ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2015 二人のわたし

二人のわたし

 

 人はそれぞれの中にいくつかの異なる面を持ち、時としては相反する性格をも併せ持つ不思議な生き物だと思います。多重人格と呼ばれる解離性同一性障害という障害を聞いたことがありますか? それは心因的な障害で、要因としてこの障害の人の多くが幼児期から成長期において精神的な強いストレスを受けていたと言われています。「解離」というのは誰もがあるもので、たとえば目の前で交通事故を見て、血だらけになる死体が真横に転がってきたためめまいを起こし倒れてしまう、というのは正常な範囲です。

 私はずっと自分の中にふたりの自分がいることに気がついていました。そのふたりは同時には現われず、こういうときはこっちの自分、こんなときはもうひとりの自分が出てくるように、私という中心核があやつっているような感じなのです。ちょっと不思議に聞こえるかもしれませんが、「積極的で社交的な強気なわたし」と「人見知りで恥ずかしがりやの消極的なわたし」がいるのです。そして、その場に応じて、「よし、いけ」とばかりに選ばれたわたしがそこで私を演じているような感じがするのです。それは無意識のうちに人格がスイッチするのではなく、時々は意識的にそうしていたり、また別の時は正常な自分と酔っ払った自分のような違いにも似ています。ただ、絶対にふたりが同時に現われることはないのです。

人見知りで恥ずかしがりやの小さなわたし

 私は幼稚園の頃、人前で話すこと、声を出すことすら怯えていました。友達と遊ぶ時は平気なのに、幼稚園に行くと一言も話そうとしませんでした。自分の中ではそれがどうしてなのか覚えていなかったのですが、母が当時の私に訊いたところ、「人が話している時は静かにします」と先生に言われたからずっと静かにしているのだと答えたそうです。それが理由だとしても、とにかく私は幼稚園ではいつも静かにしていました。先生に抱きついたり、話しかけたりするような子供ではありませんでした。知らない人、友達の親に話しかけられるのも恥ずかしかった記憶があります。「私のことを知らないのに、笑顔で寄ってこないで」という気持ちでした。小学校の低学年の頃も同じでした。クラスで発言は一切したくありませんでした。授業中、先生に質問されると、立ち尽くし黙り込んだり、一言「忘れました」と言ってみたり、とても消極的な子でした。でも、テストをやると点数はよく、自分で問題を解く場面になると早く正確にできていました。クラスの係を決めるときは自分の中で大きな葛藤があったことを覚えています。目立つような係をやりたい、と思う一方で、そんなことを言ったらみんなに笑われるという気持ちもあり、地味で誰も立候補しない「清掃係」に名前を入れていました。清掃係がやりたかったわけではなく、そこなら地味で誰も気にしないからでした。

 大人になると地味なわたしは相反する性格のわたしと同居するようになりながらも、基本はこの「人見知りで恥ずかしがりや」なので、多くの場において静かな暗い人というイメージを持たれてきました。例えば、娘の学校においてはママ友とのつきあいも苦手だし、行事に張り切って出かけていくほうでもなく、役員決めになるとじっと黙って隠れるようにしていたり、いるかいないかわからないくらいに静かに潜むような私なのです。まだ二十代の頃、アルバイトで事務の仕事をしたことがあります。、その職場では、おとなしく話が苦手なわたしのまま過ごしてしまい、間違いを指摘されると大きなショックを受けたり、本当にネクラだったと思います。誰も話しかけてこなくて、周りではみんなで冗談で笑ったり楽しそうなのに、私だけ伝票見ながら、「早くこの場から抜け出したい」とばかり思っていました。幼稚園で一言も話さなかった私はずっとそこにいました。そして、今もここにいます。

 

積極的で社交的で強いわたし

 小学四年生のときでした。担任の先生が男性でソフトボール部の顧問でした。私は先生が格好よくみえてソフトボール部に入りました。それまでの地味なわたしならもっと地味なクラブ活動を選んでいたと思います。先生が一体なにをどのように指導してくれたのかは私も覚えていませんが、四年生からもうひとりのわたしが現われ始めました。授業中かまわずおしゃべりをし、男の子たちと一緒に教室の後ろに立たされたり、四人五人の班では決まって班長になり、放課はいつも仲良しの友達と外で走り回っていました。それまでの私とは明らかに違う私でした。でも、その裏にはいつも地味なわたしがそっとたたずんでいました。仲良しの友達がいなかったり、そんなに親しくない子達の中にはいると、黙り込んでしまう以前の私が出てくることもありました。

 中学生・高校生になると、地味なわたしは影をひそめ、強く目立つわたしがいつも前に出ていました。実際、あの頃は私の人生のモテ期を使い果たした時期で、学校でもモテていました。ただ、学年があがりクラス替えになると、クラスに誰がいるのかとても心配でした。知らない子、親しくない子ばかりだとまた地味なわたしに戻ってしまうのではないかと恐れていました。クラスで仲のいい子が休むと不安になりました。それでも私は華やかでモテる自分を維持していました。

