておりました。本当はここの冬が好きでした。

 

  • 高速道路

私は昔から夜は家で過ごしてまいりました。なので夜間運転はほとんどしたことがありません。日本にいた頃、たまに夜運転したこともありましたが、日本の道路は夜でも街灯がついていてとても明るかったのを覚えています。でも、こちらでは高速道路といえども夜、灯りのないところが大半で暗いのです。たしかに車のライトで前は見えますが、はっきりいって見通しが悪い。初めてニュージャージーの高速道路を夜間運転したとき、私は自分の視力が落ちたのかと思いました。よく目を凝らしていないと周りがしっかり見えないのです。あるとき、友達にそのことを話したら、「視力の問題じゃなく、こっちの道は高速だろうと夜は暗いからみえないんだよ」と言われ、納得しました。そんな道でも暴走する人はいるのです。これも「すごい」と思いました。

私の覚えている限りでは日本の高速道路には大きな穴とか運転を混乱させるようなナゾの車線とかはありえなかったはずです。でも、私はここで何度も怖い思いをしました。工事で車線を絞る際、今までの車線を消して新しく車線を書くわけです。新しい車線を引いても古い車線をちゃんと消してくれないから、車線に沿って走っていたつもりが、いきなり目の前で車線がクロスしていて一体私はどの線に沿って走ればいいのかわからなくなることがありました。時速100キロというスピードで走っているんだから、こんな怖いことしないでおくれよ、と願いました。

あるときは、高速を走っていたらいきなり道の真ん中に大きな穴があり、急なので避けることもできずドボンと音をたててはまりながら通り抜けました。すごい振動でした。鞭打ちになるかと思うくらいにガクンときました。高速を出てすぐの信号で止まっていたら、隣に止まった車の人が私のタイヤを指差して何か叫んでいました。なんだろう、と思い、窓を開けると「タイヤ、パンクしてるよ」と言われました。幸い、うちの近くだったので、知り合いのメカニックに向かいました。メカニックでは「一体なにをしたんだい?!」と驚かれました。ただのパンクではないと。タイヤの芯の部分まで破損しているとのこと。メカニックはどうやら私の運転を疑ったようだけど、そうじゃない。「タイヤが破損するような穴を高速道路に放置しておいていいのかい?」私は相手もなくそう問いかけたかった。 みんな、あの穴にはまらなかったのでしょうか。そして誰も、得意の「訴えてやる!」をしなかったのでしょうか。

 

  • 障害児ファミリーへのサポート

以前書いたこともありますが、私の息子には発達障害があります。息子が2歳のとき、言葉が遅いのと手に感覚過敏があるので「なにか違う」と感じ、検査を受けました。その時点ではドクターによる検査でないため診断名が出ませんでしたが、「発達に遅れあり」ということで2週間後から療育が始まりました。うちに2人のセラピストが来てくれることになりました。対応の早さに私が戸惑いました。気持ちの上でまだわが子を「遅れのある子」として受け入れることもできず、始まる療育に敵視すらしてしまいました。息子もいきなり自宅に知らない人がきて「さあ、遊ぼう」と言われ、逃げ回りました。戸惑う私たち親子を受け止めてくれたのはセラピストでした。戸惑いながら疑惑の目でいる私の話に耳を傾け、逃げる息子を追うわけでもなく、根気よく待っていてくれて、彼女たちがうちに来てくれるようになって1ヵ月後には、私たち親子にとってなくてはならない人たちになっていました。彼女たちと話しているうちに、「発達障害」というものが恐ろしいものではないと思えるようになりました。その後、ドクターの診察で「広汎性発達障害」と診断されました。いくら覚悟していたとはいえ、診断名がおりると滅入ります。それまで「もしかすると単なる遅れかもしれない。すぐに人並みに追いつくかもしれない」と自分に言い聞かせることもできたものの、診断がでてしまうと希望の灯が吹き消されたような思いでした。セラピストにそのことを話したら、「診断名はそんなに気にすることないと思う。だって、ゆうちゃんは昨日も今日も明日もゆうちゃんだよ。ゆうちゃんはできないんじゃないの、ただ人より少し時間がかかり、人より少し助けが必要なだけ。それでどうして希望をなくしちゃうの?」と言われ、はっとしました。母親の私がそんなこと言っていたらダメだと。その時からです、私が息子と一緒に歩こうと思ったのは。あれから2年がたちました。今4歳になった息子はプリスクールに通っています。言葉も遅れてはいるものの、バイリンガルで、朝から晩までうるさくしゃべっています。特に怒ったときはものすごい口達者です。感覚過敏はほとんどなくなりました。学校でも療育を受けています。学校で習った歌やフレーズを家でも話して歌ってくれます。息子は学校が大好きです。これは大きな財産です。この国は療育に関して進んでいるとは聞いています。私がその意味を理解できたのはつい最近です。たしかに療育開始もあっという間で、2歳児のときは自宅にセラピストが来てくれて、その回数も日本に比べるとはるかに多い。それは目に見えることとしてわかっていました。でも、本当の意味はそれだけでなく、障害児とその家族のケアです。息子は療育をとても楽しみ、スクールバスをみると「イエーイ」とはりきって学校に出かけていきます。学ぶことを楽しみ、喜んでいるのです。そうなると伸びも早く、1年ごとに大きな成長がみえます。そして、「わが子は障害児」と滅入っていた私を受け入れ、自然に子供の横を歩けるように導いてくれました。だから、私はこうして普通に「うちの子、発達障害あってね」と話せるのです。「あなたにはカウンセリングが必要です」といわれて、そのための時間を費やしたわけではなく、セラピストと話しているうちに私が自らの心をしっかり持てるようになっていたのです。こういった心のケアには「すごい」と思いました。それが普通に行われていたことにもビックリでした。障害を持った子だけでなく、その家族へのサポート、いやいや、本当に「すごい」です。

