ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2015 去年の私

去年の私

 

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。昨年はみなさんにとってよい年でしたでしょうか。私にとっては本当にめまぐるしくあわただしくという言葉がピッタリなくらいにいいこともそうでないことも駆け巡るような年でした。大腸癌の手術から5年が経ち、ある意味大きな節目の年でもありました。たくさんの出会いもありました。ぶち当たる壁もありました。残念ながらどんなときも私には余裕もなくその日一日を過ごすのが精一杯で、ひとつひとつのできごとを感じることもないまま一年がすぎてしまったというのが本当のところです。気がついたらクリスマスが過ぎようとしていたという感じです。昨年一年をちょっとだけ振り返ってみたいと思いますので、みなさんお付き合いください。

シングルマザー

 言葉としていうとなんだかしっくりこないのですが、私は正式にシングルマザーとなってはじめての年明けでした。それまでも元夫とは別居生活が長かったわりに別居してからは仲のよい関係を続けていたので、どこからシングルになったのかという実質的な線引きが難しいのです。日本において離婚すると親権は単独親権となり、子供たちは片親を失うような形になります。うちはそこはアメリカンで、共同親権のもと、子供たちは父親も母親も失うことなく育てております。複雑なのは日本で「だんなさんはアメリカ人?」ときかれた際に、「あ、うちは離婚しているのでだんなではないんですけど、元夫はアメリカ人です」とこたえると、決まって「あ、ごめんなさい。そういうつもりでは」と言葉を濁されることです。いやいや、離婚してなにが悪いか、と聞きたくなる。シングルマザーとなり、大変なのはやはり日常生活における時間のなさです。とにかく忙しいのです。うちは子供たちがまだ小学2年と3年。しかも息子は自閉症。「子育てはみんな大変。でも、それもあっという間のこと。」なんていわれるとため息が止まりません。幼い頃はおそらくどんな子も大変だと思うのですが、年齢があがってくると健常な子供と自閉症の子供とではあきらかに大変さが異なってきます。たとえば子供が小学2年3年となれば、「おうちに帰ったときもしもママがいなくても2分以内には戻るからちょっと待っていて」と言っておけば、帰宅してドアが開かなくても玄関前で1-2分は待っていられるでしょう。でも、自閉症の息子にそれは危険です。なにがどうあれ、息子を戸外にひとりで待たせることはできません。なので、私が動ける時間は制限されます。日本のクリニックでは午後の診療は早くて2時から遅いところは4時からでないと始まりません。午前中仕事して午後からちょっとお医者さんに行って来たいと思ってもなかなか行かれません。4時から予約なしでは一体何時に終わることかわかりません。では午後7時に子供をみていてくれる人がいればその時間から診察にいけばいいのですが、うちはそうもいかないので「ちょっと診てもらいたい」くらいではお医者さんには行かれません。夜は夜で闘いで、子供たちの世話もまだまだ手がかかるため、夕飯がおわると後片付けをしながら、子供たちの歯磨きの仕上げをしながら、お風呂の掃除をしながら、と3つ4つのことを並行しています。食後ゆっくりしていようものなら息子がソファーで眠ってしまい、それこそ大変なことになります。「ゆうちゃん、起きて。歯磨きしてないよ。お風呂に入ろう。まだ寝ちゃだめ」と起こしたものなら、また嵐です。一日が終わるとヘトヘトに疲れ果てる息子なので、うとうとしているところを起こされると寝ぼける上に、愚図るし、それこそ台風のごとく荒れるのです。なので、うとうとが来る前にとにかくお風呂までは入らせておかないといけません。子供たちがお風呂から出ると、やっと一息です。だからといってそこでゆっくりもできません。翌朝5時半から起きても出かけるまでの3時間忙しくて余裕ないのですから、洗濯は夜のうちに済ませておく必要があります。子供たちが寝てから、洗濯をまわしながら、私はお風呂に入ります。お風呂から出たら、洗濯を室内に干して、それでやっと私の一日が終わります。もしも子供の仕上げ歯磨き、お風呂での体洗いやシャンプー、夕飯のあと息子の相手をしてうとうとさせない、そんなことをみてくれる人がいたら、私はここまであわただしくないのでしょうが、シングルマザーですから、ひとりでやるしかありません。こんなふうに毎日追われるように過ぎていくのです。だからといって私は毎日、不幸か?といえば、絶対にNoです。私は多分、こういうめまぐるしい忙しさをどこかで選んでいるのです。家の中は毎日掃除機をかけてないといや、洗濯物は絶対にためない、子供たちの身辺はきれいにしておいてあげたい、ベッドはちゃんとベッドメイキングできていないといや、食事は絶対に家族3人で一緒に食べる、私は自分で規則を作り、それを守っているだけなのです。それを守れないと自分が自分でなくなるという気がするのです。シングルマザーだから、息子が自閉症だから、私が忙しい理由はいくらでもあります。でも、シングルマザーでも子供が自閉症でも、自分が自分を許せばもっとゆっくり時間はとれるのかもしれません。先日娘に「ママはすぐ怒るね」と言われました。自分のルールに従おうとするあまり、それを阻止するかのように振舞う子供たちに苛立ち、私は子供を怒る裏で自分を束縛していたように思えました。束縛が苦しくて逃げたい私が、子供には「すぐに怒るママ」と見えていたのかもしれません。今年は少しだけ忙しさを省ける生き方を選びたいと思います。時々は仕事を早退して昼寝してみよう。時々は掃除機かけない日があってもいい。そして、子供たちを自立する手助けをして、ちょっとだけ楽しよう。

