ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2018 祖父との再会

祖父との再会

 

 私が初めてこのEnjoyに起稿しましたのが2008年9月号です。早9年半もの間、みなさまに私が見ていること、思っていること、感じたことを読んでいただいております。2008年、娘が1歳、息子が3歳。このとき、私は何を見、何を考えて毎日過ごしていたのでしょう。私が書く理由はいくつかありますが、大きな理由のひとつには子供たちの中に私を残したいという思いがあります。私は2007年まではアメリカで教師をしておりました。2007年の娘の誕生を機に退職し、専業主婦となりました。専業主婦となり、毎日ひたすら家で子供たちとの生活を送っておりました。良くも悪くも私は時間のある人となりました。あるとき、こんなことを思いました。子供たちが大人になったとき、「ママは私たちが子供の頃、何していたの?」ときかれたとき、私はなんて答えたらいいんだろう、と。「ママは社会をみていた」「ママは世の中に不思議を感じていた」と言ったところで、子供たちはそれを明確に想像できるとは思えません。例えば、教師であったなら、「ママはこんなことしていた」と生徒からの寄せ書きなんかをみせたりもできるでしょうが、そういう証拠となるものはないのです。家にこもる私を社会に出そう、というのは事の始まりでした。

 私は子供の頃から物書きになりたいという思いがありました。私は祖父からの影響を大きく受けました。祖父は父方の祖父で、地元ではわりと有名な人でした。元々は教師で、校長先生となり、教育委員長になり、そこから県管轄の所長や署長を勤め、その後市の助役になった、県と市の両方で仕事をした人でした。祖父は自費出版ではありましたが数冊の本を書いたり、詩吟、笛、いろいろなことをしておりました。人からは「弥一郎先生」と呼ばれておりました。私が小学生の頃は祖父は地元では有名で、私の学校にも祖父を知っている先生もいました。私は「弥一郎先生の孫」でした。中学生の頃、祖父は体調を崩し、入退院を繰り返す状態でした。私は時々祖父に手紙を書いていました。そして、祖父も私に返事をくれました。私が部活動のことを書くと、おじいちゃんは「よくがんばっているね」と応援してくれました。おじいちゃんは「お地蔵様は照りつける暑さの中、文句ひとついわず、じっとして居られます。そのような強さをもつ人でありたい」と言っていたことを覚えております。その頃から私は祖父が「おじいちゃん」だという気がしました。小学生のころは運転手付きの黒い車に乗って、いつも仕事に出ている人だと思っていました。私が祖父をおじいちゃんと感じた期間は短く、おじいちゃんは私が高校一年生のときに天国へ旅立ちました。

 祖父がいなくなった後、時々祖父の遺した本を読むようになりました。本の中は多くは詩で、昔の祖父の私生活を垣間見るような気がしました。私はまだまだ子供でしたので、実際には祖父が社会で人とどんなふうに過ごしていたのか、他人にどういう話し方をしていたのかは全く知らないのです。私の記憶にあるあのころの祖父は、まるでテレビの中でみた人のような距離を持っていました。

 不思議なことはあるもので、先日ちょっとした偶然から祖父が市教育の会報に書いた記事を目にする機会がありました。それは昭和49年3月、私が8歳のときに祖父が書いたものでした。タイトルは「恩愛われを去りぬ」、なんだか難しくてなにが書いてあるのかはっきりとわからないのですが、祖父が市の助役という役職でこの記事を書いたのだと思うとなんだか市役所をスーツ姿で歩く祖父を想像してしまいました。記事には祖父がまだ若い教師だった頃の生徒のことが書かれており、おじいちゃんが学校の先生だったのは本当なんだと不思議な感動を覚えました。それはよくわからないながらも、運転手付きの黒い車に乗っていた祖父が見て感じていた現実の世界が描かれていることを思いました。祖父があの原稿を書いたときから44年たった今、私は祖父のみていた空、祖父が吸っていた空気、祖父が歩いていたアスファルト、祖父が開けたドア、そして祖父が生きていた証の一部、もしかしたらたった一瞬のことだとしても、私はそこに祖父を感じるのでした。

 たった1ページにも満たない祖父の記事を発見したことにより、私は祖父と再会した気がしました。私が今、原稿を書くことで、子供たちは40年後、私の目を感じてくれるでしょうか。私が世の中をどのように見ていたのか、私は子育てをどう感じていたのか、私は日本の福祉をどう思っていたのか、私は息子の障害をどのように受け止めていたのか、そして私はどんなママだったのか。私は40年後生きていないかもしれません。そのとき、子供たちは私の書いたものを読むことで私と再会してくれるかもしれません。そのときのため、私は今日もまたキョロキョロ社会を見回しているのです。