 

この「ニュージャージー便り」を初めて書かせていただいたのが2008年9月号です。あれから1年3ヶ月、私はあらためてニュージャージー州、そこに住むということを見つめなおすことができました。ENJOYを通して私はたくさんの出会いがありました。ずっとずっとこうしてみなさんと共にニュージャージーを語りたいと願ってまいりました。この夏以降入院が続き、抗がん剤治療もきつく、来年の春にはまた手術が控えております。こういった状況の中、子供たちもまだ小さく手がかかるし、体が悲鳴をあげるようになって参りました。走り抜けてきた人生、もしかして今はお休みのときかもしれないと感じるようになりました。大変残念なのですが、今月号を最後に病気療養に専念したいと思います。しばらくは隠居生活を送りますが、いつかまたみなさまとニュージャージーを語れる日が来ることを心より待ち望んでおります。隠居の私に時々はメッセージ下さい。メリークリスマス、たくさんのありがとうをこめて。

ENJOY 2010 Jersey Shore

Jersey Shore

 

 夏といえばビーチ。早いもので私が波に飛び込まなくなって早6年。友達の間では私の海好きはかなり有名でした。ビーチで日焼けするのではなく、男友達にまざって、向かってくる波めがけていき、波に乗るかのように泳ぐのです。アメリカとは素晴らしい国で、30過ぎて少しづつ変形してきた体でもビキニ着用を許してくれるのです。日本だったら、若者たちに「いい年してやめてくれよ」と思われていたでしょうが、ここでは全然平気。といいますか、かなりお年をめした方でもビキニで日焼けしている姿をよくお見受けするので、30過ぎくらいは許してもらわねば。ビキニ着て、波に飛び込む楽しさは今でも忘れられません。

 私が通ったビーチはジャージーショアと呼ばれるニュージャージー中南部の海岸です。モンマウスカウンティーにあるSea Girtにほとんど行っていました。そのあたりはPt. PleasantやSpring Lake、Manasquanといった街が海沿いにずっとつながっているのです。なので、ビーチ沿いに歩いていればSea GirtからManasquanまで行けるのです。Pt. Pleasantにはおいしいレストランもあり、楽しみ方はいろいろです。そのままずっと南下していけば、うちの大人子供の夫の好きなアトランティックシティまでつながっています。

 

 私がSea Girtを知ったのは約10年前。もともと海が大好きだったのですが、まわりには夏の暑い日に渋滞覚悟でビーチに連れて行ってくれるような人もいなくて、うわさに聞く「ジャージーショアとはどんなとこじゃろな」と思い続けておりました。それが当時喜んで通っていたダンスにたまたま来ていて人に「海が好きで夏はビーチに行くんだ。よかったら今度一緒にどう?」と誘われ、その年の夏の初めにそそくさと着いて行きました。ダンスでナンパされたわけではなく、どちらかというと「真夏ビーチ部」への勧誘を受けたという感じです。以来、彼は私にとってTubeのような存在となり(夏の始まりに連絡があり、夏が終わると連絡が途切れる。年中存在するんだけど、夏しか会わないという存在)、夏限定のベストフレンドとなりました。