Tod

 私はずっとひとりで生きていけると自負していました。「いい母親でいたい」「強い人でありたい」それだけの私でした。たしかに私は強かった。考えてみると、最初の子供を亡くしたときも、息子の障害がわかったときも、だんなの浮気をみつけたときも、大腸癌を患ったときも、私はひとつひとつのハードルを飛び越えるように乗り越えてきました。痛みをいつまでも引きずりませんでした。だから、私は自分は強くあるべきだと自分に言い聞かせてきました。私は聞き分けのいい人でした。だから、ずっとひとりで強く生きてきました。でも、そんな私がちょっとだけ弱くなるときが訪れました。3月、私の誕生日の数日後、Todと知り合いました。彼は知り合ったときから私の弱さを見抜いていました。私は離婚したあとも「子供さえいたら私は幸せ。それで十分」と思ってひとりで生きていく覚悟をしていました。Todはいつも私の話を聞いてくれました。もうどのくらいの間、私はひとりですべてを抱え込んできたのでしょう。堰を切ったように私は自分の人生に起きたことを振り返り、彼に話すようになりました。一番ドキドキしたのは息子の障害を話した時です。健常の子供のようにはいかない自閉症児を持つ親は再婚や恋愛から遠ざかるのも事実です。私はそれで遠ざかる人ならそれまでだと覚悟を決め、息子のことを話しました。彼は「なんだそういうことか。それは全く問題ないよ。実際、僕の息子も子供の頃言葉がでなくて、自閉症ではないかと疑ったことがあったし、おそらく彼もボーダーだろうな、今は普通に生活しているけど。なんだ、もっと君のすごい秘密かと思ったよ。子供はどんな子でも天使だよ。」とサラリと受け入れてくれました。以来、彼は息子のことを理解し、気にかけてくれています。彼はずっと前に離婚して以来20年近く独りで生きてきました。だから、どこか自由人で、母親として毎日子供をみている私からすると、「一体どこに行っていたの?」ということが度々あります。彼はカリフォルニアに住んでいるので会えませんが、毎日のようにSkypeをつかってテレビ電話で会話しています。そのSkypeでの連絡が時々途切れてしまうことがあるのです。それでも2-3日もすると何もなかったかのように連絡が入るのです。そういう彼の気ままさに慣れるのに数ヶ月かかりました。「もう別れよう。毎日連絡とれる人と付き合おう」と何度思ったことでしょう。それでも、彼から無邪気に「久しぶり。僕と話せなくて寂しかった?」と言われると離れられずにきました。春が過ぎました。そして暑い夏も過ぎました。毎日彼と話すことで私は自分の中にある弱さと向き合うことを知りました。笑いました。泣きました。時々ムッとしました。そういう人間らしさを思い出させてくれました。強い鉄人ではなくなりました。秋になる頃、時々連絡がつかなくなることに寂しさを感じました。私は「人に会えなくて寂しい」なんて感情があることすら忘れていたので、そういう思いに戸惑いました。いったん表れたこの感情を抑えることもできず、どう対応していいものかもわからなくなりました。出会ってから7ヶ月が過ぎたとき、私は彼との間に距離をおくことにしました。知り合って以来ずっと彼に寄りかかってきました。寄りかかりすぎたのかもしれません。これが続くと私は彼に対して「もっと話したい」「もっと会いたい」と欲求が高まり、最後には彼からうっとうしい存在になってしまうのではないかと思いました。友達に戻ろう、そう思いました。そしたら、私は欲求を高めることなく、彼は私をうっとうしいとは思わず、このままいい関係を保っていかれるのではないか、と考えたのです。私は彼を一生失いたくない人だと思っていました。そのためには自分の欲求を抑える必要がありました。そして、私は彼に「友達になろう。これ以上今の関係を続けたら、私はあなたを失うことになる。それだけは避けたいから」と言いました。彼にとっては寝耳に水のようだったかもしれません。いつものように2-3日好き勝手に消えていて、戻ったら私から別れを切り出されたようなものですから、相当びっくりしたようです。でも、私の中ではそれは別れではなく、お互いにいい関係を保っていくための関係の変更みたいなものでした。だから、お互いがすれ違うばかり。私は相変わらず毎日電話をかけました。それは友達に電話して雑談するような感覚でした。でも、彼にとっては別れた彼女からどうして毎日電話がかかってくるのだろう、と戸惑ったようです。これまた不思議なのは、そういう戸惑いの関係を私たちは1ヶ月も続け、その間の電話でも彼はうちの子供たちが元気でいるか心配してくれていました。1ヶ月もするとさすがにお互いに「これが別れ?」と意識してきました。よりよい関係を維持するためにと関係を変えたのに、結果として関係がなくなるのでないか。ある日ふと私は思いました。私はもう強くは戻れない、と。何年間も強く生きてきたのに、知り合ってまだ1年もたたない彼は私の生き方を変えてしまっていました。そうして1ヶ月間続いた「ただの友達」関係もあっけなくまた元の関係にもどりました。会えないのは寂しい。でも、誰かがいるという思い、私だけでなく私の大事な子供たちのことを含めての私のすべてを受け入れて理解してくれる人がいると思うことで私は強さを越えた弱さを持っていられるのです。もう若くありません。今は離れ離れで暮らしているけれど、これから先、一緒に年をとっていく相手がいることは心強いものです。そういう人と出会えた昨年は私の人生の大きな節目となりました。

 今年も私たち親子は些細なことで騒ぎながら一年過ごしていくような気もします。ゆっくりながらも息子は成長しております。ついこの間まで赤ちゃんだった娘は口達者なちびっ子ママになりつつあります。そして、私はこれからも毎日がんばって生きていきます。今年もみなさんにとって、そして私たち家族にとってもなにか大きな収穫がある年になりますように。