ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2017 三度目の引越し

三度目の引越し

 

 毎日寒い日が続きます。比較的穏やかな気候のこの地域ですが、先日は雪が降りました。私が愛したニュージャージーの雪こそが私にとっての雪なのですが、この地域では2~3cmの積雪でも地面を真っ白に染めてくれたら立派な雪なのです。前日はみんな、「タイヤどうしよう」「学校は休みになるかな」「食料買いこんでこなきゃ」と大騒ぎでした。雪が降ると、うちでは娘だけが大喜びで外に出て雪だるまを作っていました。息子はベランダで雪遊びをしていたら娘に雪をぶつけられ、あまりに驚いて「もういや。もう雪はおしまい」とうちに飛び込んできました。かつては雪が降ると誰よりも興奮していた私ですが、このくらいの雪ではもうはしゃぐ気持ちが高まってきません。窓から外の雪景色をみながら、ふと「このアパートでみる雪もこれで最後になるのかな」と思いました。五年前、息子が小学校に入学することを考慮し、徒歩数分で通学できる範囲内でみつけたアパートです。そして、先週私たちは引越しをしました。今、あのアパートから徒歩一分、車で五分という距離の、今までよりちょっと広めのアパートに越してきました。

 どんな引越しでも引越しは大変です。すぐ近くだからよかったね、といわれても一体何がよかったのかと考えます。もちろん、300キロの距離の引越しから比べたら、運び込む荷物の選択という点では楽かもしれませんが、いくら近くても荷造りも荷解きもあるわけですから、近いから楽ということはないと思います。日本に戻って七年がすぎ、この七年の間に三回引越しをしました。アメリカから戻るとすぐに実家に転がり込みました。当時まだ抗がん剤を受けていたため、生きることで精一杯でした。子供たちは、まだ幼く抗がん剤を受けながら子供たちの世話をするだけでもう手一杯でした。「生きる」という思いだけ抱えての帰国でしたので、私たちは本当にビンボーでした。日本に生活の基盤は全くなかったわけですから、まず日本での暮らし方がわかりませんでした。今でも覚えているのが、息子の保育園の入園説明で主任先生と持ち物について話しているとき、先生は当然のごとく紙に書かれていることを読み上げていくのですが、私にはひとつひとつ質問していくわけです。例えば、「上履きはバレーシューズをご用意ください」と言われ、「バレーシューズってどんなシューズですか?それはどこにいけば買えますか?」と質問し、「上履きはシューズバッグに入れて週末に持ち帰りますのでお願いします」と言われれば、「シューズバッグってどんなバッグですか?布製ですか、それともビニールとかですか?どこで買えますか?」と訊きました。まず、私はお店を知らないのです。そして、日本の子供たちの生活を見てないから幼稚園や学校でどんな物を持っていくのか想像つかなかったのです。そんな危なっかしい母親と共に子供たちも日本での生活を始めました。抗がん剤を終えるや否や、私たちは三人でのアパート暮らしを始めました。通称オレンジのおうち、燃え上がるような鮮やかなオレンジ色のアパートでした。狭いアパートでした。暖房ひとつあればうち中暖かくなるくらいに狭い部屋でした。それでも、私たちは初めての三人だけの自由な生活がうれしかったです。誰に遠慮もせず、誰かがいきなりノックしたり、ドアベル鳴らすこともなく、三人だけの平和な生活。2DK(2ベッドルーム、ダイニングキッチン)というと聞こえはいいのですが、仕切りのようなドア一枚で区切られた2つのベッドルームはドアを取り外すとひとつの部屋となり、実質的には寝る場と食べる場としゃべる場があるだけのアパートでした。私にとって日本での生活のなにもかもが手探りでした。かつて日本で暮らしていた頃は一人暮らしではなく、実家にいたかシナリオライターの先生のお宅に住み込みでいたかなので、近所付き合いや町内会といったことがどうしたらいいのかわかりません。幸い、この小さなオレンジのおうちは単身者または夫婦だけの少人数生活を対象としていたため、私たちは町内会に巻き込まれることなく、独り者はたいてい働いているので近所付き合いも免れました。このオレンジのおうちでの生活は二年間でした。