 6月になるとビーチの仲間は動き出します。彼は仲間10人くらいで海沿いのサマーハウスを借りていました。6月から9月いっぱいまでの4ヶ月だけ、大きなおうちでみんなで借りてシェアするのです。彼が借りていたおうちは3階建てでムーミンのおうちのような円柱状のおうちでした。週末のみ来る人、1-2週間滞在する人、4ヶ月間住んでいる人、さまざまでしたが、みんなが集まるときはBBQしたり、みんなでビーチに繰り出したり。私は借りていませんでしたが、彼が行くときは連れて行ってもらい、そこでシャワーを借りたり、BBQをごちそうになったりしていました。B&Bのような、気軽に泊まれるところもあり、時々はレストランでパーティーもあり、イベントはいつものようにありました。アメリカにきて3年目にして、初めてアメリカのお楽しみを知ったような気分でした。

 楽しみはつきない日々でした。朝一番でサイクリングして、軽く朝食をとり、それから水着を下に着て上からTシャツとショートパンツ姿で近くの公園でテニスをし、汗をかいたところで海に飛び込む。疲れたらビーチに寝転んで読書し、ランチはみんなでサンドウィッチをほおばり、それはまるで夏休みの小学生のようでした。

ビーチの仲間は様々な職種の人たちで、マンハッタンでラジオのDJしてる人、消防士、電車の運転手、公務員、銀行員、ウォール街の証券マン、などなどいろいろで、集まったときにお話するととても興味深かったです。

結婚を機に私はビーチ部を引退し、夏限定のベストフレンドはフロリダに越していき、ほかの仲間たちとも会うこともなくなりました。

 

 ニュージャージーの海は汚い、という人もいますが、私は決してそうとは思いません。たしかに南の島のように、ブルーのバスクリンをいれたような海に比べてしまうと「あ。。。」となるでしょうが、でも、水がにごっているような海ではないし、私はきれいだと思っています。嵐のあとは水がにごるのは当然のことなので汚れていますが、工場などの人工的な汚れではなく自然の汚れなので、数日待てば水はまた澄んできます。私は夏になるとあせもがすぐにできる体質でした。それがビーチに通うようになってから、海水がよかったせいか、あせもができなくなりました。それはビーチ部から退いた今でも続いており、かなりの恩恵を受けております。

 

 子供が生まれてからもひと夏に1度はビーチへ行っています。ただ、波に飛び込むことはなくなりました。ビキニもさすがに引退しました。それでも海が好きです。私の腕に抱かれ、水が足に触れるとキャッキャッと喜んでいた息子も私の遺伝子を受け、海が大好き。水の中でなら1時間でも平気というくらいに大好きなのです。娘はどうも主人の遺伝子を受けたらしく、水を怖がるのです。ただ、負けず嫌いという私の遺伝子は受け継いだらしく、お兄ちゃんが泳げるということがとても悔しく、決して好きではないのに「夏には海で泳ぎたいねえ」と言います。息子がまだ小さい頃は時々、波に乗って泳ぐ夢をみたこともありました。「あの海に戻りたい」と、ビーチ部を思い出しては懐かしんでいました。でも、今は以前とは違うビーチの楽しみがあります。

 独身のころとはなにもかもが違います。まず持ち物。ビーチ部在籍中は、自分の着替えを車に乗せたらそれでOKでした。パラソルもチェアもビーチ仲間が持っていましたし、彼らがゲスト用にシーズンチケットを持っていたので、ビーチへ入るチケットは買わなくてすみました。至れり尽くせりの部活動でした。でも、今は自分だけでなく、子供たちの着替えを2組づつ、おやつにジュース、浮き輪、パラソルにビーチチェア。かつては当たり前のように仲間がたててくれていたパラソルも、今では私が立てます。大人子供の主人はビーチとは縁遠い人生を送ってきた人なので一緒にきたとしてもあくまでも「付き添い」であり、パラソルを立てれば風に吹かれてすっ飛ばすし、すぐに潮風に吹かれて寝てしまうし、やはり大人子供なのです。パラソルを立てるのは力がいるわけではありません。あれは棒の立て方にコツがあり、それさえ知っていれば私のような小柄な年増でも安定したパラソルができちゃうのです。ちょっとうれしいのは、娘が「あーあ、ダダがやるとアンブレラがひゅーって飛んじゃうねえ。ママ、上手ねえ」と、誇らしげに私をみてくれることです。そうだよ、ママはすごいんだよ、と微笑み返しておきます。私が立てたパラソルの下、大人子供は寝てしまいます。娘が「ダダ、カーカー寝てるねえ」というくらいに熟睡してしまうのです。たしかにビーチパラソルの下って、気持ちいいんですけど。なので、子供二人の手を引いて海に入っていくのは私の役目。砂のお城を作ったり、二人をそれぞれの浮き輪に乗せて浅いところを引いて歩いたり、好みが相反する二人ですが、私が入って3人となると結構いいチームワークになるのです。波に飛び込むほうが体力使うように見えますが、実際、子供たち2人連れて水遊びするほうがはるかに疲れます。波に飲まれないよう、行方不明にならぬよう、常にふたりとつながっていなければならないわけですから、体力よりも気疲れしてしまうのです。

