ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2010 Chatham

Chatham

 

 私がニュージャージーを想うとき、常にその根底にはChathamという小さな街があります。1997年8月10日に渡米してから約6年半住んでいた街です。知る人ぞ知る、知らない人は知らないという小さな街ですが、私はこの街が大好きです。結婚を機に街から出ましたが、それでもここは私にとってアメリカでの故郷のようで、特に用事がなくても戻りたいと想ってしまう場所なのです。

 Chathamは日本語で言うならばチャタム、しかし、TH音があるため、チャタムと言ってもアメリカ人には聞き取ってもらえません。渡米してきた当初は読み書きはなんとでもなったのですが、とにかく会話に困りました。私が言うことは聞き取ってもらえず、相手のいうことは聞き取れず。County Collegeはカニカレッジ(蟹の大学を想像していました)と聞こえるから、何を言われているかわからないし、隣町からバスに乗って運転手に「どこで降りるんだ?」と聞かれ、「チャタム」と言えば、何度も聞き返され、挙句の果て「自分の降りるところはわかるか?そこで降りるんだぞ」と言われてしまうし。あの頃はまだ車もなく、毎日バスの運転手とそんな会話をしておりました。たまたま出会った人が隣町に住んでいて、「君はどこに住んでいるの?」と聞かれ、「チャタム」と答えれば、「どこだろう、そんな町は聞いたことがないなあ」と言われました。だから、Chathamという名前が嫌で嫌でたまりませんでした。ふざけた友達は「君はChat(おしゃべり)Ham(ハム)に住んでいるんだな」と街の名前を笑いました。半年くらいして、やっとChathamと発音できるコツをつかみました。そのときこそ、自分の英語力の上達を誇ったことはありません。ルームメイトに毎日のように、「I live in Chatham.」と言って自慢し、「知ってる、僕もだから」と笑われていました。

 一口にChathamといっても、私が住んでいたのはChatham Boroughで、ChathamにはBoroughとTownshipがあります。ニュージャージーにはBoroughとTownshipがある町がたくさんあります。なにが違うのかを簡単にお話したいと思うのですが、あくまでも私の説明はニュージャージーにおけることでして、他の州ではまた少し違うかもしれません。Boroughは自治区で、Townshipは郊外といえばわかりやすいでしょうか。公的な場所(郵便局、図書館、鉄道駅など)やダウンタウンはBoroughにあります。Boroughでは住民がBorough Council(議会議員)とMayor(市長)を選びます。Townshipは住民がTownship Committee(Township委員会)を選び、その中のひとりがMayor(市長)になります。なので、Chathamと一口に言っても、BoroughにもTownshipにもそれぞれにMayorが存在するのです。

 Chathamという地名は、もともとはGreat Britainからきたもので、Chatham伯爵から由来しているそうです。Chatham Townshipは1806年に誕生したのですが、Boroughに住んでいた人々のほうが税金を多く払うけれど受けるサービスが少ないということで、Chatham Boroughが1897年に誕生しました。Chatham Boroughは2.4平方マイルで人口約8000人。Chatham Townshipは9.4平方マイルで約10,000人が住んでいます。私が住んでいたのはBoroughで、Townshipは通り抜けるくらいであまり出向いたことがありませんので、私のいうChathamとはBoroughだと思ってください。

 Chathamは閑静な住宅街です。ダウンタウンはメインストリート沿いにあるのですが、歩いて数分で通り抜けてしまうくらいこじんまりとした街です。メインストリートを歩くと、ほかの街では味わえない懐かしさを感じます。私が住んでいたところからメインストリートまで徒歩3分。その途中にChatham Playersというコミュニティシアターがあります。私はその劇場が大好きでした。毎年12月になるとルームメイトに誘われてお芝居を観に行きました。ちょうど大学の期末試験が終わり、クリスマス前という、気持ちが開放された時にお芝居を観るのは本当に楽しみでした。春や夏の終わりにも観に行きました。お芝居を観た後、歩いて家まで帰るのですが、夜風で季節を感じたものです。

 Chathamのメインストリートでは必要なものはすべてそろってしまうくらいに凝縮されています。図書館あり、郵便局あり、レストランあり、銀行あり、バス停あり、道一本入れば鉄道駅も市役所にも行けます。私が気に入っていたのはここにはスターバックスマクドナルド、チェーンのレストランもないというところです。隣町、Madisonまで行けばダンキンドーナツスターバックスバーガーキングもあります。でも、Chathamのダウンタウンにはありません。スターバックスでコーヒーを飲むこともありますし、ダンキンドーナツは結構食べます。でも、そういうお店が並ぶとどの街も同じように見えてくるのです。Chathamのダウンタウンには古くからの個人のお店がいくつもあり、なんだか味わい深いのです。その中のひとつ、Arminio’sはNorth Passaic Avenueとメインストリートの角にあるピザレストラン。ピザだけでなくパスタなど他のイタリア料理もあります。私はここのピザを愛しておりました。どのくらい愛していたかというと、Lサイズのピザを3-4切れはペロリと平らげていたといえばおわかりいただけるでしょう。私とルームメイトがLサイズピザをオーダーすると、いつも最後の一切れを前に目が合い、「食べたい、でも譲るべきか」と無言の話し合いとなり、たいていは私が譲っていました。なにせ敵は身長190cmの男なのですから。当時大学のカフェテリアで毎日ランチにピザを食べていた私ですが、それでも夜またArminio’sのピザを食べても平気でした。日本から友達や家族がくると、必ず一度はここのピザをごちそうしました。

 私は日本の喫茶店が大好きでした。雰囲気がよかったのでしょう。スターバックスでコーヒーを時々飲みますが、喫茶店で飲むのとはやはり違います。アメリカにきて驚いたのは喫茶店がないことでした。レストランはあります。ダイナーもあります。ベーカリーもあります。コーヒーショップもあります。でも、日本の喫茶店のような雰囲気を持つところがないのです。もちろん日系のお店まで行けばあるわけですが、近所の喫茶店というものがないのです。ある日、街をブラブラ散歩していたら、ベーカリーが開いていました。毎日オープンしているのですが、当時車がなかったため大学までバスで通っていたので、そのベーカリーの前を通るときは朝早くか、帰りは薄暗かったので寄る暇もなく通り過ぎていました。常々一度は入ってみたいと思っていました。なので、ちょっとのぞいてみたくなりました。ケーキ屋さんだろうと思いながら、中に入るとやはりケーキ屋さんでした。ただ、私の友達で、小学校の頃Chathamに住んでいたという人がいて、彼が「Café Beethovenって今でもあるのかなあ。ぼくはあそこのケーキが大好きだったんだ。」というくらいなので、昨日今日できたベーカリーではありません。彼が「ぼくが小学校の頃、すでにあったから、あそこはもうどのくらい続いているんだろうなあ」というくらいです。一見ケーキ屋さんなのですが、奥ではコーヒーとデザートを頂けるようになっているのです。私は大好きなチョコレートケーキとコーヒーをオーダーし、奥の席に着きました。私以外に近所の奥さんらしき人が2人お茶を飲んでいました。静かな雰囲気で、それはまるで私の大好きな喫茶店のようでした。以来、友達のバースデーケーキはここでオーダーし、疲れたときは奥でコーヒーとケーキでくつろぐようにしていました。

