ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2019 家族の決断ーうちの場合ー1

家族の決断―うちの場合―1

 

 先月号でも少しふれましたが、実は父が癌を患っております。うちは父方の祖父、叔父、叔母、家系をみてみますと、遺伝的に癌を患うのは避けられないようでして、父は大腸癌、胃癌を経て、今は前立腺癌、肝臓がん、そして肺にまで転移しております。ちなみに私自身も11年前に大腸癌を患いました。父は大腸癌を患って以来、毎年のように大腸にポリープができては切除するということを繰り返してきており、数年前に胃癌を患った際も「ああ、またか」というくらいに大きな不安や心配をすることなく過ごしてきました。昨年、前立腺癌が発見された際も「なんとかなるか」と安易に考えておりました。しかし、事が深刻になってきたのは、肝臓癌が発見されたときからです。昨年の検査ではなにもなかった肝臓に8センチという大きな腫瘍があることで私たち家族は愕然としました。なぜ、たった一年でこんなに大きな腫瘍が。。。

 高齢のため、摘出手術はできないことから、父は放射線治療、ホルモン注射、カテーテル挿入による治療を受けてきました。高齢の父にはどれもきつい治療でした。それでも治療の合間にはうちに来ては娘の帰りをむかえてくれていました。「大丈夫?しんどくない?」ときくと、「このくらいじゃまだ大丈夫だ。歩けなくなったらもう来れないけど、まだ大丈夫だ」と言いながら、夕やけの中を帰っていきました。

「明日から入院だ。またなんだかきつい薬を飲むらしい。しばらくは来れないけど、また来るから。」と、父は入院前日もうちに来てくれました。その日がこんなに大きな意味を持つ日となるとは思ってもいませんでした。父が言うきつい薬とは抗がん剤のことでした。入院した日の夜、病院に付き添った弟から電話があり、「肺に転移してしまったらしい。抗がん剤治療らしい」と知らせを受け、私は事の大きさを実感しました。その入院を境に、つまり抗がん剤治療を境に、父はどんどん衰弱していきました。入院中、抗がん剤を投与しながら、放射線治療を受けていました。お見舞いに行くと、疲れ切った顔をした父がベッドに横になっていました。「俺は入院が嫌だ。早くうちに帰るため、がんばっているだけだ」と必死になっていました。

 退院後も抗がん剤投与、放射線治療は続きました。父は日に日に衰弱していくようで、固形物も喉を通らないくらいになっていました。それでも、毎日放射線治療に通院していました。

 病気というのは患者本人だけでなく、家族をも苦しめるものです。父の状態が悪化すると、今度は看病している母や弟の心も病んできました。「食べなきゃ死んでしまう」と必死で父の食べられそうなものを用意しても、父は抗がん剤の副作用で味覚が変わってしまい食べられないのです。私は自分が抗がん剤治療で味覚が変わった経験があるため、なるべく味が抵抗なく口に入りそうなものを感じることができ、そういったものを持っていくと父が食べるのです。母は「せっかく作ってもお父さんは食べないのに、あんたが持ってくるものは食べるんだ」といらだちを感じるようになりました。父はめまいを感じるようになり、寝室やお風呂で転倒してしまいました。それでも必死で歩こうとする父に私が杖を用意すると、母や弟は「そういうものが必要ならなぜ一緒にいる自分たちに言わないのか」といらだちを感じました。母は私がお見舞いに訪れることに対して不快な気持ちを出してくるようになりました。そうなると、母と私の間で父が苦しくなりました。私は実家に行かないよう、父に会いに行かないようにしました。毎日、父がどうしているんだろうと考えるばかりとなりました。

 病気は身体的な苦しみだけでなく、心までも苦しくなります。私はどんどん小さく縮んでいく父をみていると悲しくて、思い出すのは父が元気に動いていたころのことばかりでした。「お父さんの病気はもう治りません」と医者から言われているため、いつか「あのときは苦しかったけど、よかったね、治って」という未来の希望は持てないのです。このまま、父は苦しいままいつかいなくなってしまうのではないか、と思うと、父が入院前日にうちの玄関で靴を履いていた姿がよみがえってきて、私の心が苦しくなるのです。

 父が医師との予約の日、母と弟が付き添いました。もう歩くことができない父は車椅子での移動となり、医師は2週間ぶりに見た父の姿に驚愕したそうです。医師は父のあまりの衰弱ぶりにあわて、いろいろな書類を取り出しチェックし、「申し訳ない、抗がん剤の量を計算間違いしていたようだ。しばらく抗がん剤は休みましょう」と言われたそうです。その日の夕方、私は開業医の従兄を訪ねました。私は椎間板ヘルニアがあるので定期的に従兄に薬を出してもらっています。診察という名目のもと、実は父のことを相談しに行きました。従兄から「で、どうする?最期は病院?うちで看取る?」と言われたとき、私は血の気が引きました。わかっているのです、父の癌は治らないと。でも、まだあと数年はそばにいてくれると願っていたから、最期の話をされても。。。「っていうか、うちのじいちゃん、そんなにすぐにいっちゃうの?」「まあ、実際の数値をみないとわからないけど、長くはないよ。年単位の話じゃないよ。在宅ならぼくが診るよ。ぼく、専門だから、おじさんのことは診るよ。」

 私たちに決断のときがきました。抗がん剤を続け、最期は病院で迎える? それとも延命治療はやめて自宅で看取る? 父はどうしたい? 私たち家族はどう思う? 私は父には一日でも長く生きていてほしいです。父はどうなんだろう。母や弟は?そして、私たち家族はひとつの結論を出しました。「もう抗がん剤は受けない。入院もしない。うちで自然な形でいずれ訪れる日を迎える。おお君(従兄)に診てもらう」それが父の望む残りの時間の過ごし方で、そして私たち家族は父の思いを尊重しました。家族がひとつにまとまりました。