 

 そんな大変な思いするなら海に行かなければいいのに、と思われるでしょうが、私たちは懲りずに行くのです。そして、私と子供たちにいたっては、夏だけでなく春も秋も冬までも海を見に行ってしまうのです。今の私の夢は「あの海に戻りたい」ではないのです。いつか親子3人で波に飛び込むことです。私が楽しんだ海で、私たちは3人そろって波乗りしたいです。波頭に3人がしっかと頭を並べて乗っかっていたら最高じゃないですか。過去を振り返るのは寂しいものです。人は進化しなければなりません。この夢を達成するために、まずは娘の水嫌いを克服すること。あの頃楽しんだビーチで、今度は子供たちと一緒に「新ビーチ部」をつくれたらうれしいです。遠くの南の島で泳ぐのも楽しそう。でも、私はしばらくはこのSea Girtが一番好きな海かなあ。

ENJOY 2010 ああ、子供たち

ああ、子供たち

 

 子供というものは摩訶不思議な生き物です。お腹の中で育ててきた間違いのないわが子なのですが、それでも親の思うようにはならないことが多く、思わぬことをしでかしてくれるものです。それがいいときもあれば悪いときもあり、そしてそれが予想もつかないのです。ここ2-3年で私はものすごく年をとったように思うのです。子育てとはストレスとの戦いのように思えるのですが、小さなお子さんをお持ちのみなさんはいかがでしょうか。

 先日、娘が迷子になりました。大変驚きました、とは言葉上のこと、実際には「親とはちっぽけなものだ」と思いました。あまりのことで気が動転しつつも、冷静にほかを観察する目もありました。親、というよりも私とは本当におかしな生き物だとも思いました。普段、私にべったりの娘なので買い物に行っても離れて勝手な行動をするような心配がありませんでした。それ故、油断してしまいました。子供というものは成長するもので、昨日の娘と今日の娘は全く同じではないということを学びました。

 2歳にしてすでに買い物好きの娘に誘われて、近くのお店に買い物に行きました。「ママ、ピンクのブーツが欲しいの。ルビーも履いていたの。」と、おねだり上手な娘は得意のスマイルで言ってきました。そんなに高くなければ買ってあげたい、しかし、わが娘の足にあうブーツがみつかるのだろうか、と思いながら出かけました。いったい、この子は誰に似たのか、足が太く、そのうえアヒル足なのです。アジア人特有の幅広、甲高の足はまさに「ドナルドダック」のようで、1歳半上のお兄ちゃんよりも太い足首をしているのです。息子は赤ちゃんの頃から骨格が太く、胸板厚いまさに男体型で、足もすっきりしているのですが、なぜだか娘は違いました。私の足もそんなにアヒル足ではないし、これはアジア人特有とも聞くし、一体誰の足だろう。。。といまだに謎なのですが。とにかく、この足にあう靴はアメリカではまずみつかりません。セールでかわいい靴がたくさんあり、娘も「ママ、これ、欲しい」と言ったとしても、試着すると必ずといっていいほど「ママ、これ、きついねえ。」と却下になるのです。なので、たいていは帰国した際に日本で1年分の靴を買い込んでくるのです。日本にはありますからね、幅広甲高の靴が。