 ルームメイトが私の叔父と同い年の男性だったせいか(ルームメイトというよりも、実際は家族ぐるみの知り合いだったため、私が彼の家に転がり込んできた居候だったわけですが)、最初の頃はショッピングに出かけたことがありませんでした。それ故、アメリカには日本のような「街」はなく、人々はショッピングに興味がないとすら思っていました。冬の初めのころ、日本からきた私は薄手のジャケットしか持っておらず、あまりの寒さにジャケットを2枚重ねて着ておりました。そんな私を見かねた彼は「君のジャケットでは冬は越せない。ここの冬はもっともっと寒くなるんだから。今度の日曜日に厚手のコートを買いに行こう」と言いました。そして、週末、うちから車で10分弱、モールに到着しました。びっくりしました。いつも、この道をずっと向こうにいくと何があるんだろうと思っていた道の果て10分足らずのところにモールがあったのですから。Livingston Mall。とても小さなモールですが、私がひとりで制覇するには格好の大きさです。うちからLivingstonと反対方向に向かってこれまた5分のところにはShort Hills Mallがありました。実際歩いていかれる距離だと思うのですが、モールの前にはRt.24が走っていて、その出口がぐるぐる回っていて、それこそ東名高速道路のインター付近を歩くようなもので、見えていてもShort Hills Mallまで歩く人はいません。ただ、私のルームメイトは歩いたそうで、車の人たちにみられ、草むらを横断して帰ってきたと言っておりました。今ではもっと大きく新しいモールがいっぱいありますが、私はいつまでたっても、このふたつのモールが大好きです。買い物するならLivingston Mall、見て歩くならShort Hills Mallと使い分けて、ふたつのモールを楽しんでいます。

 Ray Charlesが歌った「Georgia on my mind」という曲のごとく、私にとってはわが心のChatham。言葉も満足に話せず、文化も街もわからなかった子供のような私を暖かく見守ってくれた街だったから、私はこんなにもこの街が好きなのでしょう。あれから13年たっても、ルームメイトも住んでいた家も隣近所の人々も変わっていません。たまに行くと、里帰りしたような気分になります。Chathamが私の故郷だからなのかもしれません。

ENJOY 2009 生きたい

生きたい

 

私、また入院しておりました。6月に大腸癌の手術して以来3度目です。こんな年はそうそうないでしょうし、あっても困ります。私は癌の告知を受けるまで健康だけは自信がありました。どこをどうやっても壊れぬ体だと豪語いたしておりました。その私が4ヶ月の間に3回も入院し、うち2回は手術受けたのです。健康とは当たり前のように思っていたけど失くして初めてその大切さに気がつくものです。

今回の手術も入院も緊急だったので、何の準備もできていませんでした。8月号でお話したように、私は抗がん剤を受けております。抗がん剤の副作用には個人差があるのですが、私にはかなりきついものです。吐き気と疲労感、手先のしびれ、プラス徐々に髪が抜けてきております。うちは子供たちがまだ小さいし、主人は大人子供なので、私ひとり老体にムチ打って戦っておりました。それだけが原因ではありませんが、ま、少なくても抗がん剤は大きな原因のひとつだったわけで、二度目の抗がん剤投薬直後、いきなりの腹痛と嘔吐におそわれました。抗がん剤の副作用かなと思いながらもどうも何かが違うのです。お腹がよじれるように痛く、体の置き場がないくらいに苦しいのです。

なんとか一晩こしたのですが、翌朝、すでに動けない状態になっておりました。子供の頃、お腹が痛いといえば正露丸を飲んだなあ、と思い出しました。そうそう、薬キャビネット正露丸はあったはず。鼻をつくような正露丸のにおい。中学の頃、私は剣道部に所属しておりました。いつも誰かしら正露丸を飲んでいたせいか、部室は汗臭い防具と正露丸のにおいがしていました。激しい腹痛に襲われながらも一瞬にそんななつかしい記憶がよみがえってきました。「あの頃いつも正露丸飲んで治ったから、今回もきっとすぐに痛みが消える」と思いました。でも、時間と共に痛みは増すばかり。必死の思いで息子のお弁当を作り、学校に送り出すと、もう立っていられなくなりました。娘を保育園に送ることもできません。「寝よう。寝ればきっとよくなる」そう思って横になろうとするものの、体が痛くて横にもなれません。困りました。大変困りました。病院に行こうかどうしようかと考えました。娘を一緒に連れて行くわけにいきません。でも、このままではひどくなるばかりだし。そうこう考えているうち、息子が帰ってきました。息子は通称「Sleeping Beauty」といわれるほど、すぐに寝てしまう子なのです。学校でも勝手に昼寝するらしいし、バスに乗れば必ず寝ます。寝たら、その眠りは深く誰も起こすことはできません。この日も息子はバスで熟睡。歩くのもやっとのことだったので、息子を担いで道を渡って家に入るのはもう体力の限界でした。息子をベッドに下ろすと、「もうだめだ」と思いました。ベッドで眠る息子、一人で退屈そうに遊ぶ娘。大人子供の主人に電話してもつながらず、1時間後に折り返しかかってきた電話で「今、トレントンにいるんだ」と知らされました。彼が帰ってきたら子供を預けて病院に行こうと思ったけど、それも無理。近所の友達に電話したのですが、平日のこんな時間は誰もつかまらないのです。このまま死ぬのかなあ、などとちょっと大げさなことを思っていたところ、友達のひとりから電話がかかってきました。「どうしたの?」と。事情を話したら、すぐに来てくれるといわれました。

子供たちを義妹に預け、私は友達に病院まで運んでもらいました。着いたところはLivingstonにあるSt. Barnabas Medical Center。この病院には本当にお世話になっております。実は私たち、息子が生まれる前に女の子を亡くしているのです。私が妊娠8ヶ月のことでした。その時以来、息子の出産も娘の出産もここ。そして大腸癌の手術も、その直後の入院もここ、そして現在継続している抗がん剤治療もここなのです。自慢じゃないけど、私はこの病院の入院食のメニューを朝昼晩と全て知っています。それほどに深いお付き合いとなったこの病院。「すごいいい病院だよ」と人には言うものの、実際お世話になってうれしい場所ではないことは確かです。

ERで痛み止めの点滴を打ってもらったら痛みがひいていきました。「ああ、これで家に帰れる」と思い、ほっとしてきました。前回の入院では下痢と嘔吐が続いていたので帰ることは許されず、結局5日間も入院したけれど、今回は下痢はないし、嘔吐も昨日だけで止まっている。だから、痛みさえとれれば子供のもとに帰れる、そう思っておりました。ところが、腹部レントゲンの結果、腸に空気がパンパンにはいっているから、手術だと言われました。腸に穴があいているようだと。「困ります、それは。明日の子供たちのお弁当作らないといけないし。。。」と言ったら、友達に「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」と諭され、「じゃあ、手術したらすぐ帰れるのかしら」というと、ドクターに「2-3日は入院です」と言われ、ドンドン落ち込んでいきました。本当に困るのです、こういう予定にないことになると。うちは子供ばかりのような家なので、私がこんなことになると一瞬にして回らなくなるのです。

でも、友達っていいものです。落ち込み、滅入ってしまう私に、いろいろな話をして励ましてくれるのです。一体誰がこんなに親身になってくれるのでしょう。ひとりで心細く手術を待たずに、こうして友達が一緒にいてくれて、私は本当に心強く思いました。

「あと45分で手術が始まります」と言われ、主人に連絡するものの、また連絡がつきません。でも、これまたうれしかったのは、「ぼくはカナダのトロント出身なんだ。親は香港出身なんだけどね。」という研修医、検査の途中から時々話しかけてくれていたのですが、手術と決まったとき、「大丈夫だから。ほら、ぼくたち3人(他にもう2人研修医がいました)が手術室まで着いていくからね。ぼくたちがみていてあげるから心配いらない」と言ってくれました。そして、手術控え室に移動する際、「ほら、言っただろ、ぼくたち3人がついているだろ」と付き添ってきてくれました。うれしかったです。そういう言葉だけでも心にジーンときて、涙が出そうでした。彼らに付き添われ、友達が手術台に行く私を見送ってくれました。友達は手術中も深夜まで待っていてくれたのです。私は暖かな気持ちで手術台にあがることができました。

