ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2015 障害者、障碍者、障がい者

障害者、障碍者障がい者

 

 みなさんは障害者という言葉を聞いたとき、どの字を思い浮かべますか?「障害者」「障がい者」「障碍者」など、いくつかの文字があります。でも、障害を持つ子供の母親として正直なところ、「たかが文字」でしかありません。最近はよく「障がい」という文字で表記されているのをみかけますが、私にとっては「こんなのは健常者のみせかけ」としか思えません。実際、障害者宛に出されている受給者証であったり、市役所からの公文書では「障害」という文字が使われているのです。「障害」を「障がい」にしたからといって障害者に対する態度や支援は変わりません。障害者とは変な人、普通じゃない人、そういった偏見は存在します。ただ残念ながら、人は予測しない事故に遭遇し、それが原因で障害者となってしまうこともあります。また介護していた人がいつしか介護される側になることもあります。子供にとっての社会は学校、成人にとっての社会は職場であったり、地域であったりします。人はいくつかの場面に自分をおき、バランスよく生きることで精神的な健康を保ちます。健常な人には至極当たり前のことなのかもしれません。学校に行って勉強して、友達と遊んで、うちに帰ったら家族との時間を過ごす。この特別でもない子供の生活を送ることが困難な子もいるのです。例えば障害がある故、学校で心無いことを言われてしまう。本当は周りに馴染めない、みんなと同じようには勉強についていけない、それでもがんばっているのに、家族から理解されずにけなされる。それは子供だけでなく、大人になっても同様です。障害があることで本人は苦しみ、乗り越えようと一生懸命生きているのです。周りが障害を理解することで彼らは精神的にずいぶん救われるでしょう。でも、実際、障害者の家族とはいえ、なにも特別な人間なわけではありません。特に後天性の障害を持った人の家族には「そんなはずじゃなかった」という思いもあることでしょう。障害を持った本人も苦しみ、そして家族も苦しいのです。

息子の場所

 私の息子は自閉症です。年齢があがってくると健常児とは発達面で大きく差が開いてきます。体も小さく幼い頃は愚図ってもかわいく、なんとかなっていたものが、9歳になると大変さが尋常ではありません。体は大きくなり、力もあります。声も大きく、愚図った時の規模が幼い頃とは大きく異なります。健常児であれば体が大きくなってくると愚図ったりすることもなくなるでしょう。しかし、息子は9歳になっても3歳のときのように、いやいやそれ以上に愚図るのです。私一人では大変になってきます。私は体のわりに体力も腕力もある方なのでまだ30キロの息子を抱き上げることはできます。でも、それですむならいくらでも抱き上げますが、息子が愚図る理由は年齢と共に成長しており、3歳のころのようなシンプルな理由ではありません。大きな声で泣き叫ぶ息子を相手にしていると、心身共に健常児の子育ての何倍も疲れ果てます。これが毎日では私も身が持ちません。親子共々健康的な生活を送るためにも、息子には居場所をいくつか持つようにさせています。学校、家庭、地域、そして事業所、といういくつかの場所をバランスよく持たせるようにしています。事業所というのは、うちの場合、障害児支援サービスのひとつとして、放課後等デイサービスという支援を受けています。事業所が学校までお迎えにきてくださり、事業所に着くと勉強したり遊んだりして過ごし、時間になると自宅まで送ってきてくださいます。健常児にとっての学童保育のようなものです。学校から直接帰宅する毎日ですと、息子の場合学校でのストレスを抱えたままの状態で大騒ぎになります。それを、学校で嫌なことあっても、それを事業所で学校とは別の友達と遊んだり、スタッフの方に勉強を教えてもらったり、帰宅する前に気持ちを切り替えることができます。その間に、私は仕事後に買い物して帰宅し、夕飯の支度をすることができるのです。そうすると私も「早くゆうちゃん帰ってこないかなあ」と息子の帰りが待ち遠しく思えますし、息子もおうちに帰るのを楽しみにしてくれます。ふだん息子に手が掛かる分、娘のことをみてあげられないこともでてきます。でも、息子が事業所に行っている間なら私と娘だけの時間も持てるので、思いっきり甘やかせてあげることもできます。うちが健康的な家庭生活を送るには事業所は不可欠です。学校、事業所、家庭で、息子はそれぞれの場でいろいろな顔をみせます。それをお互いに話し合うことでいろいろな面から息子をサポートすることができます。たとえば息子が学校でなにかいけないことをしでかしたとします。私ひとりだけで受け止めるには大きなことでも事業所の方と話すことで、私は自分以外にも息子を見守ってくれる人がいると思うと気持ちが楽になります。うちはこうして息子に必要な支援を受けることで、息子も私たち家族も支えられています。

就労支援

 いつか息子が大人になったとき、社会人として生きていくために仕事をするようになるでしょう。現実的にいうと、障害のある息子が健常者と同様に就職活動したところで同じように採用されるのは容易ではありません。障害ゆえ、できないことは多々あります。仕事を健常者がこなすようにはできません。その障害を理解した上で採用してくれるところに就くことが彼にとっては社会人として生きていくのに大切なことなのです。理解されない職場にいることで精神的に病んでしまっては長続きしません。仕事を転々とすることは本人もつらいです。障害者を理解し受け入れてくれる就職先をみつけるためにも就労支援は必要だと考えます。

