ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY2019 カンボジアの胡椒

カンボジアの胡椒

 

 たまに過去を振り返ったりするのだけど、どうも私の脳は都合よく記憶を処理する傾向があるらしい。高校生の頃、それは私の人生最高のモテ期、その頃の記憶は鮮明なのに、あまり覚えていたくない頃の記憶はかなり間引きされ、当時の自分の年齢すらあやふやになってしまっている。私が東南アジアの国に魅了されたのは、おそらく23歳くらいからの数年だったと思う。魅了された、というと語弊があるかもしれない。でも、嫌いでなかったことは確かで、だから3年という期間タイとカンボジアに住んでいたのだろう。

 1990年、私が師事していた脚本家の先生始め著名な方々が集まりボランティア団体が結成された。当時、海外で活動することに興味を持っておりました私はすぐさま飛びついた。私が初めて、海外ボランティアに参加したのは、1991年12月のこと。タイ国境の難民キャンプへの視察だった。翌年からカンボジアに携わるようになった。タイ国境の難民キャンプからカンボジアへ戻ってきた帰還民受け入れのお手伝い、そしてポルポトによる知識人虐殺のため、教育が崩壊されたカンボジアでの学校建設へとわたしたちの活動は移っていった。そして、東南アジアでの活動に興味をもった私は個人的にタイ北部に住み始めた。そこで、村の女の子たちがバンコクの歓楽街へ出稼ぎにいくことをストップさせ、職業的スキルを身につける支援活動に参加することになった。

 今思うと、あの頃の私は、ボランティア団体のユニフォームであったオレンジ色のTシャツを着て汗だくに走りまわっていたように思える。どうしてカンボジアだったのか、どうしてタイだったのか、理由はわからず、それはまさに自分探しの山道にさまよっていたのかもしれない。あの頃、たくさんの日本人ボランティアとの出会いがあった。ボランティアに酔いしれる人はたくさんいたものの、私が出会ったカンボジアに酔いしれている人はたった一人だった。その人は変わっていた。倉田くんという大学生。当時私はタイに住んでおり、カンボジアでボランティア活動があるときに出勤するような感じで参加していた。なので、倉田くんと会うのはカンボジアのみで、彼が日本でどんな学生なのかはまったく想像もできなかった。なぞめいていた。「自分の部屋にはカンボジアの国旗が飾ってある」とか「彼女が、私とカンボジアとどっちが大事なの?と訊いてきたから、カンボジアだとこたえた」とか、一体この人は何者だ?という印象だった。カンボジアで生きていきたい、と語る彼の目は輝き、きっとこの人はカンボジアに骨を埋める気なんだろうなと思っていた。しかし、当時のカンボジアで彼は一体なにをして暮らしていくつもりなのか、私には想像できなかった。永遠にボランティアを続けていくのか、どこかの特派員かなんかになって住み続けていくのか、カンボジアの女性で出会って家族をつくって住むのか、いずれにしても倉田くんはカンボジアのどこかに居続けるんだろうな、と思っていた。

 1995年、私はタイ、カンボジアから離れることになった。あまりにいろいろなことに巻き込まれ、心身ともに疲れてしまっていた。その1年半後にアメリカへ渡った。以来、私の中で、カンボジアは色あせた思い出として処理されてきた。思い出すことはあっても、懐かしいという気持ちは起きなかった。ずっとずっと私の心はカンボジアでの思い出をアルバムの中の写真と化し、動画の再生はできないようになっていた。

 時が流れ、オレンジ色のTシャツを着て汗を流し走り回っていた私も今では50すぎたおばさんになってしまった。アメリカと縁はあっても、もうカンボジアに関わることもないだろうと思っていた。ところが、昨年春、カンボジアでの学校建設支援に携わっているという今勤めている福祉施設の役員が、カンボジア土産だと胡椒を買ってきてくれた。「この胡椒さあ、ホントうまいんだよね。風味が他の胡椒とは違うんだ」と言われたが、「カンボジアの胡椒?胡椒なんてどれも同じでしょ」と思っていた。そのまま、夏を迎え、秋を迎えた。しかし、冬になり、胡椒のパッケージをみた瞬間、私はハッとした。「Kurata Pepper」、まさか、あの倉田くん?いやいや、そんなわけないか。

 Kurata Pepperのブログやフェイスブックをみてみると、そこにはあの頃と同じ目をした倉田くんがカンボジアの胡椒畑に立っていた。目をキラキラさせて、「カンボジアで生きていくんだ」と語っていた倉田くん。私の中で写真となっていた思い出が動き出す気がした。暑かったカンボジア、土ぼこり、バイクタクシー。。。倉田くんは今もあの国にいる。

 一時帰国していた倉田くんに会いに行きました。マーケットに出店していたKurata Pepper。そこにいたのは、オレンジ色のTシャツではなく、緑色のエプロンをつけた倉田くんだった。「倉田くん!」26年前そう呼んでいたように、私は倉田くんに声をかけた。

来月号に続きます。