手術が終わり、目が覚めると夜中の2時でした。そこには誰もおらず、「一体ここは?」と思った瞬間、痛みが走り、手術を受けたことを思い出しました。いろんなことが頭の中をめぐりました。昼寝から覚めて呆然としていた息子、長靴を持って「ママと一緒に行く」と追いかけてきた娘、一体子供たちはどうしているのだろう。朝から動けず流しに山のようになっていた食器はどうなっているんだろう。息子のお弁当箱はちゃんと洗ってくれたかしら。明日の子供たちのお弁当どうするんだろう。そんなことを思ったらもう痛みどころではありません。「早く子供たちのところに帰りたい」と思いながらもまた眠ってしまったらしく、目が覚めたら朝の6時でした。まだ回復室にいました。

まず私が考えたことは「いかに早く子供たちのもとに帰るか」ということです。そう、回復が早くなくてはなりません。それにはまず座ることから始めて、次は立つこと、そして歩けるようになること。担当の看護婦さんはとても優しくて呼んでいなくても顔を出しては「大丈夫?痛くない?」と声をかけてくれました。朝食を食べれるわけでもなく、トイレに行けるわけでもなく、時間がすぎていくのは私の体にはまったく関係ないようにしか思えません。退屈そうな顔していたのでしょう。看護婦さんが「ちょっと座ってみる?」と声をかけてくれたとき、それはそれはうれしく、「ああ、これで子供たちへ一歩近づく」と思いました。実際には椅子に腰掛けたものの、なんだか不安定で自分の体が自分でコントロールできないような状態でした。いろんな管が鼻から体中にいっぱいつながっていて、それがからまりそうで、まるでマリオネットのようでした。それでも早く子供たちのもとに帰りたい一心で、看護婦さんが「もう30分も座っているからそろそろ横になったほうがいいわね。すごいわね、手術して間もないのにこんなにしっかり座っていられるなんて」と言われたとき、「これくらい全然平気です。痛みもありませんし」と強気に言ってのけました。とにかく早く帰りたいのです。

病室に運ばれたのが午後3時。身動きとれないけど、みんなに連絡とらなきゃ。そして子供たちがどこにいるのか、どうしているのか聞かなければ。そう思い、看護婦さんに私のバッグはどこか聞いたところ、手術中にどうやら主人が来たらしく、私の服もバッグもすべて持ち帰ったというのです。ってことは、たとえ今歩けるようになったとして私には靴もない。誰かに連絡とりたくても携帯電話もないから電話番号もわからない。これまた困りました。主人に電話してみてもまたつながりません。もう泣きたい思いでした。子供たちはどうしているんだろう。そう思うといてもたってもいられません。夜中の11時、主人が現れました。持ってきた私の携帯電話、電源が入れたままだったので、バッテリー切れ状態。誰にも連絡とれないじゃないの、と泣きそうになる私を横に、大人子供の主人はテレビに見入っている。ああ、なんて無邪気なんでしょう、この人。

子供たちは彼のお母さんのところにいるとわかったもの、声を聞くまでは安心できません。翌日、早朝からドラマ「白い巨塔」のようなドクター団の回診があり、管がかなり引っこ抜かれました。とはいえ、点滴はつながっているし、なんだかお腹にはなにかがくっついている。よくわからないけど、ビニール袋のようなものがくっついて、どこにつながっているのかわからないけど、横っ腹あたりから管が出ている。自分の体ながらどうなっているのかわからない。子供に電話したくても電話番号もわからない、友達の番号もわからない。最後に別れたときの子供たちの顔ばかりが脳裏に浮かび、悲しくなってきました。きっと私の顔も体も悲しみオーラがあふれていたのでしょう。血圧を測りに来た看護婦さんが「どうかしたの?なにかあったの?私でよければ話して」と言ってくれました。看護婦さんたちが次々に来ては私の話し相手になってくれて、いやはや人生相談室のようになっておりました。ソーシャルワーカーとカウンセラー(癌センターでお世話になっている方です)まで来てくれて、体はもとより、心のケアまでしっかりしていただきました。「あなたは母親。早くよくなって子供のもとに戻って守ってあげなきゃ。そのためには今は回復することに集中して。」と言葉として耳に入ってくると、「私が元気にならなければ!」という気持ちが高まりました。常日頃、アメリカ人の手抜き作業や遅刻に「ったく」と舌打ちしていた私ですが、こういった心のケアに関しては「さすが」と思いました。

数人の友達がお見舞いにきてくれて、本を置いていってくれたり、庭で咲いたお花を持ってきてくれたり、他の友達には電話でいろんなことをお願いもしました。1週間の入院で自慢の体力もすっかり落ちていました。私の体には人工肛門がつけられ、開腹手術の傷跡は大きく12本ものホッチキスの針でとめられていました。自分で自分のことをするのもままならない状態になってしまいました。 帰宅すると私を待っていたのは洗濯物の山。病院から自宅まで連れてきてくれた友達が見かねて洗濯までしてくれました。そして、やっと子供との生活にもどることができました。今まで当たり前のように過ごしていたことがこんなに大切なことだったのだとあらためてわかりました。

体がままならない私を支えてくれたのも友達です。毎日午後になるとうちにきてくれて、子供の世話を手伝ってくれたり、お医者さんへもつれていってくれました。毎日電話くれて、「大丈夫?」と気にかけてくれたり、遠いところわざわざ顔みにきてくれたり。。。今回は本当にたくさんの人に助けられました。まさに「生かされた」という感じです。病院なんて行くべきところじゃないと思っていたのに、そこで出会った人々の優しさに涙し、そして日本人の友達には入院から退院のあとまでお世話になりました。今まで私は人に頼むこと、人に弱音を吐くことがとても嫌でした。いつも一人でこなす強い人でありたいと思っていました。でも、人には限界があります。家族から離れて海外に住むということはこういうことなのですね。思いもかけず人口肛門を持つ体になってしまいましたが、それよりももっと大きなことを学んだように思えます。人には優しく、そして人とつながって生きていきたい、そうです、私は「生きたい」と強く思いました。

 

ENJOY 2009 牛と豚と鶏と、パン。

牛と豚と鶏と、パン。                 

                                                                      

 我が家のベランダ用鯉のぼりがポーチでユラユラと泳ぐ季節となりました。アメリカの多くの家では国旗始めいろいろな旗を玄関先に飾ってあります。うちはこの季節になると鯉のぼりを飾るので近所の人からよく「あの魚のストリーマーは何だ?」と聞かれます。女の子のいる家庭はお雛様飾り、男の子のいる家庭では鯉のぼり。うちは両方です。わが息子、いつまでも赤ちゃんだと思っていたらもう3歳。まだまだママのかわいいゆうちゃんと思っていた息子も黄色いスクールバスでプリスクールに通っています。息子には発達障害があります。正確にいうならば広汎性発達障害。私は下の子が生まれるまでは公立学校の教師でした。小学校から高校までESLを教えておりました。教師として生徒はみることはできても、個人として「子供」という存在をどう扱えばいいのか、実際、息子が生まれるまでは知りませんでした。理解しがたい存在に「異星人」のようにさえ感じたこともありました。母親としてこの子が何か他の子と違うことは小さなときから感じていました。息子に「あれ?」と感じることはあってもそれを認めたくない、そして周りの「気にしすぎ。子供はみんなそうだよ」という声を信じたく、気がつかぬふりをした時期もありました。それでも、この子は私の子。「もしそうならば、早くなんとかせねば」と立ち上がったのが息子が2歳になったばかりのとき。それから今までの1年8ヶ月、息子と私は一緒に成長してきました。

