ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2015 思い出の旅

思い出の旅

 

 先日アメリカから友達のアニーが観光がてら会いに来てくれました。アニーとはいくつかの共通点があるせいか、ずっと仲良くしてきた友達です。「いつかジュンコのいる日本に行くから」と言い続けて五年、やっと来てくれました。「歴史的、文化的なものを見て回りたいから京都、奈良、宮島、広島、大阪に行こうと思うんだけど、ジュンコの時間さえあれば一緒に行かないかな」と誘われました。子供がいるシングルマザーの私は子供をおいて半日以上出かけたことはありません。週末だけでも行きたいなあ、と思うものの、子供たちのことを思うと悩みます。でも、せっかくアメリカから来てくれるのだから、と思い、母に相談したところ、「いいじゃん、せっかくだから行っておいで。たまにはアメリカの友達と週末出かけたらいいじゃん。子供たちはみているから。」と言ってくれました。子供たちをおいて週末出かけるなんて初めてのことです。日本に戻り五年、子供たちは母がいなくても週末過ごせるようになり、私もやっと自分の時間を持てるようになりました。アニーの全ての行程をお供することはできないので週末だけ奈良に行くことにしました。

奈良

 奈良に来るのはどのくらいぶりかと考えてみると、私の記憶にある限りで奈良に来たのは小学校の修学旅行のときだけです。ということは36年ぶりの奈良です。奈良について思い出そうとするのですが、なかなか思い出せず、唯一覚えているのはどこかのお寺だか神社だかで記念撮影をしたことだけです。なので、私にとって奈良はそんなに思い出深い場所ではないのです。一方アニーは初めての日本観光に備え、訪れたい場所についてかなりしっかり勉強してきており、「奈良に行ったら東大寺春日大社に行くんだ」と決めておりました。

 奈良には奈良公園という歴史的な公園があります。この奈良公園は660ヘクタールという広さの中に、東大寺興福寺といった南都七大寺春日大社などの社寺仏閣が創建、移築され、そのまわりを緑豊かな自然が取り囲み、鹿が歩き、奈良で有名な「大仏」と「鹿」が揃っています。奈良駅から東大寺までタクシーで行くとなんだか一瞬にして36年前、ここを訪れたことが思い出されました。そうです、小学6年生だった私はここで鹿にサツマイモを干して作った鹿せんべいをあげました。「奈良の鹿は礼儀正しいから、ちゃんと一礼してから鹿せんべいをあげてください」と学校で言われ、頭を下げてから鹿に干し芋せんべいをあげたことを覚えています。本当にたくさんの数の鹿を見た小学生の私の素朴は疑問は「この鹿たちの家はどこ?」でした。鹿に家はありません。鹿は群れになり、周辺の林の中で寝るのです。鹿はホームレスだったと驚いたものです。修学旅行での私は白いセーターにチェックのジャンバースカート、赤いバスケットシューズを履いていたことを思い出しました。そうそう、有名な「奈良の大仏」をみあげ、一体このでかい大仏をどうやって作ったのかと友達と話していました。友達のさっちゃんと並んで歩いていたことも思い出しました。東大寺を歩いているうちに12歳だった自分がよみがえってきました。

 アニーによると私たちが到着した日は東大寺二月堂で執り行われる「お水取り」の最終日とのこと。正式には「修二会」と呼ばれ、若狭井という井戸から観音様にお供えする「お香水」をくみ上げる儀式です。毎年3月1日から2週間にわたって執り行われます。夜になると、長さ7メートルの大きな松明を持った童子が観客の頭上に火の粉を散らしながら舞台を走ることで観客を沸かせます。この日に奈良に入ったのも何かの縁、私たちもこのお水取りを見に行きました。日が落ちるととても寒くなり、震えながら人ごみにもまれていましたが、それでも一見の価値のある火の粉の舞のようでした。この「お水取り」が終わると奈良には春が来ると言われています。

 翌日はアニーの希望通り「春日大社」に行きました。鮮やかな朱塗りの社殿が緑濃い中にあります。この春日大社は中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年につくられた神社です。私たちが行った日はちょうど御田植神事が行われていました。八乙女が松苗を植える所作を行う田舞が、神楽男の奏でる田植歌にあわせて奉納される神事です。たまたま行われ拝見できたわけですが、八乙女や神楽男の衣装に私もアニーを感動しました。

