ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2019 小さな当たり前

小さな当たり前

 

 みなさんは普段の生活の中で当たり前となっていることがありませんか?たとえば、毎日決まった時間に起きて、家族全員があわただしく支度をして、それぞれが決まった時間に出かけていくとか、会社に居る間は特に大きなこともなく同じような毎日が過ぎていくとか。もっと言えば、朝子供たちは学校に行き、夕方帰ってくるとか。この当たり前のようなことがなにかのきっかけでできなくなったとき、みなさんは当たり前のように「ま、いいか」ですませられますか?実際にそうなるとこれって結構こたえるものなんです。

 うちはわりと普段の生活の中の当たり前だと思っていることが崩れてしまうことが頻繁に起こります。避難訓練のように予告があっての練習ならいいのですが、毎回本番が突然訪れるので、刺激のある日々を送っているのかもしれません。当たり前のように、夕方子供たちが帰宅し、そのあとは荷物の片付けをするように声をかけ、その間に私は夕飯の支度をし。。。となるはずが、この梅雨の時期はある日突然息子が帰宅するや否やパニックを起こすことがあります。そうなると、そこで息子の行動はいつもの状態とは異なります。私もいつものように夕飯の支度をしている場合ではありません。娘を塾に送っていく時間もずれてしまいます。そうなると我が家の夕飯の時間も遅くなり、結局は私の就寝時間がいつもより一時間遅くなってしまうのです。こんなふうに時々起こる息子のパニックで、普段の当たり前は我が家では当たり前ではなく、理想の形として送っていることに気付かされるのです。

 私は子供のころから毎朝新聞が配達され、読む読まないの関係なく新聞がテーブルの上にあるのが当たり前でした。アメリカにいたときも地元の英字新聞を毎日購読しておりました。だから、日本に戻り、親子三人でのアパート暮らしを始めたときも電気、ガス、水道を通してもらうのと同様に新聞の配達も引っ越した翌日から開始してもらいました。子供たちはまだ小さく新聞を読むというより、チラシをみたり、息子はスポーツ欄が好きでそこだけいつも開いた状態にしていました。私は基本的に一面に目を通すとあとは地元記事をみて、テレビ番組欄をみるくらいで、時間がないとそれすら見ることなく、新聞紙入れにしまっていました。「新聞を読む」という時間はなかなかつくれませんでした。

 四年ほど前かな、息子が難しくなってきた頃、息子は新聞にこだわりを持つようになりました。新聞を床に広げ、スポーツ欄を何回も何回もみるのです。新聞を畳もうとしてうまく畳めないとイライラするらしく、キッと苛立ちの声をあげました。そのうち、それが30分以上かかるようになり、朝の出かけに支障をきたすようになりました。私自身も新聞を見る時間すらなくなり、娘はまだ新聞を読むことはなく、我が家で新聞紙は息子の癇癪を誘い出すリサイクル物品でしかなくなりました。配達を止めることにしました。以来、我が家ではニュースはテレビかインターネットをみるようにし、新聞は我が家から姿を消しました。

 娘が中学校に上がり、中間テスト、期末テストの社会には時事問題が出るから新聞を読むようにと言われてきました。今や娘は私よりも漢字を知っているし、新聞を読む年齢になったのです。そして、主人も日本語の新聞を読みたいと言います。かつては新聞を読むのは私だけで、私が読む時間がないことで止めていたのですが、世代交代といいますか、娘と主人が「新聞を読む人」となりました。四年ぶりに我が家に新聞が配達されてきました。誰よりも喜んだのは娘でも主人でもなく、息子でした。たかが新聞、されど新聞、息子は新聞のスポーツ欄を開いては満足げに写真を見て、また畳み、そしてまた開いては写真をみてうれしそうにし、畳む。その繰り返しなのですが、本当にうれしそうなのです。配達が再開した朝、「新聞来たよー」というと、娘と主人が足早にリビングルームにやってきました。

 「ママ、明日も新聞くる?」息子がきいてきました。「うん、来るよ。明日も明後日も、その次もずっと毎日、新聞くるよ。これから朝はユウちゃんが新聞を取ってきてね。」「はーい」息子は待ちに待った大切なものが毎日やってくるかのようにうれしそうな笑顔です。朝刊が配達される、かつては当たり前だと思っていたことが、我が家ではこんなにも歓迎されるイベントとなっていたのです。私は生まれてからずっと新聞が配達されてくることが当たり前の生活を送っていました。むしろ、新聞が配達されない生活になれることに違和感を感じるくらいでした。でも、息子、娘、主人にとっては新聞が毎日配達されることが新鮮で、喜びを感じているのです。小さな当たり前も、失くしてしまうとその大きさに気付くのでしょう。そして、それが再び戻ってきたとき、それは大きな喜びとなり、当たり前ではなくなっているのです。私はできることなら、大きな喜びはなくてもいいから小さな当たり前を失わないようにしたいです。当たり前は当たり前ではないと普段から知ることが大事ではないかなと思います。