 大人になり、脚本家の助手となり、著名な方々とボランティア活動をするようになると、はっきりと自分の意見を持つこと、それを表現することが当たり前で生きるために不可欠ともなってきました。意見を訊かれたときにグジュグジュと困っていたり黙り込んでいたら、そこから私の居場所はなくなります。だから、強くなりました。自分の意見を言うことが普通の行為になりました。人からは「あなたは強いから」と言われるようになりました。

 

ふたりが同居したわたし

 渡米してからは、ふたりのわたしが交互に出てくるようになりました。渡米してすぐに大学に入り、言葉もうまく通じない、友達はいないし、周りで何が起きているかもよくわからない。そんな状況の中、私は地味なわたしでしかありませんでした。学校でも話す相手もなく、授業中も目立たぬようにひっそりと過ごしていました。そうなると強いわたしは出る場をなくし、バランスも崩れました。幸か不幸か、そんな日々は最初の一年くらいのことで、言葉が通じるようになると徐々に強いわたしが顔を出すようになりました。しかし、アメリカ人、特に女性は、私の強さくらいでは太刀打ちできない。そうなると、自然とアメリカ人男性たちの中で過ごすようになり、男友達みんなとビーチに行ったり、ダンスに行ったり、適度な強さと地味さとで楽しく過ごすようになりました。大学での授業中は地味なわたしのまま、それでも教育実習が始まると実習先の小学校では積極的で社交的なわたしが大活躍。そして、それが私の中では普通に入れ替わるようになりました。

 教師になると地味なわたしは出る場を失くしました。教壇に立ったとき、生徒を前に私は大きな声ではっきりと自信を持って話しました。自信のない先生に誰が安心できるでしょうか。声が小さな先生の言うことに誰が聞こうと思うのでしょう。暗い顔した先生に誰が好意を持てるでしょう。そう思ったとき、教壇に立つのは「積極的で社交的な強いわたし」の場面となりました。週末、翌週のレッスンプランを立てるとき、地味なわたしがそっと現われ、ちょっと舞い上がったわたしを落ち着かせます。勤務先の学校の門を通り抜けると、私という中心核が「よし、行こう」と強く積極的なわたしを前に出しました。その日になにか嫌なことがあったりすると、帰り道の車の中で地味なわたしがため息をつきました。

 日本に戻ると、私はなかなか日本の生活に馴染めませんでした。まだ抗がん剤治療もしており、気持ちの中で強く立ち上がる気力もなく、地味で人見知りするわたしが絶対的に支配していました。人と付き合うことも面倒くさく、地味にひっそり暮らすだけで十分だとすら思っていました。抗がん剤治療が終わり、体調が整い、仕事に就くようになると、積極的なわたしが再び出てくるようになりました。アメリカから戻ってきた人というのはこの田舎町では「すごい」に値する人で、静かでおとなしくしているわたしは「ネコかぶり」にすら思われてしまうのです。無意識に私がしでかしてしまうことは「やっぱりアメリカにいると感覚が変わっているのね」と変な意味で受け入れられてしまい、そうなると強いわたしが「よし、これで行くか」と出てくるようになりました。どうせ我が家は「ガイジン」と言われるなら強くいこう、と。どうせ馴染めない日本の風習なら、馴染めなくてもいいから、私が楽に生きていこうと思うと、強いわたしを前に出すようになりました。

 

今のわたし

 今の仕事は障害のある方の就労支援をしています。多くは精神疾患のある方です。精神的に繊細です。支援員という立場から、利用者(通所している人をそう呼びます)の横に並ぶのではなく、彼らをリードしていくため、積極的な姿勢が求められます。私生活が複雑な方も多々います。家族からの理解を得られないため安心できる場がない、家族からの暴言など、大きな荷を抱えている方がいらっしゃいます。職場までもが苦痛にならないよう、私は笑顔で明るく接したいと心がけています。私自身もたとえば、朝から息子のかんしゃくにいらだってしまったり、忙しすぎて大事なことを忘れていたり、イライラを抱えたまま職場に向かうこともあります。そんなとき、「よし、行こう」と前に出すのは積極的で強いわたしです。強い私は私生活を職場に持ち込みません。通勤の車の中で「なんでこうなんだろう」と悩んでいたわたしを車に残し、強いわたしは利用者のみんなに明るく元気に声をかけます。ただ、精神的に繊細な方にとって常に元気がいいわけではありません。強く元気なわたしの度が過ぎるとき、地味なわたしがブレーキをかけます、「ちょっと静かにしてあげようよ」と。

 以前は自分のなかのふたりを認識することもなく、「どうして私は人前で堂々とできるときもあるのに、すぐにジメジメと縮こまって暗くなってしまうんだろう」と不思議に思っていました。それが、普段は地味なわたしで暮らしているのに、人前に立つとなると華やかで強いわたしが出てくることで、生きることが楽になりました。ふたりを認めるようになってからです。なぜならば、地味なわたしは人前ではビビッてしまい、不安でいっぱいになるのですが、人前に立つのは地味なわたしではなく、もうひとりのわたしなのですから心配することはないのです。強いわたしはビビりません。その場になれば中心核の私がちゃんと「よし、行け」と強いわたしを押し出すことはわかっています。ふたりとも私自身だとしたら、私は自分を認めたことで生きることを少しだけ楽に放ったのかもしれません。