 さてさて、お店につくと、娘はすばやくピンクのブーツをみつけました。「ママ、これ」と指差すので、値段をみると素晴らしい。「Buy one Get one Half price」なのです。これ、ひかれますよね。ってことは、「ママのブーツを買えば、まあちゃんのピンクのブーツは半額ってことじゃない!」一石二鳥とはこのことでしょうか。では、まずは娘のブーツのサイズをみて、それからママのブーツを探しに行こう。たいていはこの段階で「ああ、残念」となるのです。しかし、このときは違いました。娘に試着させると珍しくピッタリ。なぜならば「W」があったからです。ああ、素晴らしい、娘の足にピッタリフィット、その上ママのブーツまで買っちゃえば、このピンクブーツは半額と。私もうれしくなり、ちょっと油断したのでしょう。手をつないで女性用ブーツのコーナーまで行き、私がキョロキョロし始めると、娘は一人で歌いながら踊っていました。「この子はそばにいる」と信じていた私は娘の歌声を聞きながら、「ママのブーツを買わなきゃ」と、自分のブーツ探しに没頭し始めました。ふと気がつくと娘の歌声が聞こえない。「あれ、どうしたんだろう」と振り返ると娘がいない!そのあたりにいるだろうと、通路の先まで見に行ったら、どこにもいないのです。ぞぞーっと血の気がひきました。「娘が消えた」。。。もうブーツどころではありません。隣の通路にいた店員さんに「2歳くらいの女の子見ませんでしたか?たしか、このあたりを通ったと思うんですけど。たった今のことですけど」と聞くと、「あ、見ましたけど。。。あれ、いない。」と言い、辺りをみてくれました。しかし、娘はいない。店員さんがマネージャーに連絡すればモニターで調べてくれるというので、お願いし、私は店中を走り回りました。普段は小さなお店だと思っていたのですが、こうなるとやたらと大きなお店に感じてしまうのです。娘はどこにもいないのです。もしや一人で外に出て行ったのでは。。。と思い、出入り口の警備員に聞きに行くと、「みていない」と言われました。店員さんはマネージャーに連絡してくれたはずなのですが、迷子の店内アナウンスが流れないのです。日本のデパートとかで迷子になると「2歳くらいの女の子をみかけませんでしたか」といったアナウンスが流れるのでしょうが、それがないのです。その代わり、「ジェニー、3315」とか、「ダニエル、3310」とかいった暗号のような数字が放送で飛び交っていたのです。みるとあの店員さんがその暗号数字をマイクで流していました。ふと、「もしかしてこれって、暗号で迷子をスタッフに連絡してくれているのかも」と思い、ということは私もやたらに人に「2歳の女の子をみかけませんでしたか」と聞いてはいけないのかも、と思いました。聞くことによって、見つかる可能性もあるけど、逆に「そういう子が迷子か。」と誘拐につながるのかも、と思えてきて、お客さんにやたらに聞くことを避けました。時間にしてみればおそらく5分くらいのことだったのでしょうが、とにかく私は恐怖でいっぱいになり、娘の顔を思っては「もしや、誘拐されて、すでに殺されているのかも」「今頃、車で連れ去られているのでは」などといろんな事件が頭をよぎりました。実際、そういった事件というのは一瞬にして起きるわけですから。そうこうしていたら、向こうからマネージャーと手をつないだ娘が歩いてきました。ほっとしたのと同時に、「この子、泣いてない。知らないおじさんと手をつないで普通に歩いている」と、誘拐される危険性を感じました。私の前に来るとニコッと笑って、「ママ、まあちゃん、下に行きたかったの」と。「どこにいましたか?」とマネージャーに聞くと、洋服売り場で一人で服をみていたと。ああ、わが娘らしい。おもちゃではなく、洋服でしたか。マネージャーにお礼をいい、お店を出ました。この子はいつもママにくっついている子と信じていた娘だけに、まさかの迷子だったし、人見知りの激しい子なので知らない人にはついていかないと思っていたけど、お店のマネージャーと普通に手をつないで歩いていたのですから、油断できません。