 どんな親でもわが子に障害という診断を受けて平然としていられないと思います。でも、それが現実なら親はどうしたらいいのでしょう。全てを受け入れますか、それとも逃げますか。この小さなわが子をそのままにしてどこに逃げられるのでしょう。私は今でも息子の障害の全てを受け止められません。でも、逃げません。私が今できることは一緒に歩くことです。幸い、1歳半離れた下の子はお兄ちゃんのビッグファンで、何でもお兄ちゃんのすることは正しいと信じ、真似し、兄妹としていい関係を築いてくれています。息子にとって何がいいのか、私はこの子に何ができるか、そして、私はこのふたりをどうして育てていくべきなのか、これが私の目下のところ大きな課題です。

 息子が楽しめる場所、そしてこの小さなふたりを安心して遊ばせられる場所をいつも気にかけています。発達障害があるけれど、私は息子を特別な子にしておくつもりはありません。健常児である下の子と同じように、二人とも一緒にいろいろなことを体験させてあげたいと思っています。しかし、やはり健常児とまったく同じようにはいきません。去年の秋、息子は学校の遠足で農場に行きました。もちろん、言葉に遅れがあるので健常の3歳児のようにその日のことを話すことはできません。でも、帰ってきた息子の服には土がついており、自慢げに手にしていたのは泥のついたパンプキン。誇らしげな息子の顔。「楽しかったんだなあ」とすぐにわかりました。「ゆうちゃん、楽しかった?」と聞いたら、「イエー。パップキン」と言いました。自然の中での刺激というのは健常児、障害児に関係なく子供の成長を助けます。ということで、私たち親子、暖かい春が来るのをずっとずっと待っていました。春になったら「ム~Cowみに行こうね」と約束しておりました。

 私たちが訪れたところはBobolink Dairyという牧場。我が家のあるMontclairからですと1時間弱の距離で、Rt23Nを北上し、Rt515Nに入るとほぼ迷うことなく牧場に着きます。ニューヨーク州との境にあります。うちの近辺とは別世界、「え、ここがニュージャージーなの?」と思ってしまうくらいに、広い草原、のんびりとした空気、それはそれはペンシルバニア州のランキャスターを思わせるような光景が広がります。前もってFarm Tourに申し込んでおいたので、牧場に着くとオーナーのNinaさんが迎えてくださいました。

うちには犬がいます。今年で11歳になるコッカースパニエルです。息子が生まれるずっと前から私といたので、息子にとって犬は「動物」ではなく「おうちの子」なのです。でも、犬以外の動物とは触れ合う機会がないので、息子が大きな牛や豚、走り回る鶏をみてどう反応するのか心配でした。Ninaさんの案内で子牛をみていたら、息子が「ム~」と牛の鳴き声を真似しました。素晴らしいことです。本で学んだことと現実のものとを結びつけられるのは障害児、健常児に関係なく大事なことです。そして、豚をみると「三匹のこぶた」と言い、アヒルをみては「クワッ、クワッ」と鳴き声を真似ていました。怖がることなく牛のそばに近づいてみたり、うれしそうに土の上を飛び跳ねる息子、そしてお兄ちゃんを真似てはしゃぐ娘。子供たちを連れてきてよかったと思いました。子供たちが目を輝かせて自然や動物に興味を持ってくれる、それは私にはなによりの喜びなのです。

 この牧場はとても素朴で、それが魅力なんだと思います。日曜日にはFarm Tourがあります。最近ではミュージアムとか商業目的の牧場などでは「体験ツアー」としてチーズつくりの一部をやらせてくれたり、牛に触らせてくれたり、といったことがあるようですが、ここではそういったことはありません。「普通の牧場の流れ」をみるのがこのツアーです。Ninaさん一家とインターンの人とで牧場は運営されています。だから、ツアーのための見せ場としてなにかを作るというのではなく、ここでの流れをツアーに訪れる人にみてもらおうというのが趣旨なのです。そして、Ninaさん曰く、「子供たちに学んでほしいのは、学校で習ったRhymeや歌に出てくる動物を実際にここでみて、それを感じてほしいのです。」

それは私が子供たちに求めるものと同じでした。私は設定された物や場所に子供たちをはめることが好きではありません。自然で素朴なところはたくさんの可能性を秘めています。うちの近所とは別世界の広い牧場のなかで、のんびり歩く牛、寝転んでいる3匹の豚、カーッカッカッカーと走りすぎていく鶏をみて、息子も娘も目がキラキラしていました。ここでこの子達はなにを学び、なにを感じてくれたのか、それは私にはわかりません。だから、楽しいのかもしれません。

 ツアーではパン焼きオーブンもみせてくれます。陶芸の窯のような大きなオーブンで焼かれたパンの試食もあります。このパンがまたおいしいのです。素朴で自然で、パン好きのわが子たちは大喜び。

ここでの牛たちは牧草育ち。もちろんホルモン剤は使われておりません。屋内ではなくアウトドアで生活しております。こちらで作られるチーズはこの牛たちのミルクでできています。だからとってもナチュラルでおいしい。牛肉の販売もしているそうです。

ツアーのないときでも水曜日から日曜日にはパンやチーズの販売をしています。

この牧場にきて一番うれしいのは、「ここなら私ひとりでも子供たちを連れてこられる」と思えたことです。それくらいに、子供たちをのびのびとさせてあげられ、私自身も息子の行動を心配することなく楽しめるのです。とても気軽にデイトリップができるわけです。「素朴」ってあるようでないものなんですね。私はここにきて初めてその素晴らしさに気がつきました。息子の障害を完全に受け入れることができなくても、この子は私の子。いつまでもママのゆうちゃん。これからもずっと一緒に歩いていきます。そして、疲れたらまたこの牧場に来ます。息子がいきなり走り出しても遠くに見える山までは逃げていかれない。大きな声で叫んでも誰も嫌な顔しない。ピョンピョン跳ねても人の邪魔にならない。ママの安らげる場所って子供も安らげるんじゃないでしょうか。私はそう思います。おいしいパンかじったら、また子供との生活が楽しく魅力的に思えてきました。

興味のある方はウェブサイトをご覧ください。ツアーの申し込みもウェブサイトからできます。www.cowsoutside.com

 

 

 

 

ENJOY 2009 癌告知2

癌告知 =大腸癌の手術=

 

先月号では「大腸癌の告知を受けたこと」について書きました。それに引き続き、今回はその「手術」について書きたいと思います。

癌の告知を受けてからは検査三昧の日々でした。というのも、ドクターからいきなり電話があり、「手術は来週の火曜日にと思うのですが予定はどうでしょう」と言われました。カレンダーをみてびっくり。来週の火曜日といったら五日後、ドクターと初めて会ったのが二日前。心も体も準備できていません。とにかく、日本から母が来るのを待たねば小さな子供たちを残して切腹などできませぬ。「もし可能であればあと1-2週間待って欲しいんですけど」と言ってみたら、「いつでもいいですよ。希望の日にちは?」とホテルの予約でも取るかのように受け入れていただき、結局諸々の都合で20日後に予約をいれてもらいました。「十分な時間があるから、できるだけの検査をしましょう。」ということで、CTスキャンMRI, 血液検査、レントゲン とまあ、あらゆる検査メニューを頂きました。最悪なのはそれらの検査のほとんどが「朝食抜き」。私にとって「食べてはいけない」ということが何よりの苦痛なのです。

そんな過酷な検査の日々を終えたある日、またもドクターから電話がありました。「怖がらせるつもりはないが、真実を伝えるべきだと思う」という切り出しで、すでに怖がらせてくれました。「肝臓にポリープが2つありました。これが癌なのかどうか検査する必要があります。それによって手術も多少異なります。肝臓に転移ということが明らかであれば、大腸の癌と肝臓の癌を一緒に取り除くことがベストでしょう。ただ、大腸のすぐそばのポリープは切除に問題はありませんが、奥の方にあるものはとても小さくお腹を開けてみたところで発見できるかどうかもわかりません。なので、PET スキャンの検査を受けてください。この検査でみるとそのポリープががん細胞であるかどうかがわかるのです。」ということでした。PETスキャンとは聞きなれない検査ゆえ、それが何物であるかを調べてみたところ、「ポジトロン断層法という陽電子検出を利用した断層撮影」ということだそうです。バリウム飲まされ、点滴打たれ、検査だけで疲れ果ててきました。