 私は昨年からいつか息子がお世話になるかもしれない就労支援の仕事に就いています。現在勤めているのは、A型就労継続支援事業所です。いきなり、A型就労継続支援といわれても「なんじゃ、それは」と思われる方もいらっしゃるかと思うので、簡単に説明いたします。障害者の就労を支援するサービスとして「就労移行支援」「A型就労継続支援」「B型就労継続支援」があげられます。

 就労移行支援というのは、障害者総合支援法(旧 障害者自立支援法)に定められた就労支援事業のひとつで、一般企業に就職を目指す障害を持つ方に対して、就労に必要となる知識や能力の向上を目的とした訓練や準備、そして就職活動支援及び就職後の職場定着支援を行います。例えて言うならば、障害のある方を対象とした職業訓練校のような感じです。このサービスを受けられる対象となるのは、障害があり、単独で就職する事が困難であるため、就職に必要な知識及び技術の習得や就職先の紹介、その他の支援が必要な65歳未満の方(利用開始時)となります。

 就労継続支援A型、B型というのは、一般企業での就労が困難な障害者に就労の機会を提供するとともに,生産活動などの機会の提供,その知識及び能力の向上のために必要な訓練を行う支援です。就労継続支援にはA型とB型があります。雇用契約を結び利用するのが「A型」、雇用契約を結ばないで利用する「B型」というふうに雇用契約の有無によって分けられます。工賃はどちらにも支払われます。A型は、一般企業との間で正規の雇用契約を結んだ事業所で行われるものです。なので、賃金体系や労働法規などの適用が求められます。一方、B型は、リハビリや訓練が主目的となるため、賃金体系や労働法規が適用外となります。

 私が勤めている事業所はA型就労継続支援です。私は施設外の支援員として9名の利用者(通所する人をそう呼びます)のみなさんと共に清掃業務に携わっています。私が清掃をするのではなく、あくまでも清掃をするのは利用者のみなさんで、私は見守り、評価、アドバイス、が主な業務で、場合に応じては公私両方についての相談にも乗ります。利用者のみなさんには一般企業への就職を目指し、職場でのマナー、就労における姿勢などをはじめ、清掃業務の基本を学んでもらっています。人が集まれば、相性がいい悪いもあります。みなさん、それぞれに異なった障害や疾患を持っています。私、支援員はその障害の特性を理解した上で、それぞれの利用者さんの性格や家庭環境などを頭にいれておく必要があります。たとえば、精神疾患を患ったがために前職を離職し、今また別のところに就職したいと考えている人がいるとします。この方はもともと頭がよく、むしろ良すぎて人間関係をうまく築けず、精神的に追い詰められた状態になり疾患を患った背景があります。とても神経質な方です。後天性の精神障害のため、家族からの理解は得られず、家庭では家族から暴言が繰り返されます。本来心身を休める場である家庭で理解されないことからストレスは発散されず、職場に持ち込まれます。自分より弱いとみなした利用者さん、たとえば知的障害の方、に対して、自分が家で言われていることをそのままぶつけてくるようになります。清掃業務以前の問題として、人間関係を築くことを学んでもらわないといけません。でも、その方も必死なのです。助けを求めてもがいているのです。職業支援員だからといっても、業務指導だけではなく、就職した際にその職に長く就いていられるようにあらゆる面から支援していかなくてはなりません。利用者にしてみれば、私たちの事業所は職場であり、社会なのです。家庭でバランス崩している方も話すことで気が晴れたり、そこから少しでも人との関係を築けるようになり、そして作業に集中できるようになると、就職に近づいていかれるのではないかと思います。今は息子には放課後等デイサービスがあるので私たちはバランスを保ちながら暮らしています。大人になった障害者は自立も求められるでしょうし、人間関係も複雑になってきます。その中でひとりの社会人として生きていくには周りの理解と支援は不可欠です。息子にはどんな仕事でもいいので、社会人として自分の生活を築いて欲しいです。私は利用者のみなんさんと接する時、支援員として、そして障害をもつ人の家族の思いや願いを考えながら、接しています。

 今、障害者に向けての支援はいくつかあります。でも、それらはどれも「自分を障害者と認めるならば」という前提が込められているように思えます。支援サービスを受けるには障害者手帳を持っているという前提で、その手帳を取得するには「障害があります」と認めることになります。障害は悪いことではありません。でも、障害のある人を健常者の中に入れた上での支援やサービスは見当たりません。障害者のための施設、障害者のための事業所、障害者のためのサービスは本当に障害者を社会の中に受け入れてくれているのか、と疑問を感じます。障害者は隔離されるべきなのでしょうか。そして、障害があるということは本人だけでなく、家族も大変な思いをするのです。周りからの理解されない冷たい視線も感じます。わけわからないことを言い出すわが子にノイローゼになりそうな母親もいるでしょう。その現実に押しつぶれそうになり精神疾患を患う親もいます。私は今も、息子が小学校入学前に受けた教育委員会の教育相談で言われたことを覚えています。「普通学級に障害がある息子さんがいることで、先生はそちらに手が掛かり、結果、他の子供たちの教育の場を奪うことになります」と。健常者の権利を守るため、障害者は与えられた権利をも放棄せざるを得ないのでしょうか。そして、その家族は心無いたった一言を一生抱えて生きていくのです。文字を変えたり、形ばかりの支援ではなく、もっと障害者とその家族を理解した支援ができていくことを未来の日本に望みます。