 息子にはそういう思いはしたことなかったのですが、別の形で神経すり減らしております。以前にも書いたのですが、息子には発達障害があります。それ故、こだわりも強く、こだわりと癇癪はセットのようにして訪れてきます。発達障害の子がみんなそうだというのではなく、うちの息子の場合です。そして、それが常にあるというわけではないのです。あるときいきなり訪れて、気がつくと薄れているというような感じなのです。去年の夏、一時帰国した際、息子はエスカレーターに執着しておりました。どうやら遊園地の遊具のように思えていたところがあるのですが、「こだわりと癇癪」の息子はそれだけではすみません。気が済むまでエスカレーターを上がったり下がったり乗っていないとものすごい癇癪を起こすのです。そうです、まさに床に寝転んで愚図るのです。私の実家は成田から名古屋のセントレア空港まで乗り継がないといけないので、JFK空港で、成田で、セントレアで、と3つの空港で大変な思いをしました。息子一人ではなく娘も連れているので、1時間もエスカレーターに乗っているわけにはいきません。「もう行くよ」と言えば、ギャーと床に寝転んで癇癪を起こす息子。帰りのJFK空港のイミグレーションの手前でエスカレーターをみつけた息子は「乗る」と言い出しました。そんな時間もないし、列に並ぶように係りの人が指示していたので、「またにしよう、今は無理だから」といったら、ものすごい勢いで騒ぎ出し、セキュリティーが3人もすっとんできました。「すみません、この子、発達障害があるので」といったら、すぐにわかってくれて、列には並ばなくていいからと特別枠から通してくれました。そんな経験があるので、この冬の帰国の際は、万全なる準備をしました。使わずにしまってあったダブルストローラーに二人を乗せ、いざというときのためにチャイルドハーネス(犬の散歩のようですが、子供用のバックパックにリーシュがついているものです)をバッグにいれておきました。私は抗がん剤治療のため、右の鎖骨下あたりにPortacath(日本語ではリザーバー。皮下に大きなボタンが埋め込まれているような感じです)がはいっているのでバックパックが背負えないのです。なので、肩からかける大きなバッグにあらゆる用具一式をつめこみました。これでまたエスカレーターをみつけて騒いでもなんとかなるだろうと思いつつも、それでも大声で泣き叫ぶのは避けられないだろうなと覚悟しておりました。夏の帰国以来、私はエスカレーターが怖くて、息子を連れてエスカレーターのある場所へ行くことを避けていたのです。ところが、これまたやられました。息子はエスカレーターにはもう執着しておらず、ストローラーに二人を乗せたものの必要はなく、ハーネスも使わず、用具一式の中で使ったのは機内で読んだ本数冊だけでした。

 ああ、子供たち。「いきなり」の不意打ちばかりしてくるから母は必要以上に老けてしまうのです。たった一言、事を起こす前にお知らせ願いたい。でも、そしたら、子供が子供である魅力がなくなるのかもしれません。子供は不思議な生き物だからこそ、人は大人になると「いつまでも子供でいたい」と思えてしまうのでしょうね。

 

 

ENJOY 2010 まゆの公園

まゆの公園

 

 私たちは6年前の6月、娘を亡くしました。毎度のように子供のことを書いているのでみなさんもご存知だと思いますが、私には4歳の息子と3歳の娘がいます。法律上では私は2児の母ですが、私の中では私は3児の母なのです。息子が生まれる1年前のことでした。娘は私が妊娠8ヶ月のときに、私のお腹の中で亡くなりました。とても元気な陽気な子でした。当時、教師をしていた私のことを守るようにこのときを選んでくれたように思えます。強気なことを言うわりに実は弱虫な私が、もしも年度の途中でこの子を亡くしていたら、私は立ち直れず、それっきり仕事を辞めていたかもしれません。

 「この子の名前は真優(まゆ)にしよう」と決めた翌日の検診で、ドクターが眉をひそめました。「この子は脳に異常があるかもしれない」と。その時点ではまだはっきりとはわからず、もしかするとそうじゃないかもしれないけど、異常があったとしたらその度合いによって障害にも大きな幅があると言われました。その翌週、私たちはペンシルバニア州の病院で検査を受けました。お腹の中にいる娘の脳のMRI検査でした。検査結果は1週間後ということで、私は「まさか、こんなに元気にお腹を蹴飛ばしてくれるこの子に異常なんて。。。」と軽く考えていました。お腹をノックすればちゃんと応えてキックしてくれるこの子に異常なんてあるはずないと。「まゆちゃんは大丈夫よねえ。もうすぐママのところに出てくるんだもんねえ」とお腹をさすりながら話しかけていました。この子は逆子だったので、頭が上で、足が下という体勢でいたため、大きくなったお腹を両手で抱えると、まるで赤ちゃんを抱いているような感じでした。私は娘を抱きながら流れ星も見ましたし、たくさんおいしいものも食べました。とても陽気な子で、私が高速道路を走り出すと、「走れ、走れ!」というかのごとく興奮してお腹の中で騒いでいました。いっぱい笑ったし、楽しいことばかりでした。だから、きっと大丈夫だと思っていました。私の仕事の最終日、年度最後の日、半日なのでお昼には荷物を片付けて帰る準備をしていました。突然、携帯電話が鳴りました。いつになく主人からでした。「戻り次第、すぐに僕のオフィスに来るように」とのことでした。就業時間内に電話してくることは滅多になかったので、なんだか嫌な予感がしました。