 

検査三昧な日々をなんとかこなし、無事手術の日を迎えました。早朝6時、病院に着きました。まずは手術着に着替えました。頭にパン屋さんの帽子みたいなをかぶると「ああ、私は手術を受けるんだわ」と実感がわいてきました。そして、腕に点滴。手術患者らしくなっていく自分にちょっと感激。次にきたのがナゾのシート。「お腹の手術を受ける人は手術前に血行よくするためにお腹を温めておくので、これを入れますね」と、うすっぺらいシートを手術着の下に入れられました。こんなでお腹あったかになるのかなあと思っていたら、いきなり足元に掃除機みたいなのを置かれ、そこにシートの端を接続し、温風を挿入。これじゃあ、布団乾燥機みたいじゃん、手術患者はこんなに空気でふくれあがっていないもん、と人に見せられぬ姿に不満を抱きました。しかし、この温風風船、入れていると気持ちのいいもので気持ちはポカポカ小春日和のようでした。ぬくぬくと風船に暖かく包まれていると、「手術っていいもんだな」と思えてきました。

待機する部屋に移動すると、麻酔医がきました。「では、もうひとつ点滴用のを腕につけるから。そこから麻酔を流すからね」と言われました。ひとつをすでに肘の内側に固定されており、点滴がつながっています。では、もうひとつをどこにつけるんだろうと思っていると、なぜだか麻酔医、私の手をみていたかと思うと、いきなり手の甲を消毒し始めました。「うそ、手の甲に点滴つけるつもりかい?」と思う間もなくブスッときました。痛いのなんのって。そしてゴリゴリと動かすから痛みも増すのです。挙句の果て、「だめだ」と言って絆創膏をはりつけました。今の痛みは無意味な痛み?そして次は手首から少し上にあがった辺りに狙いがつけられました。「がんばっておくれよ。もういやだよ、意味のない痛みは」と願っているとどうやら成功らしい。そしたら、いきなり、「動かないこと、いいかい、絶対に動くんじゃないよ」と言い残し、麻酔医が立ち去りました。腕をみれば、突き刺さった点滴用のチューブが固定されないままになっている。ちょいと、あんた、どうにかしておくれよ、と心の中で叫ぶ私。しばらくすると麻酔医が戻ってきて、テープの先を見つけようと必死で指でひっかいているのです。うっそぉ、針だけ刺しておいてテープ探しに行っていたわけ?ああ、アメリカン、すごすぎる。そして、そんなことにも文句ひとつ言わずにいる私、ジャパニーズはもっとすごい。私は布団乾燥機にぬくぬくしてもらっていたからいいものの、もしもそれがなく冷えてくしゃみでもしたら突き刺さったままの針はどうなっていたんでしょう。

「それでは行きますよ」と、私を乗せたベッドは手術室に向かいました。手術室に入ると執刀医がいました。私はこのドクターが好きです。おじいちゃんドクターなのですが、まじめできめ細かい。私をおびえさせることを言うんだけど、気がついていない。今日は何を言ってくれるかなとドキドキしていると、「PETスキャンの結果、肝臓のは癌ではなかった。だから予定通りの手術でいきます」と言われ、ほっとしました。初めての手術。手術室はドラマでみるような冷たい感じではなく、普通の診察室みたいな大きさの部屋にたくさんの機械や道具類。ただ、天井をみると大きな手術用のライトがあるから、「ああ、手術室だわ」と思えましたが、まさかここでお腹を切ったり縫ったりが行われるっていうのが信じられないくらいに和やか。看護婦さんに「手術台に移ってちょうだい」と言われ、運ばれてきたベッドから手術台に自分で転がり移動しました。時計をみると午前9時を少しまわっていました。病院に入ったのが6時、すでに3時間が過ぎていました。そしてそれからまもなく麻酔で私は意識をなくしました。

気がつくと、お腹が痛い。私は痛みに決して強いほうではないけれど、大声を出すのが大嫌いなのです。出産のときでもそうでした。隣の分娩室ではアメリカ人母親が怪獣だか猛獣だかのようなうめき声をあげていたのを、「あれだけは嫌だ」と思い、ひそかに痛みにたえていました。そして今回も同じこと。朦朧とした意識の中、それだけははっきりしていました。「大きなうめき声をあげない」と強く思っていました。しかし、痛い。そんな私はひたすらブザーを押しては看護婦さんを呼びつけ、「痛いんです」と訴えました。看護婦さんにしてみれば迷惑な話です。痛いながらにもまだまだ眠気も強く、痛み止めをもらうとまた寝てしまい、しばらくするとまた起きてブザーを鳴らす。その繰り返しをしているうち、ドクターが次から次へと来ては手術の説明をしてくれたのですが、授業中居眠りをしていて指された生徒のようなもので、返事をしながらも何を言われているのかさっぱり耳に入いりません。そうこうしていたら、看護婦さんが来て「やっとお部屋の準備できましたので移動します」と言われました。それで初めて自分がまだ回復室にいたことを知りました。

病室は個室。テレビも電話も自由。素晴らしい。腕の点滴2本もそれほど邪魔でなく、入院生活に希望の光を感じました。でも、考えてみたら、息子が生まれて以来、一人だけの夜というのは初めてのことです。よくも悪くも私はどんなときも子供と一緒に生きていることにあらためて気がつきました。「この子たちにはママがいなきゃ」と思っていたのが、実は「この子たちがいてこそのママ」だったのです。普段うるさいと思っていた子供の声の聞こえない夜はなんだか寂しいと感じました。

 

入院生活は途中までは快適でした。個室で自由、好きな時間まで起きていても文句も言われないし、早朝からテレビつけても誰にも迷惑かけない。そして、この部屋のベッドは高機能。とてもセンシティブなベッドで、私の微妙な動きにも反応するのです。寝返りを打つくらいの動きでもすぐに反応し、ギギーッと音を立てて足元や頭のほうが上がったり下がったり。すばらしい。さすが高機能ベッドは違う。たまに、起き上がろうとすると頭の方と足元の両方が上がってしまって、すぽっとはまってしまうこともあるけれど、文句は言えない、だって、高機能だもの。入院3日目、友達がお見舞いに来てくれました。ギギーと音を立てる私の高機能ベッドを怪訝そうに見ている彼女。「これね、すごい高機能だからね、動きにセンシティブなのね」と自慢を始めたら、彼女は一言、「このベッド壊れているんだよ」。そんなわけない!と反論を始めたものの、彼女の言うことのほうが理にかなっている。「これじゃあ、うるさくて眠れないでしょう。ベッドはこんなに動くわけないもの。」と。確かに、寝返り打つだけで音を立てて上がったり下がったりして熟睡できない。

このときを境に私の自慢の快適入院生活が変わってしまったのです。高機能だと思っていたベッドは実は壊れていたなんて。そういえば、よく血圧を測りに来た看護婦さんたちがギギーッという音と私の足先があがるのを不思議そうにみていました。壊れたベッド。そう思った瞬間からこのベッドは別物になってしまいました。

