ENJOY アメリカ・ニューヨーク 日系情報誌連載エッセイ集

アメリカ・ニュージャージーで過ごした生活の中で私が見ていた景色

ENJOY 2012 親子

親子

 

 先日、久しぶりに古い友達から連絡がありました。彼女は元夫のDVが原因で子供を連れてにげるようにして離婚しました。あの頃まだおっぱいを飲んでいた赤ちゃんが今ではおしゃれ大好きな二年生になったとのこと、よその子供はあっという間に大きくなるように思えます。彼女の子育ても並大抵のものではなく苦労だらけでしたが、子供の笑顔に支えられてきたと彼女はよく笑っていました。そんな彼女が先日の電話でこんなことを言いました、「最近あの子がかわいくないときがあるの。父親の記憶なんてまったくないはずなのに、なんだか顔つきやしぐさ、特に嫌なくせがそっくりなの。みてるとあの頃のあの男のことを思い出してイライラするの」と。だからといって彼女が子供を虐待しているわけではなく、ただ「いくら一人で苦労して育てていても、子供のなかにある父親の血は消せない」という悔しさみたいなものを感じました。

 

 友達のひとりで、彼女のお母さんにそっくりな子がいます。顔もそっくりだし、背丈も同じ、ただ年齢的に体形は微妙に違いますが、話し方も声も似ていて、似た者親子ってこういうことなんだというくらいにそっくりなのです。しかし、彼女はお母さんが好きではないといいます。いつも「私はお父さんに似てるから。お母さんみたいにねちっこくないし、キンキン声で話さないもん」と言っています。でも、他人の私から見たら間違いなくそっくりな親子。彼女にとっては、お母さんはあまりに似すぎていて、自分をみているようで嫌なのかもしれません。先日、子供たちを連れてうちに来たときに言っていました。「最近、子供たちを怒っていると怒り方が母にそっくりで嫌になるんだよね。私が子供の頃、母は外では優しいんだけど、うちではネチネチ言ったり、いきなり怒鳴ったり、すごい嫌だったの。自分が嫌だと思っていたのに、最近私も子供たちにネチネチ言ってしまったり、それでもきかないと怒鳴り飛ばしてしまうし、嫌だなと思っていた母親像がそのまま私にとりついたみたいでね。」自分の嫌だった母親の一面と自分が同じことをしているという自己嫌悪からきているのかもしれません。お母さんという人格を否定したり嫌ったりしてるわけではなく、その一面が嫌でそれが自分の中にもあるということのように思えます。

 

 親子というのは不思議なものです。記憶にないほど会っていなくても、どんなに親のことを嫌っても、子供は親に似てくるのです。生活環境から似てくる部分もあれば、生まれる前から遺伝されているものもあります。私も最近、うちの子供たちをみていると不思議なものを感じます。娘の食べ物の好みが主人によく似てきたのです。私はアメリカにいたときから子供たちは和食で育てましたし、忙しくて朝食以外はほとんどうちで食べなかった主人なので娘が主人の好きな食べ物を知っているわけありません。キャンディーが好きで、甘いものが大好き、食事はチキンが一番好きで、次は脂身の少ない薄切りのビーフ。食べ物の好みは生活環境から伝わってくるものだと思いますが、不思議です。息子にいたっては、体の部分が本当に主人に似てきました。主人はよく「ハンサムでかっこよくてぼく似であることは間違いないけれど、ひとつだけ似てない部分があるんだ。それは耳だ。君のでかい耳に似てしまった不幸をぼくはどう詫びたらいいのかわからない」などと失礼なことを言っていますが、確かに最近の息子は耳以外は主人に似てきたようにも思えます。爪の形、プリンッとまん丸のおしり、足の形、頭の形や小さな顔、よくもここまで似てくるものだなあと感心してしまうくらいです。息子のファーストネームは主人と同じです。だから移ったんだわ、と言えば、「ぼくらの名前はハンサムガイになる運命なんだ」と言います。まったくもって自分大好き男の主人ですが、幸か不幸か息子も同じく自分の容姿が大好きなのです。大きなガラスドアの前でポーズとっていたり、鏡に映る自分の顔にみとれたり、「ゆうくん、自分の姿が大好きなんだね」とみんなに言われています。こんなところまで似るものなんですね。

 