 主人のオフィスに行くと、泣きはらした顔の彼がいました。彼は小学校の校長です。その日のお昼前にドクターから検査結果の連絡が入って以来、校長室にこもったきり泣いていたようなのです。娘の脳は想像以上の重度の異常で、この時期まで発見されずにいたことも、そしてこの8ヶ月という期間育ってきたことすらも軌跡のようなことだったのです。病院には何人かのドクターがいらっしゃいました。私は初めなのでドクターの指定をせず、毎回違うドクターに超音波の検査を診てもらっていました。そして、初めてこのドクターの検査を受け、娘の脳の異常がみつかったのです。ドクターは「どうして今までこれほどの異常がみつからなかったんだろう」と首を傾げました。娘は私の仕事が終わるのを待っていてくれたに違いありません。そして、その翌週、6月30日、娘は私のお腹の中で動かなくなりました。昨日まで私のお腹を蹴飛ばして大笑いするかのように喜んでいた娘の動きが感じられなくなりました。それはまるで「ママ、もういいよね、お仕事終わったから少し泣いても休めるからいいよね」と言っているかのようでした。

 生まれてきた娘は、小柄なとてもかわいい女の子でした。お月様みたいにまん丸の顔に、私はヒマワリを思いました。予定日が8月12日でしたので、真夏に咲くヒマワリのように見えました。目を開けたらきっと大きな目だろうな、笑うときは大きな声で笑うんだろうな、いたずら好きなんだろうな、娘の寝顔をみながらいろいろなことを想像しました。私はこの子にこれから先なにもしてあげられない。一緒にお料理したり、買い物したり、旅行したり、いろんなことをいっぱいしたかった。学校にあがったら、お弁当もつくってあげて、体育の服につけるゼッケンもつけてあげて(アメリカにはそういうものないですけどね)、宿題も一緒にやって、授業参観には頻繁に行きたかった。目を開けてくれない娘を抱きながら、「今までがんばってくれてありがとう」とお礼を言いました。親を亡くす悲しみもありますが、わが子を見送る思いは悲しみだけでなく、もっと複雑な思いでいっぱいになります。罪悪感も感じました。「なぜこの子が。なぜ私が生き残ったのか」と。私は自分の体が動かなくなってもいいから娘の脳が正常になって欲しいと願いましたが、それもかないませんでした。無気力にもなりました。子供の泣き声を聞くと悲しくなりました。気が狂いそうでした。

 数日後、火葬された娘の灰を抱いて、丘の上の公園に行きました。見晴らしがよく遠くにマンハッタンがみえ、911のときはここから燃え上がる炎がみえていたと聞きました。West OrangeとMontclairの境あたりにあるこの公園は、Eagle Rock Reservationといいます。普段私が子供たちを遊びに連れて行く遊具のある公園とは違って、大人が午後のひとときを過ごすのに最適なように、ガゼボがあったり、マンハッタンを一望できる散歩道があったり、とてもすてきな公園なのです。丘の上にあるので、途中はハイキングコースにもなっています。私はそれまでEagle Rockの前の道を通り抜けるだけで、はいったことはありませんでした。でも、なぜだか、そのときは娘に誘われるかのように初めてその公園に行きました。たった数日前まで私のお腹の中にいて「あー、重たいよお」と思っていた娘は、風にも飛んでしまうくらい軽い灰になり、私の胸に抱かれていました。ただ、なぜだか心は温かく、優しい思いがしました。涙も涸れるほど泣いたせいか、もうこぼれてきませんでした。ただただ、陽気で元気な娘が私のそばにいるという思いで、公園からマンハッタンをみました。「まゆちゃん、みてごらん、マンハッタンよ」私は娘に話しかけました。無言の娘でしたが、並んで同じ方向をみているように感じました。ここが私と娘が初めて一緒にお出かけした場所となりました。以来、私はこの公園を「まゆの公園」と呼んでいるのです。

 遊具があるわけではないので、子供を遊ばせる目的には向かないかもしれませんが、私は今でも週末になると時々子供たちを連れておやつやお弁当を持って出かけます。お弁当といっても大げさなものではなく、サンドウィッチやおにぎりをちょいちょいとつめて、ジュースとお菓子を持って、車に乗り込むのです。うちから車で5分なので、近いし、普段着の場なのでいつでも行けるのですが、なぜだか私はここに行くと、特別な気持ちになります。クマの人形を抱いた女の子の銅像があるのですが、それを見るたび、娘が今生きていればどんなくらいかなと重ねてしまうのです。平日のお昼ごろ行くと、車の中でマンハッタンを一望しながらサンドウィッチをほおばるビジネスマンらしき男性や、お昼のお散歩にきた近所のお年寄り、おやつを持った子供連れのママがいたりします。丘の上にあるのでとにかく見晴らしが最高です。天気が悪いとマンハッタンも霧の中になってしまいますが、それはそれでまた魅力的でもあります。