その日の夜、もともと調子の悪かったテレビのリモコンが動かなくなりました。夜8時、することもないのでテレビをつけました。そして、チャンネルを変えていたらいきなり動かなくなりました。仕方ないからテレビを消そうと思ったら、消すこともできないし、音量を変えることもできない。検温にきた看護婦さんに「リモコンが動かない」と告げると、「明日、テクニシャンに連絡するわ」と言われました。私はテレビをつけっぱなしで寝ることが嫌いなのです。というか、眠れないのです。しかたないので、目が疲れるまでテレビを見てそのまま眠りに落ちていくことを願いました。ところが、テレビではいきなりホラーが始まりました。画面いっぱいに写るおぞましい血まみれの顔。目を閉じても聞こえてくる「キャー」という悲鳴。これでは眠れない、と布団にもぐればベッドがギギーッと音をたてて動き出す。高機能でなくなった以上、この音は騒音なのです。入院中、痛みで苦しむよりもこのベッドによる不眠で苦しみました。

 

 大腸癌手術ということで私自身より周りの人のほうが心配してくださいました。当の私はといえば、入院中もこんなつまらないことで一喜一憂し、経過も順調で四泊五日で退院しました。手術三日後にはターキーサンドウィッチをほおばり、コーヒーを飲んでいた私、回復も順調です。しかし、残念ながらリンパに癌の転移が発見されました。抗がん剤治療を受けることになりました。症状もなく検査によって発見された私の大腸癌は初期だったそうです。それでもリンパへの転移がありました。みなさん、検査は早めに受けましょう。そして、もしも癌の告知を受けたとしても落ち込まないで。手術も入院も治療も、決して悪いことばかりじゃないですよ。いろんな発見があり、人生を見つめなおすいい機会にもなります。

ENJOY 2009 癌告知1

癌告知  =検査は大事=

 

うちの家系はとにかく癌が多いです。ふたりの祖父は肺癌で亡くなりました。叔父は食道癌で52歳の若さで亡くなりました。8年ほど前に母は子宮癌を患い、5年前に父が大腸癌、そして、去年叔母が胃癌と、それは問診表の「家族の病歴」の記入欄が足りないくらいにそろっているのです。というわけでドクターから「癌検査要」と言われ、乳癌と大腸癌の検査を受けることになりました。

「ま、安心のために受けておいて損はない」という思いで、検査の予約を入れました。まずは乳癌の検査です。マンモグラムという検査を受けました。2人の子供に母乳を吸われ、残るものは何もないはず、と思いきや、再検査の通知を受けました。「あのレントゲン技師、撮影失敗したんだわ」と思いながら再検査に行くと、「腫瘍らしきものがみつかったので右側だけ再度撮影します」と言われビックリ。ビックリしながらもまだまだ「まさか」の状態で待合室で結果を待っていたら、「やはり腫瘍があります。Biopsyを受けることをおすすめします。産婦人科医は誰ですか」と言われ、これはまさかかもしれないと思い始めました。すぐさま産婦人科医に電話すると「まずはスペシャリストに会うように」と言われ、そのスペシャリストの名前と電話番号を受け取りました。翌週、スペシャリストに会うまで私は生きた心地ではありませんでした。まず考えたことは手術のとき、子供たちをどうしようということでした。日帰りですむのか、もし入院となったら子供たちを誰に頼もう。「乳癌かもしれない」ということよりも、とにかく子供たちをどうしようということで頭がいっぱいになりました。それから、もしも乳癌だとして、再発の可能性はあるのか、あと一体どのくらい私は生きられるのか、子供たちが成人するまで生きられるのか。。。とにかく近い将来も遠い将来も子供のことが心配でたまりませんでした。母親ってこんなものですよね、自分のことよりも子供のことばかり考えてしまう生き物なんです。

スペシャリストに会うときは「乳癌だとして」という前提でいくつか質問を用意していきました。ところが、ドクターは写真をみるやいなや、「ああ、これは癌じゃないですね。いや、断言できませんが、90%は違いますね」と一言。「でも、ま、念のためにもBiopsy受けましょう」と。というわけで私はBiopsyを受けることになりました。Biopsyとは、細胞の一部を取っての検査です。歯の治療くらいの痛みです、と言われ、すーっと肩から力がぬけました。確率としては90%癌ではない、その検査も歯の治療程度とのこと、「入院しなくていいじゃん!」と、まだ検査も受けてないのにこのうえなくうれしく思いました。

Biopsy検査の予約はまたもその翌週。アメリカって、本当に早いですよね。みつけたらさっさと検査して悪いものは取り除く、という早さ、普段「ったく、アメリカ人はさあ」と思うことが多い中、こういう姿勢は感心します。いつものごとく、息子が学校に行っている間に、娘は病院の託児施設に預け、検査を受けに行きました。わが娘、この託児施設の人ととても仲がよく、預けるときも笑顔で手を振ってくれるので安心して検査を受けられます。さあ、この検査をパスしたら自由の身だ、と思いながら挑んだ検査、歯の治療なんてとんでもない、痛いのなんのって。ドクターが、痛みに歪む声なき私の顔をみて、「もしかしてすごく痛い?麻酔足りないかもしれないわ。」と麻酔を追加してくれたもののすでに痛みがまわっていて麻酔なんて効かないのです。やっとの思いで検査を終え、穴のあいた胸にガーゼをはり、女柔道選手のように胸にぐるぐるに包帯を巻かれ、「今日は5ポンド以上のものを持たないこと」と言われました。無理です、無理です、今から娘をカーシートに乗せるとき抱き上げないといけません、もしも寝てしまったら抱いて家の中に運ばないといけません、絶対に無理です、と言ってはみてもどうしようもありません。娘に「カーシートに座って、ママ抱っこして乗せれないから自分で上って」と言い聞かせ車にはなんとか乗せたものの、やはり車内で寝ました。さて、家につきましたがこの子をどうしましょう。母親にはドクターのお言いつけを破らなければならないこともあるのです。娘を抱き上げ、家の中へ。いつもは何気に抱き上げていたのに、なぜかこのときは「ああ、この子も大きくなったなあ」としみじみ思いました。ほっとしてる間もなく、息子のスクールバス到着。ああ、なんてことでしょう。息子がバスの中で寝ています。またも大きく成長した息子を抱き上げ、通りを渡って家の中へ。ふたりが寝ている間に愛犬を裏庭に連れて行き、ふとシャツをみると、「おお、血、血、血が。。。」そうです、血が噴出していたのです。家に入ってよくみたら、胸板厚く巻いてあった包帯をもにじませるほどの出血。といってどうしたらいいものか。二人の子供を連れて病院に戻るのは大変なので、それは嫌。というわけで、子供たちの助けを借りることに。3歳の息子と2歳の娘を座らせると、「みて、ママ、怪我したの。痛いの、ここ」と血まみれの包帯を見せました。いつもは怪獣のようにとびかかってくるふたりですが、これはいつもと違うぞと感じたようで、「ママ、いたた?」と心配してくれました。以来、今でも娘は私の胸みると「ママ、ケガしたのね、いたたね」といいます。いくら小さな子でも母親が真剣に語れば通じるものなのですね。血まみれになりながらも大変協力的なわが子に感心してしまいました。「ああ、検査受けてよかった」と別の意味で思いました。

結局、検査結果は「がん細胞ではない」ということでした。しかし、私の右胸、今でもチタンの破片が入っています。別にドクターのミスで落としたわけではなく、検査を受けましたと後々わかるように入れてあるそうです。血まみれになっている私の手伝いもせず、胸にチタンが入っていると言えば「ロボットみたいだな」と笑う夫、2歳3歳の子供たちよりももっともっと子供だとあらためてわかりました。検査受けて本当によかったです、いろんなことがみえてくるものです。