京都駅前

 奈良観光を終えると私は子供たちのもとへ、アニーは京都に向かいました。奈良から京都へは一緒に移動し、京都駅で別れました。京都駅に降り立つとまた過去の自分と向かい合いました。最初に京都に来たのはやはり修学旅行でした。奈良よりも華やかな感じの京都の印象は「五色豆」「生八ツ橋」それと「におい袋」でした。そうです、どれも修学旅行で買ったお土産です。でも、京都いえばそれらがまず思い浮かびます。その後、アメリカに住むようになってからアメリカ人の友達をつれて京都に来たこともあります。どこをどう歩いたらいいのかわからなかったので一日ツアーでまわり、時間に追われて走りながら観光しました。最後に京都に来たのは元夫と一緒でした。せっかく日本に来たのだから、と京都に連れてきて、ツアーではなく、一日バス乗り放題で自由に観光をすることにしました。金閣寺清水寺平安神宮、などなどたくさんの観光する神社や寺院があります。一日フラフラになるまでバスでまわりました。外国人ならみんな感動すると思われるところをみてまわったものの、元夫は「ふーん」「へえー」程度の反応でした。あまり歴史や文化に興味ないのかなあ、と思いながら京都駅に戻ると、彼の目は一点に止まりました。それは駅前の「パチンコ」。なんでパチンコよ。歴史的建造物をみても感動しないのに、なんで駅前パチンコに目を輝かせているわけ?「パチンコは日本の文化だ」と屁理屈こねてパチンコ店内に入り、三千円分遊んで満足していた男。私は新婚ながら彼に舌打ちしたことを思い出しました。あのパチンコ店、健在でした。駅前をちょっと歩いただけなのに、なんだか懐かしく過去の自分を思い出しました。

 奈良、京都から戻ると子供たちが私の帰りを待っていてくれました。たった一晩離れていただけですが、子供たちがたくましくみえました。「ママ、おかえり」と言われて、帰る家があることがうれしく思いました。この子達がいるから私には家があり、家族がある。なんてあたたかな存在なんだろう、とあらためて思いました。翌日からはまたいつもの生活に戻りました。子供たちを学校に送り出し、仕事に出かけ、帰ってくると洗濯物をたたんでしまう、そして夕飯の支度をする。子供たちが帰ってくるとまたあわただしく一日が終わりを迎えてしまう。忙しいだけの毎日が繰り返されていく生活。刺激はないけど、安定のある子供との生活。あの週末があったから私はこのなにもない毎日の生活が「自分の生活」だと思えました。

富士山を見に行こう

 翌週末、アニーが戻ってきました。アニーは京都から宮島へ、宮島から大阪へと観光を楽しんできました。月曜日にはまたアメリカに帰っていってしまうので日本最後の週末となりました。愛知県近辺でなにか観光をしたいと思っていたのですが、一年前に腰の手術をしたところが痛み出し、あまり歩くことができない状態でした。それでは車を飛ばして富士山を見に行こうと決め、今度は子供たちも一緒に連れていくことにしました。東名高速道路を富士方面に走るのは我が家では一年に4-5回はあることなので、慣れた旅路です。東名の富士川インターチェンジでまずは富士山をながめることにしました。前日から曇っていたせいで富士山はあまりはっきりとは見えませんでした。でも、頭の雪は見え、「あれが富士山ね」とわかりました。おいしい海鮮料理を食べて、富士山の頭をながめました。思い出すと、このインターチェンジも思い出の場所でした。日本にもどってやっと車を購入し、初めての遠乗りがここでした。当時5歳の息子はまだまだ癇癪起こしたり、騒いだり、3歳の娘はまだまだ幼く、抗がん剤終えて3ヶ月の私にはある種の冒険でもありました。小さなふたりの手をひいて「富士山見えたね。富士山だね」とはしゃいでいました。三人での初めての旅でした。あれから4年。子供たちはずいぶん成長しました。偏食の王様だった息子も今では偏食を克服し、インターチェンジのレストランでおいしく食事もできました。娘は相変わらず買い物好きでお土産を買うんだとはりきっていました。こんなに楽に旅ができるようになるとは4年前は想像もつきませんでした。インターチェンジを出るとまたしばらく東名高速道路を飛ばし、朝霧高原日帰り温泉に行きました。温泉で体を癒すと、4時間の帰途につきました。車の中ではみんなぐっすり。私はその寝顔をみると、家族がいること、遠くまで私を訪ねてくれた友達がいることが本当にうれしく幸せに思いました。

 アニーを送って空港に行きました。私は空港での別れが苦手です。かつては私は見送られる側でした。日本に一時帰国するとアメリカに戻るのが辛かったこともあります。空港で両親に見送られると悲しくて「どうして私はここにいられないのか」とセキュリティーを通り抜けたところで涙をこぼしたこともあります。元夫が子供たちに会いに来てくれたときは空港で見送る側でした。子供たちがうれしそうに過ごしていたのに彼はアメリカに戻って行ってしまう。今度は自分たちがおいていかれるようで悲しく感じました。昨年空港で彼を見送った後、私が「ダダ(ダディのことです)がいなくなるとさみしいね」と言うと、娘は「ママはどうして寂しがるの?ママとゆうちゃんとまあちゃんはいるじゃん。なんでさみしいの。」と強がりを言いました。今度はアニーを見送りました。ずっと一緒に旅していたわけではないけど、2回の週末をアニーと過ごし、久しぶりに出会う友達との時間、そして私が忘れていた自分の過去と再会し、貴重な時間を過ごせたようでアニーとの別れがさみしくてたまりませんでした。「じゃあね、ジュンコ」と笑って手を振るアニー、涙で言葉が出てこない私。空港はやはり苦手です。それでも私は次に来る空港での出迎えを楽しみにしています。