 私は毎年娘の誕生日に真珠を一粒づつプレゼントしています。この子が二十歳になるまで続けるつもりです。二十歳になったら、それが真優と私の本当のお別れです。真珠のネックレスをつくって成人式をお祝いしてあげたいと思っています。それまでは私がこの子の母親。お弁当も体操服のゼッケンも作ってあげられないけど、私はこの子のママです。毎年6月30日、私はこの公園に訪れ、マンハッタンを眺めます。2人の子供たちが幼稚園に行っている間に、私は真優と2人だけの時間を過ごします。「まゆがいてくれてよかった。まゆがいたからママがこうして生きていられる」と感謝の気持ちをこめて、6年前にみた景色をふたりで眺めます。みなさんもよかったら一度足を運んでみてください。遠くにみえるマンハッタンをみるもよし、ガゼボで風にふかれてみるもよし、心が洗われる気がします。

Eagle Rock Reservation: Eagle Rock, West Orange, NJ

 

ENJOY 2010 Doggie obedience school

Doggie obedience school

 

 When my son was born, my mother came to help us. It was about 5 years ago. My mother was surprised to see me bathing my son. Yes, I did good job. He was only a few days old. As you imagine, he was like a baby doll. My mother asked me how I learned to bath a new born baby. I said, “I’ve done it before.” Well, it was new to my son, but I did it with my lovely dog, MOMO. MOMO is American Cocker Spaniel. When I got MOMO, she was only seven weeks old. I was single at that time, so MOMO was like my first child. I raised her as my child.  I thought taking care of a puppy was almost same as taking care of a baby, and now I can say, yes, it is!

 I had lived in my friend’s house until I got married. My friend hadn’t had any dogs in his life, so I could not have a dog there. I really missed my dogs. I wanted to have a dog, but he never said, “yes.” I walked to the pet store on the street to see dogs. One day I caught a cold. It was not just a cold. I guess it was flu. I stayed in bed for a few days. He asked me what I want or/and need. I said, “Oh, I wish I could have a dog with me. Then, I would never get sick. I am 100% sure I can be healthy.” “Are you sure?” he asked. Finally, he let me have a dog. It had taken one year to have my dream comes true.

 MOMO was a beautiful puppy. Whenever I walked her, people asked me where I got her. They always gave us a lot of compliments. I was proud of her. One day, I was invited to my old friend, Evelyn’s house. We have been friends since she visited my parents’ house in Japan. Evelyn had a pool in her back yard. It was summer, so we enjoyed swimming and chatting there. Evelyn’s daughter, Jane, is same age as I am. She loves animals, and became a vet. When we chatted in the pool, little MOMO saw me, and jumped in water. MOMO didn’t know how deep it was. She did not know how to swim, and was almost drowned. Since then, she has been scared of water, and never comes close to water.

 MOMO was chicken. When I saw her first time, I learned it. This is one of the reasons I picked her. I love this part of MOMO. When Jane saw MOMO, Jane said the same. MOMO is scared of a lot of things. It is much better than aggressive. Jane recommended a doggie obedience school for MOMO. Once you get a pet, you should have a lot of responsibility. As you educate your child, you should educate your pet. Pet is pet, is not a human. We, owner and pet, should enjoy living together. In order to do it, pets need a place to learn.

 We started going to obedience school when MOMO was nine months old. There was a nice school in our neighbors. Most people in Morris county have heard “St. Hubert’s”.  St. Hubert’s is a non-profit organization, and has many programs related to animals. They have doggie obedience classes in the different age and levels. MOMO started the beginner class. Every Saturday morning, I and MOMO went to school together. The teacher had her companion, and they showed us how Mom(owner) and child(dog) work together. We got homework for each lesson. It was so much fun. MOMO started learning, “down”, “sit”, and “wait”. MOMO was too excited in the lesson, but we worked hard at home. So we could graduate. Learning is fun. MOMO, even now, remembers what she learned there.

 Some people say, “my dog is stupid,” but I think it is wrong. No dog is stupid. You should educate your pet once you get him/her. It is your responsibility. Dog is just like a child. You should watch his/her health, and educate him/her. Then, he/she learns. I never got mad nor scared MOMO. I taught her a lot of things with smile. You should know dog is dog even you feel he/she is like your baby. We both need to understand each other. First, we both have to learn each other. I strongly recommend the obedience school for the owners and doggies. My little MOMO is now 12 years old, and is not little any more. She moves and walks slowly. But she still obeys me even her hearing is not as good as it was. We have had comfortable life together because we learn, understand and respect each other.  You can go to St. hubert’s website, and see what programs they have. Those programs are interesting to animals lovers.