さて、乳癌ではないとわかったので、次の指令は大腸癌の検査です。自慢ではありませんが、私、腸は丈夫です。20代の頃、タイに住んでいたとき、パラチフスにかかり、隔離病棟で入院したことがあります。退院するときにドクターから「もう赤痢くらいはなんともないですね」と肩をポンと叩かれました。以来、本当に腸には誇りを持ってきました。便秘はしない、下痢してもひどくはならない、「快食快便快眠」と豪語してまいりました。なので、大腸の検査なんてどっちでもいいやと思いつつも、異常のないことを証明するためにも検査を受けました。全身麻酔内視鏡での検査でした。検査のあと痛みもなく、ただただ素晴らしき目覚めでした。ドクターが「ポリープがふたつありました。小さいほうはすでに切除しました。大きいほうは2センチ以上あり、切除はできなかったので、細胞を取り、Biopsyにまわしました。そのポリープには後でわかるように青いインクでタトゥーをつけました」と言われました。ショックでした。私はタトゥーがとても苦手で、主人と結婚した一番の理由はタトゥーがなかったからというくらいなのに、私の体内にタトゥーが。。。ドクターから渡されたポリープの写真をみると、青いタトゥーがしっかりと刻み込まれていました。私の親戚家族には一人としてタトゥーをした人がいないというのに、ああ、私は別世界の人になりました。

タトゥーを嘆き悲しんでいる私に届いた検査結果は、「癌です」でした。予約を早めてすぐに来るように言われたので、「もしかして」とは思っていたのですが、ドラマでみるような感動的な告知シーンはなく、ドクターは中耳炎でもみつけたかのように普通に「癌ですね。さてと、それでは手術医とアポをとらなければならないですね」と淡々と話を進めていくのです。私もつられて「あ、そうですか、はあ」といったものです。嘆くのはタトゥーのときだけで、癌の告知を受けてから情緒的なものはありません。手術に向けての検査に追われる日々です。あまりの忙しさで落ち込む暇もないくらいです。みなさん、検査は症状のないうちに受けておきましょう。別の意味でも「ああ、受けてよかった」と思うこともありますから。来月号では手術について書きたいと思います。

ENJOY 2009 レストラン紹介 GAM MEE OK

GAM MEE OK

 

私にとって韓国料理はとても遠いものでした。はっきり言って嫌いとも言っていました。「何食べたい?」と聞かれると、「ゲテモノと韓国料理以外ならなんでもいいよ」と答えていました。なぜ好きじゃなかったのかというと、それは単に食べず嫌いというだけで、あの赤くてガーリックのにおいいっぱいの、と想像するだけで嫌になっていました。

去年くらいから韓国スパに行くことが多く、そこの2階にあるレストランからいいにおいがしてくるので、韓国料理とはなにぞ、と興味を持ち始めました。セルフサービスのレストランに行き、周りの人の食べているものをそっと観察。でも、一体みんなが何を食べているのかさっぱりわからず、結局聞いたことのある名前の料理「ビビンバ」をオーダー。ご飯が小さな器に入れられ、別に大きな丼に具が入っていました。「え、これ、どうやって食べるの?」という顔していたら、お店の人が「これはご飯と共に食べるのです」と言われました。「ご飯と共に」って、「ご飯とおかず」っていうふうに食べるのか、ご飯を混ぜて食べるのか。。。悩みに悩み、「まさか全部ごちゃまぜにするなんておかしい。ご飯とキュウリの千切りが一緒になるのは変だ」と、これまた勝手な結論に行き着き、ご飯を食べては丼のおかずを食べていました。その丼のおかずには味はほとんどありませんでした。後で友達に話したら、「ありえない。ビビンバをご飯とおかずとして食べるなんて。味が薄いと思ったら、コチュジャンでもごま油でもかけて味を自分で整えなければ。」と言われました。

こんな私をかわいそうに思った友達が連れて行ってくれたのが、この「Gam Mee Ok」。ここで私は初めて韓国料理のおいしさを知りました。韓国料理好きの日本人はたくさんいるし、私なんかが語るよりはるかに韓国料理通の方がいらっしゃる中、あえてこのお店を紹介しようと思ったのは、韓国料理に偏見を持っていた私がこのお店で韓国料理に目覚めたのです。そう、最近の私、週に1-2回は韓国料理食べています。

ということで、今日も「Gam Mee Ok」へうかがってまいりました。まず、このレストランの素晴らしきところは品がいいところです。迎えてくれたのはマネージャーのChrisさん。こちらのお店はマネージャーが2人いらっしゃいます。午前の部はChrisさん、午後の部はJimmyさんが担当なさっています。店内は落ち着いた雰囲気で、落ち着いた韓国の音楽が流れています。とてもきれいに掃除されていて、くつろげる場でもあります。私が行くときはいつもお客さんがいっぱいで、楽しそうな会話が聞こえるのですが、騒がしいという雰囲気はなく、とてもすてきなレストランです。

席に案内されると、暖かいお茶が出されます。そして、生の白菜。特製の味噌ペーストにつけて、食べます。私は白菜を生で食べたことはなかったのですが、これがかなりいけることをここで知りました。

続いて、壷入りキムチ。私はキムチが苦手でした。臭くて辛くて。。。という思いしかありませんでした。しかし、ここのキムチは格別です。壷にはいったキムチを目の前でウェイターさんが切ってくれるのです。白菜キムチ、大根キムチ、どちらも最高です。なにせ、こちらではキムチ作りにじっくりと手間をかけてあるのですから。下ごしらえに12時間、特性のキムチのたれに漬け込んで7日間。「大事なのは温度を保つことです。ワインのように、一定の温度を保つことでおいしいキムチができあがるのです。一番いい温度は40度(華氏)です」とChrisさん。キムチとは不思議なもので、それまでどんなに拒んでいても、いったんその味にはまってしまうとキムチなくして食事はありえない、とまで思えてしまうのです。こちらでキムチを思い残すことなくいただいても、翌日には「またあのキムチが食べたい」と思ってしまうくらいです。私のように翌日にはキムチが恋しくなる人のためにTake Outのキムチもあります。Take  Outキムチ:白菜キムチ(32OZ)$6.95、大根キムチ(32OZ)$6.95

 Bin Dae DDuk (チヂミ)1枚 $3.95。にんじん、玉ねぎ、ネギ、もやし、豚ひき肉が混ぜ込まれた韓国風お好み焼き。アツアツのチヂミを特製しょうゆダレにつけていただきます。

ビーフBBQ (バーベキュー)$18.95。鉄板の上でジュージューと音を立てている骨付き肉。テーブルでウェイターさんがチョキチョキとお肉を食べやすい大きさに切ってくださいます。うっすらと甘みのある味で漬け込まれたリブ肉はとてもやわらかく、ジューシーです。

Dolsot Bibimbap (石焼きビビンバ) $13.95。これは私が始めてこのレストランに来たときにいただいて、私を韓国料理の世界に引き込んだ一品です。これまたジュージューと音を立てながらテーブルに運ばれてきます。15分も火で暖められた石焼きの器は食べている最中も、食べた後もアツアツ。ご飯を器に入れて暖めるので、クリスピーなおこげができ、香ばしさを出しています。ご飯の上には数種類の野菜、ビーフ、そして生卵の黄身が乗っています。それら全てをかき混ぜていただきます。そうです、ご飯と具は別々に食べてはなりません。生の黄身をみたとき、一瞬「え」となりました。でも、このジュージューアツアツの器の熱で卵に火が通ってしまうのです。コチュジャンという韓国風スパイシー味噌を少し入れていただくとおいしいです。コチュとはペッパー、ジャンはSoy Paste(味噌)という意味だそうです。

Sul Long Tang (ソーロンタン) $9.35。このレストランの人気の味のひとつとしてソーロンタン。「ご飯とヌードル入り白い牛スープ」なのですが、これがまた味わい深い。さすが12時間煮込んだ骨付きOXスープには臭みがありません。骨の隋からでるコラーゲンはお肌によく、韓国人女性が若く艶やかな肌をしているのはこのソーロンタンを食べているからではないか、といわれるほどです。骨から出るエキスによってスープが白くなるそうです。各テーブルには刻みネギと塩、胡椒がおいてあり、それらをスープにいれて好みの味に調整します。