 四月は、日本では入園、入学、就職とピカピカの制服やスーツに身を包む人々をみかけます。我が家も息子が小学校に入学いたしました。それにあわせてか、たまたま彼の春休みと重なったか、いずれにしても四月に主人が会いに来てくれました。私たちにというより、子供たちに会いに来たのですが、それでも子供たちが喜ぶ姿をみるのはうれしいものです。二年ぶりです。二年というのは、私にとってはただただ老化していくだけで、顔にはシミもシワも二年分しっかり刻み込まれ、物忘れは激しく、自分でも「この人なんとかしてよ」といいたくなるくらいに困った人になっているのですが、子供たちの二年というのは大きな成長があり、体もずいぶん大きくなります。当時三歳だった娘も今では五歳、四歳だった息子は六歳になり小学一年生になりました。こだわりと癇癪がひどかった息子もずいぶん聞き分けがよくなり、今の私たち三人の生活の中では唯一の男として頑張っています。とんちんかんなことを言っては愚図っていた娘はしっかりとして、私を支えたり、相談相手になってくれる優しく頼もしい娘であり、息子にとってはなくてはならない妹となりました。成長した子供たちを主人はどう思ったでしょう。

 

 二年ぶりなのに、子供たちは主人を自分たちの父親として普通に受け入れました。娘の記憶の中に主人はどのくらいの存在だったのかわかりませんが、空港で主人を迎えた五分後には娘は主人の背中にいました。主人の背中でうれしそうに笑って「ママ、みてぇ。まあちゃんのほうが大きいよお」とはしゃぐ娘を横目に、息子は「ぼくのママだからな」とある種の敵意を主人に向けて私と手をつないでいました。

日曜日に四人でフラワーパークにいくと、娘は念願の肩車をしてもらいました。うれしいんだけど照れくさそうに笑う娘をみていると、こういうことは私にはできないなあと母親は父親にはなれないことを思いました。息子はといえば相変わらず私と手をつないで歩きます。これがいわゆる「ダディーズ ガール」と「マミーズ ボーイ」なのでしょう。ふざけて主人が私をさわろうとすれば、息子は怖い顔で「だめー!」と言い、娘はケラケラ笑っていました。

 

 こんなふうに「家族」という時間を過ごしたのはもしかしたら初めてだったかもしれません。私たち夫婦はいつもすれ違っていました。私と子供たちはいつも一緒、主人は空を舞う蝶のごとくでした。それでも私は主人を憎めませんでした。なぜならば、私の大事な子供たちの父親は彼しかいません。子供たちの大事な人をどうして憎めましょう。同様に彼も私を子供たちの母親として大事にしてきてくれました。私が病気になり、疲れ果てて日本に帰ってきたときも「子供たちに不自由だけはさせてはいけない。必要なことやものは言ってくれ。そして子供たちにぼくからの愛を常に届けてくれ」とだけ言われました。だから、私は子供たちにはいつも彼の話をし、彼らの記憶から父親が消えないようにし、毎週電話で話し、玄関には彼の写真を私たちの写真の横に飾りました。子供にとって、親同士が憎しみあうのは悲しいです。私たちはふたりとも子供を悲しませることだけは避けたいと思っています。

 

 主人がニュージャージーに戻り、また今までと同じ生活に戻りました。でも、なにかが変わりました。主人は息子の小学校にあいさつに行き、滞在中は送り迎えについて来てくれました。同様に、娘の保育園にもあいさつに行き、送り迎えも一緒でした。子供たちの毎日の生活の中に「ダダが一緒にきてくれた」という足跡が残りました。そして、娘がいきなりダダのことを「まあちゃんのお父さん」と呼ぶようになりました。あんなに「アメリカには戻りたくない」と言い張っていた娘が「今度いつお父さんに会えるかなあ。アメリカにいこうか。」と言うようになりました。私も元気になってきました。もう少しお医者さんの検査を続けて、そろそろ帰る支度を始めるときがきたのかもしれません。親子の絆は誰も切れません。私はママであると同時にうちの両親の娘でもあります。母とは何度も喧嘩し、「もう二度と会いたくない」と言いながらも、昨日も今日も明日も「別に用はないけど寄っただけ」と顔をあわせています。親子とは、どれだけの言葉をつかっても説明しきれない複雑怪奇な関係なのかもしれません。でも、もしも一言で親子を表すとしたら、私はそれは「愛」だと思います。