 息子が小学校入学を機に、私たちは別のアパートに引越しをしました。荷物はまだまだ少なく、部屋は広く大きくみえました。間取りは3DK(3ベッドルーム、ダイニングキッチン)。決して広いアパートではありませんでしたが、やっとファミリーサイズと呼ばれる大きさのアパートに住むことができました。「ママ、がんばるからね」と、一生懸命働きました。私ひとりで生活を支えるだけ働き、子供の世話をしていると時間はなくなり、時々はヘトヘトに疲れ果てます。楽しみは夜、ひとつの寝室で三人で寝ることでした。子供たちはそれぞれのベッドに、私はお布団に、それでも同じ部屋で子供たちの寝息、いびき、寝言を聞いていると「明日もママ、がんばるから」と思えました。このサイズのアパートに住むと今度は町内会がやってきます。避けられないと覚悟を決めると、引っ越した二年後にとうとう「組長」という役がまわってきました。幸い、隣の部屋の方が優しい方でしたので、早朝草刈りなど私が参加できないときは、組長代行を務めてくださいました。息子が大変なときもありました。子供たちの体が成長すると、オレンジのおうちから持ってきた家具を処分し大きめのテーブル、ソファーを買い、家の中の雰囲気がどんどん変わっていきました。物が大きくなると今度はまたアパートが狭く感じるようになりました。

 娘が「ママ、自分の部屋がほしい」と言い出しました。たしかにティーンエージャーの息子と娘がいつまでも同じ部屋で寝ていていいのかと思うと、「そろそろアパートサイズを変えるときか。。。」と思うようになりました。とはいえ、「アパート狭いから引っ越します」という理由で娘を転校させるのは避けたいものです。同じ学区でも、学校から徒歩一分という距離で慣れているのに、いきなり1キロも離れたところに引越し、娘が毎日片道1キロの道のりを毎日通えるのかとなるとそれも考えてしまいます。またこのあたりでいい物件が出たら考えようと思っていたところ、徒歩一分離れたアパートに空きが出たことを知りました。アパートのサイズは3LDK(3ベッドルーム、リビングルーム、ダイニングキッチン)。部屋はひとつ増え、各部屋の大きさも大きくなります。これなら子供たちに個室を与えることができます。数日間悩みましたが、「ママ、もっとがんばるから」と思うことにしました。そうです、また引越しです。五年間たくさんの思い出をつくったアパートからまた引越しです。

 今、私の部屋の中はダンボールが積みあがった状態です。子供たちそれぞれに個室を与えることができました。日本にもどり、七年が経ちました。やっと人並みの大きさの住まいに、子供たちには自分たちのスペースを持たせ、家族そろって足をのばしてくつろげるリビングルームのある生活を築くことができました。新しい環境になじむことが苦手な息子ですが、「新しいおうちが好き。ユウの部屋で寝る」と大喜びです。娘は「春休みになったら友達をまあの部屋に泊めてもいいかな」と友達を泊まりで来てもらうことを楽しみにしています。うちは母子家庭で、七年前なにもないビンボーから始まりました。働いて、子育てして、やっとやっと人並みになれました。今後はもうしばらくは引越しはないでしょう。子供たちが自立していき、アパートが広く感じてしまう日がきたら、そのときはサイズ縮小のための引越しをするのでしょう。引越しは荷物を詰めるだけでなく、荷物を解くことのほうが大変かもしれません。私はのろまですし、あまり頭の中がオーガナイズされてないのでダンボールがなかなか片付いていきません。

 狭くなったアパート、荷物を運び出すとガランとして寂しそうです。息子の状態が不安定になったこと、子供たちがきょうだい喧嘩していたこと、辛く悲しくて私がひとり涙流していたこと、サンクスギビングやクリスマスにはターキーを焼いてお祝いしたこと、テレビをみて爆笑していたこと、たくさんの思い出のつまったアパートだったはずなのに、なにもなくなると静かな寂しい部屋となりました。不動産屋さんに鍵を引き渡すまでの半日、ひとりで掃除をしました。毎日掃除機かけていたのに、ずいぶん汚れていました。汚れを取ると、そこにはちょっとだけ寂しい顔をしながらもアパートが私たち親子にエールを送ってくれているように感じました。