1990年の創業のGam Mee Ok。24時間営業の休日なし。入ってすぐの受付の女性、黒いシャツに赤いネクタイ姿のウェイターさんたち、従業員のみなさんの対応はすばらしく丁寧で、気持ちよく食事を楽しめます。それにしても24時間営業とはなぜ?とマネージャーのChrisさんに聞いてみると、「うちはスープを24時間ずっと火にかけています。なので、誰かが常にお店でみていることになるので、それならお店を開いておいてもいいだろうということで、24時間オープンにしているんです」とのこと。キムチもスープもこれだけしっかりと時間と人の目を費やしているからこそ、あの味ができあがるのでしょう。韓国料理大好きな人はもちろん、「韓国料理なんて」と思われる方も、是非Gam  Mee Okへ。一日にして「キムチなくして食事はありえない」となるかもしれませんよ。

 

 

 

GAM MEE OK Korean Restaurant

485 Main Street、Fort Lee, NJ 07024

Telephone: (201)242-1333

Fax: (201)242-5529

24時間オープン

 

ENJOY 2009 レストラン紹介 MEXICALI ROSE

MEXICALI ROSE (メキシカンレストラン)

 

私の住む街、Montclairにはたくさんのレストランがあります。Montclairはユニークな街で、Upperは豪邸の立ち並ぶ高級住宅街、そして私たちが住むあたりは庶民の下町のような風情で、それがひとつの街をつくりあげています。それゆえ、庶民的なおいしさから高級レストランまであるわけです。我が家から車で3分のところにメキシカンレストランがあります。半年前にオープンしたばかりですが、いまや「No.1メキシカンレストラン」と2つの地元マガジンで選ばれたまさに近所のおいしいレストランなのです。和食党なんですよ、と人に言いながらも実はメキシカンフード好きな私、早速うわさの「No.1」を求めて行って参りました。

 

腹ペコの私を迎えてくれたのは、笑顔がとびっきり素敵なマネージャーのジャックさん。気取らないけど、静かで品のある雰囲気の店内。入ってすぐには長いカウンターバーがあり、奥に入るとダイニングルームがあります。その横にはサンルームのようなガラス張りの明るく広いお部屋。そこでも食事ができるのですが、私が感動したのはそこに置かれたサボテンと共に育っているハーブたち。たくさんの日の光を浴びて、すくすく育っておりました。お料理にも使われているこのハーブたち、ウェイターのみなさんが手入れして育てているとのことで、お料理をいっそう引き立てているように思えました。

静かなメキシコ音楽が流れ、ウェイターさんたちの丁寧な応対、このレストランにはゆっくりとした時の流れを感じました。とてもありがたいことです。ゆっくりと食事を楽しむことにより、お料理が「おいしい」と感じるわけですから。それでは私がいただいた「No.1」を紹介いたします。

 

飲み物

こちらはアルコール類はおいてありません。BYOBです。私たちがいただいたのは「ストロベリーマルガリータ」と「ピナコラダ」(どちらも3ドル)です。フレッシュジュース始め、種類は豊富にありますので、選ぶのに困ってしまうくらいです。

 

 Guacamole (2人分 7.45ドル)

みなさん御なじみのコーンチップスにつけて食べるアボガドのディップ。私はこれが大好きなのです。食べ始めたら止まらない。アボガドがとても新鮮でおいしいので、食事が続いている間中、つまんでいました。「まずはGuacamoleから始めて。。」ではなく、「Guacamoleを食べたい」と思ってしまうくらいに存在感のあるスターターでした。

 

 Ensalada Con Almendras (7.95ドル)

サラダです。ミックスレタス、ドライクランベリー、キャラメルがけアーモンド、ヤギのチーズ、をスパイスのきいたバルサミックビネガードレッシングでからめてあります。アーモンドの香ばしさとクランベリーの甘みがビネガーに混ざって味を引き立てています。ヤギのチーズは初めてだったのですが、臭みがなくおいしくいただけました。サラダの基本なのですが、レタスが新鮮なのでドレッシングでしおれてしまうことなく、シャキッとしていました。

 

 Shrimp Queso Fundido (11.95ドル)

エビのチーズフォンデューです。チーズは2種類のメキシカンチーズが使われております。エビにチーズがからまり、それをあったかいトルティーヤで巻いていただきます。エビが新鮮でプリプリした歯ごたえ。多くのレストランではシーフードの仕入れは週2回くらいのところ、こちらではほぼ毎日のように週4回はシーフードを入れているから新鮮だとのこと。

 

 Chicken Adobo

アツアツのトルティーヤにチキンとヤギのチーズがはさまっており、それをアドボソースにつけていただきます。このアドボソースとは、パイナップル、マンゴー、オニオン、ガーリック、オレガノなどのスパイスでできた甘くてスパイシーなソースなのです。マンゴーとパイナップルの甘みがしっかりしていて、かつスパイシーなので、味の薄いチキンとあわせるとパーフェクトな組み合わせになるのです。

 

 Rosemary Pork Tenderloin (17.45ドル)

数日間ハーブでマリネされたテンダーロインポークのグリル。こんなにおいしいポーク料理は初めてです。豚の臭みがなく、柔らかくてジューシーなのです。ナイフで切らなくてもスプーンやフォークで十分に切れてしまうほどです。ブラックベリーとハニーをベースにしたソースがまたおいしく、ポークにピッタリ。甘くて少しスパイスが効いたソースです。付け合せは、プランタインとマッシュポテト。プランタインは油で揚げてあったのですが、全然くどくありません。一見グリーンバナナのようなプランタイン、味もほんのりバナナの香りが漂い、甘みのあるおいしさでした。

 

デザート

入れたてのおいしいコーヒーと、フライドバナナチーズケーキ。フライドバナナチーズケーキとは、バナナを軽く炒めてそこにオレンジジュースなどを混ぜて、さらにそれをチーズケーキと混ぜ、そしてトルティーヤで包んでさっと揚げたものです。ラズベリーソース、キャラメルソースがかかり、アイスクリームが添えられています。トルティーヤがパリパリに揚がってまるでパイのようです。バナナの風味がしっかりとチーズケーキとなじんでなんともいえない味わいです。アツアツケーキと冷たいアイスクリームの組み合わせも素晴らしく、相対するおいしさといったところです。

 

オープンからたった半年で地元のNo.1メキシカンレストランになるということは、他にはない魅力があるのです。メキシコ料理といえばタコスなどを思うのですが、実際メキシコ料理はもっとたくさんのおいしいものがあるのです。もちろん、こちらでもそういった代表的なものもあります。でも、それだけでなく、「えー、メキシコ料理ってこういうものもあったんだ」と驚かされる一品が豊富に揃っています。こちらの一番の魅力は、新鮮な素材を使って、グッドクオリティーにしあげているところです。とにかく野菜も肉もシーフードも素材の全てが新鮮なのです。ハーブを使うことで濃すぎない、素材を生かした味に仕上がっているのです。マネージャーはじめ、ウェイターのみなさん、とてもフレンドリーで、しっかりした応対をしてくださり、気持ちよくお食事をいただけるのも魅力だと思います。食事をおいしくいただくのは、新鮮なものを上手に料理してあること、プラス食事の雰囲気も大きく影響すると思います。とっても素敵な「No.1」レストランですが、小さなお子さんも大歓迎、ハイチェアーもあります。家族で、または特別なディナーに、のんびりと流れる空間での「No.1」の食事は最高の贅沢となることでしょう。

 

 

MEXICALI ROSE

10 Park Street, Montclair, NJ 07042

Phone (973)746-9005

Sunday – Thursday: 11:00am – 11:00pm

Friday – Saturday: 11:00am – 12:00am

 

Delivery Hours

Sunday – Thursday: 5:00pm – 10:00pm

Friday – Saturday: 5:00pm – 11:00pm

 

www.mexicaliroseonline.com